【深い社会】07 「鬼滅の刃」を良い作品だと思うのは、私だけか。
鬼滅の刃の19話を見て、驚き、感動する私の心象は、明らかに私の経験に基づいています。
これが良い作品だと判断したのは私です。
でも、だからと言って、芸術としてよい作品であると結論づけてよいのでしょうか。
ここで、やっと「カント」の登場です。
百科事典でぶん殴られて、回り道をして、また、お会いしました。
カントの三大批判書と呼ばれる著作があります。
「純粋理性批判」
「実践理性批判」
「判断力批判」
の3冊です。
「批判」と言うと、なんだか、攻撃的な印象がありますが、
厳密には「~て何だろう」つまり、
「純粋理性て何だろう」
「実践理性て何だろう」
「判断力って何だろう」
という内容の本を意味します。簡単そうでしょ。
これが、チョー難しい!!
間違っているかもしれませんが、なんとか話を進めてみます。
まず、カントは判断力批判の中で、ヒュームの美的判断に立ち向かいます。
「良い作品は、批評家が良いって言ってるからだ!」
という、主張です。
立ち向かうのですが、まずはその前に、判断力って何だろう、と丁寧に分析します。
私たちが判断するのは、どんなときでしょう。
A ファンが言いました。「鬼滅の刃最高!」本当かなあ?本当だ!
→別の誰かが考えた命題が本当かどうか検証するときに判断します。
これを【規定的判断力】といいます。
B 鬼滅の刃・・・良い作品じゃないか!
→誰に言われるまでもなく、自分で経験して判断します。
これを【反省的判断力】といいます。
反省的判断も、いくつか分かれます。
B-① このアニメ作品は、マンガ原作をよりよく表現しようとしているな。
→自然の目的と見ている人の目的が一致しています。
これを【目的論的判断力】と言います。
B-② 鬼滅の刃、深夜アニメなのに、国民的作品だ!
→自然の目的と見ている人の目的は一致していません。
これを【美学的判断力】といいます。
芸術としてのよしあしの判断力は、この最後の「美学的判断力」を指す、とカントは言います。
めんどくさいんですが、こういうことを丁寧に丁寧に振るい分けないと、
本当に知りたい知識が見えてこない、というのが哲学の主張です。
ああ、めんどくさい。
では、その美学的判断力のどのような原理が、
私に「鬼滅の刃は良い!」と思わせるのでしょうか。
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