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【深い社会】08 「鬼滅の刃」を美しいと思う気持ちは本物か

何より感動したのが、鬼滅の刃19話の最後の立ち回りでした。
たいしたことないなと思っていた感覚が一気に覆りました。

そのシーンを美しいと感じた私の心情は、あきらかに本物だと思います。
では、どのような仕組みで、私は美しいと判断しているのでしょう。

カントはまず、人間の認識を3つに分けています。

そのもの自体を認識する・・・感性
(炎の光、剣技、スピード、を認識する)

認識した情報を組み合わせて概念として捉える・・・悟性
(懸命に敵に切りかかる主人公)

概念を組み合わせて、推論する・・・理性
(一生懸命な主人公の姿は美しい)

そしてカントは言います。
「判断力は、この悟性(感性含む)と理性の橋渡しをする能力である」

なるほど、概念として認識しなければ、判断の対象が明確になりませんからね。
「美しい!」「良い!」と叫んでみても、「何が?」と、相手に通じません。

さらにカントは続けます。
「自然は自ら美しくあろうとは思っていない。
ところが人間は自然を美しいと感じてしまう。
つまり両者の目的は一致していない。これを目的なき合目的性と言う。
この合目的性を感じる時、人は快感を得る。」

はーー?

この考え方を理解するのに1週間かかりました。
おそらくカントが伝えたいことは次のようなことです。

例えば、校長先生が鬼滅ファンになり、私に言います。
「小川先生!鬼滅の刃最高だよ。ぜひ見てみて!」

私は、校長が言うほどならば・・・と見てみることにします。
校長が言うので、つまらなくても我慢します。
そして最後に確かに良いと感じます。

「校長先生、おっしゃる通り、鬼滅の刃、良かったです。」

さあ、これは本当に良いと感じているのでしょうか。
ビミョーです。
私の判断に別の何かが混ざっています。
感動も減ってしまった気がします。

私が確かに自分自身で、美しい!良い!と感じたのは、
子どもにすすめられても、正直信じていなかったからです。
信じていない・・・「無関心」だったからこそ、心底美しいと感じたのです。

この、「無関心」を基準に感じられる判断こそが、
カントの言う本物の美しさの判断です。
無関心だったからこそ、美しいと感じ、快感を得ることができたのです。

ところが、ここで、ヒュームの問題が絡んできます。
美しさを感じる判断力が、その人の経験によるものだとしたら、
美しさの基準も人それぞれのはず。
「だったら、なんで、みんなが美しいと感じる『名作』が存在するんだ?」

このように、二つの考えが互いに成立してしまい矛盾する状態を
アンチノミー「二律背反性」といいます。
カントの哲学はこのアンチノミーを設定して解決しようとするところから発展します。

カントは美しさの基準については、結局、
「みんな同じ人間だから・・・。」
と結論付けてしまいます。これはちょっと解せないですね。

ともかく、私が感じた美しさは私の経験による本物と聞いて
ちょっと一安心です。

さあ、ここで、さらにカントは謎の言葉を残します。

「美的判断は、道徳的判断と一緒。」

「えーーー!?」

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