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【時事】「原発事故で甲状腺がん」裁判が始まる

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概要

 2011年3月11日の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故で大気中に漏れでた放射性物質の影響で甲状腺がんになったと訴える男女6人が東電ホールディングスに計6億1600万円の損害賠償を求めて裁判を起こした。裁判では、事故とがん発症の因果関係が争点となる見込みだという。

トランスサイエンスの問題

 まず真っ先に思ったことは、これは トランスサイエンス の問題だということ。トランスサイエンスというのは「科学によって問うことはできるが、科学によって答えることが非常に難しい問題」のことで、水俣病やイタイイタイ病なども、トランスサイエンスの問題として取り上げられる。主に科学と政治の間にある領域で発生する問題で、例えば、ある有害物質の毒性を科学が定量的に示すことができたとしても、どの程度のリスクまで社会が許容するかは科学的には定めることができず、政策的な決定の課題となる、といった話だ。常に科学が客観的な「真理」を提供し、社会の側がそれに基づいて何らかの政治的な対応や意思決定を行うという分業的な関係がつねに成り立つわけではなく、両者の間の線引きが困難な問題が増加している。特に今回のような因果関係があるのかないのかはっきりしないような科学的不確実性の高い問題については、非常に難しい問いが投げられているように感じる。

 ちなみに河野が大学院で学んでいる専門はもろにこの部分で、科学技術社会論 とか呼ばれたりもする。個人的にこのトランスサイエンスや科学技術社会の問題が難しい問題として扱われる原因の一端は、科学者のこれまでの態度にあると思っている。水俣病などはその典型例だが、科学者は事象Aと事象Bとの間の因果関係が分からない(=はっきりしない)からといって、あたかも事象Aと事象Bとの間に因果関係がないことが確定したかのようにふるまってしまうことがある。これを専門用語で 第二種の過誤 と呼ぶ。しかし多くの事例で長い時間をかけて研究をした結果、その事故が起きた時点では科学的に因果関係が示せなかっただけで、後から因果関係があったということが認められるといった例は枚挙にいとまがない。この点について最も重要なポイントは、時間さえかければ科学は答えを出せるということだ。だが被害者はその「長い時間」をずっと苦しむことになる。そうした状況を改善できるのは科学者ではなく社会の側であり、科学が答えを出すまで待てない場合、社会は科学に頼りっきりでない決定をしなければいけない。今回の件も、あるいはそういう類の話だと思う。

因果関係と相関関係について

 「事故とがん発症の因果関係が争点となる」とのことだったが、今の時点ではむしろ 相関関係 のほうがまずは争点になると思う。因果関係が証明できないからと言って、因果関係がないとは言い切れない。ただし、少なくとも相関関係があれば因果関係がある可能性はある。問題はこの相関関係で、これが本当に有意な値として存在が認められるのかは非常に重要だ。

 この原告の20代女性は甲状腺がんを発症した際、医師から「原発事故とがんの因果関係はありません」と診断されたという。この診断結果について、この時点で因果関係がないことは断言はできないはずで、この原告の20代女性も当然疑問を持った。ただ一方で、この女性もメディアのインタビューに対して「原発事故がなければ私は "絶対に" がんにはならなかった」と断言してしまっている。その部分ではベクトルが違うだけで非常に似た主張に見える。ただし、東電や国と一個人とではパワーの在り方も社会的立場も何もかもが違う。それを両論併記的に並べるのは、強い者にすり寄っているというか、長いものに巻かれているだけだという自戒の念は持っておきたい。

過剰診断かどうかの問題、スクリーニングの問題

 「小児甲状腺がんの発症割合は年間100万人に1人から2人程度だが、事故後に福島県が約38万人に行った調査でこれまでに約300人ががん、又はその疑いと診断されている」と一部メディアで報道されていたが、事故後に行った調査期間を10年として単純計算すると、通常時の40~70倍の発生率になっている。ただし、これは スクリーニング の問題もあると思う。

 スクリーニングとは「症状が現れてくる前にがんを発見しようとする試み」のこと。つまり症状が出て病院へ行くようになるよりもずっと前にがんを発見できるが、その分、通常ではまず見つからないサイズのがんまで発見できてしまうため、過剰診断 と呼ばれる状況に陥りやすい。発生率を比較するにしても同じようにスクリーニングした外部地域のデータにしないと正確な比較ができない。(ちなみにこういう比較したいデータ以外のパラメータをすべて同じにして比較する作業を 対照実験 という。)

 通常、自然に発見されるのがんのサイズと比べると、スクリーニングで発見されるがんのサイズは10分の1以下で、その中には無症状のまま生涯発見されず、死後剖検で初めて発見されるがんも含まれる。だからスクリーニングと通常のがんの発生率は比べられない。

 もちろん、スクリーニング効果で何十倍も発症率が上がるとは考え難いという議論もある。その一方で、一般人の甲状腺がんのスクリーニングが導入されたことで甲状腺がんの発生率が数十倍に上がった、というデータを記載した論文もある。ここら辺は非常に難しく、結論が出ていないのが実際のところだ。

 スクリーニングによる過剰診断かどうかの判断をするなら、日本全国の地域で同じようにスクリーニングをして、そこに有意な差があるかどうかを調べれば良い。過剰診断である可能性は当然否定できないが、過剰診断であると主張するだけの真摯な態度を東電側がとれるのかどうかは注意してみておきたい。

最後に

 この件について岸田首相は「福島県の子どもに放射線による健康被害が生じているという誤った情報を広め、言われのない差別や偏見を助長することが懸念される」と言った。福島県の子どもに放射線による健康被害が生じていることが誤った情報かどうかは、言ってしまえば今の段階では分からないことではある。ただ気になるのは、岸田首相の姿勢が、「放射線の影響はない」と断言することで、放射線の被害者たちが差別や偏見に苦しんでいることへの解決策になるとでも言うかのような姿勢であることだ。本来、差別や偏見に苦しんでいることと、放射線の影響があることないことはまるで別の問題だ。放射線の影響があろうがなかろうが差別や偏見は無くしていかなければいけないはずで、「放射線の影響はない」と断言することで問題の解決を図ろうとするのは、本質的な対応ではないように感じた。

 原告の20代女性は、放射線の話をすることで復興の妨げになるという批判を浴びせられたという。私たちは、被災地域の中でも分断が起きているという事実を見落としてはいけないと思う。原発事故という側面で福島が被害者であることは間違いない事実だと思うが、未だに福島で原発を推進する自民党が支持されている現状を見ると何とも言えなくなるし、福島県に原発を作ることを容認した人たちの加害者性はどうなのか?なども見えにくい視点ではあると思う。ただし、その分断が誰によって引き起こされてきたのかまで見るのはより重要なはずだ。「福島県に原発を作ることを容認した人たちの加害者性」と言ったが、そうせざるを得なかった人たちの視点もまだまだ自分には見えていない。加害者という存在を安易に作り出すことは決して解決への道に直結はしないだろう。そういうことも意識してこの問題に向き合っていけたらと思う。

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