2013年7月6日山口仙二没

2013年7月6日山口仙二没
山口 仙二(やまぐち せんじ、1930年10月3日~ 2013年7月6日)さんは、長崎原爆の被爆者、日本の反核平和運動家。
 1930年、長崎県南松浦郡玉之浦町(現在:長崎県五島市玉之浦町)に生まれました。1945年(昭和20年)8月9日、長崎県立長崎工業学校1年時の14歳の時に、学徒動員で通っていた長崎市の兵器工場で、防空壕を掘る作業中に被爆しました。顔と左右上肢、躯幹に第二度の大火傷を負い、中等量の出血という重傷を負いました。山口さんは川に飛び込んで泳ぎ、崖をよじ登って山の方に逃げました。同日の内に海軍病院に搬送され、重症と診定されました。退院後も、顔から胸に残ったケロイド痕に悩まされました。
 1954年、第五福竜丸事件をきっかけに反核運動が起きる中、饅頭店を訪れた被爆者に誘われて長野県の原水爆反対集会に参加したのが、反核運動家となるきっかけでした。翌1955年10月1日に長崎原爆青年乙女の会を結成して、初代会長に就任。また日本被爆者団体協議会代表理事などを歴任しました。
 1960年代以降は日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の使節団として、日本国外での講演活動を行うようになりました。1981年には被団協の代表委員に就任し、1982年6月24日には、ニューヨークで開かれSSDⅡ(第2回国際連合軍縮特別総会)の全体委員会で、被爆直後の自身の写真を掲げながら、被爆者とNGOを代表してこう演説しました。

「尊敬する議長、事務総長、並びに各国代表の皆さん、NGOの兄弟姉妹のみなさん。
全人類の生存か絶滅かに深く関わるこの歴史的な第2回国連軍縮特別総会全体委員会で、私は、日本の婦人や青年の団体、宗教団体、平和団体、労働者や被爆者などの日本の草の根運動、核兵器禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会を代表して発言する機会を与えられたことに対し、感謝と敬意を表明致します。
私たちは核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名2,886万2,935名分を携えて参りました。(中略)
私の顔や手をよく見て下さい。
よく見て下さい。
世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ一人たりとも許してはならないのであります。
核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約して下さるよう心からお願いを致します。
私ども被爆者は訴えます。
命のある限り私は訴え続けます。
ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ。
ありがとうございました」
— 1982年6月、第2回国連軍縮特別総会にて

 山口さんは演説の数日前から体調がすぐれず、点滴を打ちながら演説の練習をしていたそうです。この国連演説は、後に中学生の社会科教材にも取り上げられました。1984年には、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の会長に就任。被爆者援護法の実現を目指し、全国を駆け回りました。山口さんのこうした反核運動は、1986年5月22日にNHKのドキュメンタリー番組「被爆者 アメリカを行く」で放送されました。また、1999年5月29日には、長崎放送で山口の半生を描いたドキュメンタリー番組「ゆるすまじ~山口仙二 その生の記憶」が放送されました。
 2003年(平成15年)には、体調の悪化で長崎市から長崎県雲仙市のケアハウスに奥さんとともに転居しました。2007年4月に発足した「ノーモア・ヒバクシャ九条の会」の呼びかけ人にも名を連ねました。2013年7月6日に死去。82歳没。#今日は何の日 2024.7.6

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