それは、ほっこり、ふっ…と、肩の力をぬいても赦される非日常で、日常。
自営業をしていた背中を眺めていた時間
朝ご飯は7時。
昼ご飯は12時。
夕ご飯は17時。
昭和を生き抜いた父方の祖父母達が、毎日毎日繰り返していた、同じ日々で、同じではない時間。
建具職人であった祖父は、私にとっては無口で取っ付きにくく、タールも匂いもキツい赤い駱駝の煙草を吸っていて、安い日本酒と時代劇と相撲を愛する人という思い出が強い。それでも孫の幼稚園バスのお迎えに、いそいそと足を運んでもらえるくらいには……さり気ない? 愛情を? 注がれていたんだとは思う、多分。おそらく。
周り曰く、不器用な人だったらしいので。
職人らしい付き合いも広くて、お茶の時間や夕飯の時間どちらかにはお客様が必ずいた。粗っぽくて、怖い時間で、だけど言われるままにお茶を出したし、お酒を注いだし、何の疑問も持たずに【純粋な大人の悪意】に晒されていた。当時はそれが当たり前だった。
嘲笑されるのも当たり前、愚痴の捌け口になるのも当たり前。そんな感じの幼少期を過ごしていたので、自分を守るために記憶も朧気になっている自覚も持っている。
詳しい話は、またいつか気が向いたら別の話として書くかもしれない。
お茶とともに、ひと休み。
彼らがとても大事にしていただろう時間。今となれば、とても効率的だったのかなと思う。
10時。お茶の時間。
15時。お茶の時間。
時には仕事場の片隅で、時には茶の間で。
お煎餅や羊羹など。日によって同じだったり別だったりしたけれど、お茶請けセットみたいなものが必ず用意された。準備された菓子は、誰が作っていたのか買っていたのかどこから貰っていたのかも私は知らないし、これ持ってっての言葉以外を覚えていない。
ただ、毎日毎日同じ時間に必ず集まってそれぞれの湯呑から茶を飲んで、好きな菓子を口にする。終わる時間は日によって違っていたけれど、始まる時間だけはいつも、必ず同じだった。
いなくなった背中は、はるか遠い
あの時間は、いったい何だったんだろうな。
多分、現在も有効な手段で、色んな場面でちゃんと通用する、リセットボタンのような時間だったんだと思う。
当たり前に享受していたけれど、都会に存在する場所ではあまり取ることがない時間と知ったのは、この土地を離れてから。
わたしの中の普通が通用しない、普通じゃないせかい。そんなの言葉にしなくても本当に当たり前のことなんですよ。わたしが無知だっただけで。
でもまあ、だからこそ頑張ってしまったんですよね。それでも。
頑張っちゃいけない頑張り方で。
日常と非日常のはざま
結果どうなったと思います? すごくわかりやすいですよ。
我ながら見事に伏線回収したなと思うくらいに、身体、こわしました。
こころに関しては、いつから壊れてたのか知らないです。
ただ、ずっとずーーーーーっと昔から、ちょっとずつ削られて削られて擦り切れていたんだろうな。息をしなければいけなかったから、丸ごと全部受け入れられる限界以上でも受け止めるしか選択肢を知らなくて、わたしのなかのわたしに対して、みないふりしていただけで。
#自分にとって大切なこと
四半世紀を過ぎてから、やっと【自分】を【大事にしてもいい】と【大事にしても大丈夫】だと【そういうふうに思ってもいい】のだと知りました。遅いよねぇ。自分でも笑いたくなる。笑い事じゃないんですけれど。
言うは易し行うは難し
そんな世間一般的の『当たり前』も知らなかったんですよ。ひじょうに残念なことに。学校で何、勉強したんだろうか。
何かをしても褒められることは殆どなかった。できて当たり前。一番目だもの。誰かと比べられては、あんたは本当にかわいくない。愛嬌もない。親に似ていない。何でそんな色の服着ているの似合わない。あんたはこれ着ていれば問題ないのよ。
……これ…確か祖母と嫁いできた母から実際に言われた言葉なんですけど、一時期彼女たちの声に対して聞こえないふりしてたんですよ。聞きたくなかったので。それ最適解だったのでは????? って思うじゃないですか。
後日談がありまして。あんた耳が聞こえないの。が、きっちり追加されました。
言葉の暴力に晒されて、誰かと比べられて、自我を保ち続け(られていないんですが。今思えば)て、この状態で私はどうやって自分を大事にしたら良かったんだろうなぁ。
過去の自分よ、申し訳ない。今でも【自分を大事にする】の答えが出せる気がしないや。当時は犠牲にして……犠牲というか気分的には彼女たちの身近にあった玩具であり生贄というのが近いかもしれないけれど。
とりあえず、まだいきをしているよ。
まだ、いきをしなければいけないらしいよ。
いつか、じぶんを大事にする意味がわかる日が来るのかなぁ。
いまはちょっとわかんないや。
#自分にとって大切なこと