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【深い社会】09 赤信号を渡らないことに感動することは可能か

あるとき、先輩教師が言いました。

「学区では、絶対に赤信号を渡らないよ。」

この言葉を聞いて、
へー、と私は感動しました。

いや、ちょっと待て。
冷静に考えて感動する場面か?

「学区では、赤信号を守る」
考えてみれば、学区でなければ守らないんかい!と突っ込むべき内容です。

では、どうして私は感動したのでしょう。

赤信号を渡らない・・・道徳的な行動です。
赤信号を渡る・・・合理的な行動です。
大人なら分かりますが、このような合理的判断はよくあることです。

道を歩いていて、約束の時間に間に合わない時、
それでいて、車の通る様子が見られない。

または、
見渡す限りの田舎道。そこに信号機がポツン。
赤信号を守る必要性が感じられない。

様々な合理的判断を、大人はしています。

反面、「学区では、赤信号を守る」に感動したということは
そのような合理的判断よりも、さらに上位の判断基準が存在することを示します。

それは教育上の判断です。
例えば、約束の時間に間に合いそうになかったとしても、

もしも自分が、自分の子の手を握っていたとしたらどうでしょう。
もしも、そばに小さい子がいて、あなたのことをじっと見ていたらどうですか。
その目に映る自分の姿を想像し、赤信号はわたりませんね。

カントはこのような時の判断を分析しています。
まず、「赤信号はわたらない」「約束の時間は守れ」と言うような道徳の基本を『定言命法』と呼びました。
そもそも一つひとつの意味を考えてみれば、赤信号を守るのは事故を防ぐためですし、
約束の時間を守るのは、相手の信頼を損ねないためです。
しかし、日々の生活で私たちは、そこまで考えて行動していません。
自分で自分のルールを決めて、それに従って行動しています。

このルールを守るだけでは、感動しません。
そこにはルールを守らない事例がなくてはなりません。

例えば車の運転をしていたとき、私たちは赤信号を守ります。
事故を起こした時のリスクが非常に大きいからです。
法制上も守らないと厳しく罰を受けます。

たまに、赤信号を守らない車を見かけます。
そんなとき、私は舌打ちして「危ないなー品性が足りないなー」
と、軽蔑します。

実は、この悪感情が、判断の基本となります。
私たちの生活の中で、このような「道徳的軽蔑」はたくさんあります。
悪感情があるからこそ、その中での道徳的行為に対して、私たちは尊敬の感情をもちます。

赤信号を渡る大人の合理的判断を私たちは認めます。
でも、どこかで、チクッと良心が痛んでいます。

それに対して、先輩教師が、「学区では渡らない」と宣言したということは
教師としての職務として、合理的判断を捨てる、ということを宣言したということです。
そこに、私は尊敬の感情を感じて快感を得たわけです。

この構造は、実は美的判断と同じ構造です。
美しさは無関心を基準に合目的性を感じて快感を得る。
尊敬は軽蔑を基準に合目的性を感じて快感を得る。

そもそも美は道徳感の究極的な姿だ、とカントは言います。
振り返ると、カントは批判書三作で、人間の認識・思考過程を分析しました。

純粋理性批判・・・人間の認識「真」を分析
実践理性批判・・・人間の倫理観「善」を分析
判断力批判・・・人間の判断力「美」を分析

3セットで、「真善美」です。
真から善を見つけ、美に至る。
この概念は、明治大正時代の倫理学理解の基礎を作っています。

「かくてなほあくがれますか真善美わが手の花はくれなゐよ君」
                                  与謝野晶子

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