1945年6月30日花岡事件おこる

1945年6月30日花岡事件おこる
花岡事件はアジア太平洋戦争末期に日本軍国主義が引き起こした残虐、悲惨な事件で、約4万人におよんだ中国人強制連行事件の一つです。花岡事件は、広義には、鹿島組(現鹿島)花岡出張所に連行された中国人に起こった約18カ月間にわたる出来事の全体をさします。狭義には、1945年6月30日(7月1日説もある)に起こった中国人の一斉ほう起にかかわる出来事です。
 東条内閣は1942年11月27日、国内の「重筋労働」の労力不足を補うために「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定、中国人を連行し、鉱山、土建、港湾など全国135事業所で過酷な労働を強いました。1944年2月28日の次官会議決定で、連行に「華北労工協会」、かいらい政権と並んで、「現地軍」が加わることを明記しました。
 連行されたのは、八路軍と国民党軍の俘虜(ふりょ)のほか、主に、日本軍が「労工狩り」「兎(うさぎ)狩り」作戦で村を包囲して捕えた一般人でした。
 鹿島組花岡には3次にわたって986人(輸送途中死亡7人を含む)が配属されました。当時、花岡鉱山には銅の大増産命令が下っており、1944年5月29日には七ツ館坑の上を流れる花岡川が陥没し、日本人11人、朝鮮人11人が生き埋めになる事件が起きました。連行中国人たちは鹿島組が請け負った新選鉱場建設のための付帯工事に2カ月ほど従事した後、花岡川水路変更工事(川の流れそのものを変えた)にあてられます。
 内務省は鹿島組に「濡(ぬ)れたタオルの水が一滴もなくなる迄(まで)もしぼる方針をとれ」と直接指示し、鹿島組は実行しました。粗末な食事と過酷な労働、中山(ちゅうざん)寮での虐待などで1945年6月30日までに137人もの死者を出しました。
 生き残った人たちは30日夜、人間の尊厳を守るために死を賭して一斉ほう起し、獅子ケ森など各地に逃れました。憲兵、警察、在郷軍人会、警防団などに全員が捕えられ、炎天下の共楽館前で拷問をうけ、次つぎと倒れました。7月の死者数は100人にのぼりました。
 報道管制が敷かれ、憲兵隊は大館地方からの郵便物を開封し、ハサミを入れました。鹿島組の強制労働、虐待は8月15日後も続きました。8月から10月までの3カ月間で168人が死亡しました。1944年7月28日から1646年3月29日までの間に419人が死亡しました。当時の司法(1945年9月11日判決、秋田裁判)は、ほう起の指導者らを有罪としました。アメリカが開いた横浜軍事裁判は1948年3月1日、鹿島組関係者4人と大館警察署の2人の計6人に、BC級戦犯として有罪判決を下しました。被連行中国人の代表らはこの裁判で証言し、虐待、加害の記録が残りました。私ができることといえば、この花岡事件を忘れないことと、一人でも多くの人へ今後知らせていくことかもしれません。#今日は何の日2024.6.30


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