2023/09/22 来るべき日を迎えるための一皿
地下階にしかない喫煙所でたっぷり3本煙草を吸い、少しだけ気分が弛緩したところで、のどの渇きを覚えた。いつもはダイドーかそこらのクソまずいコーヒーを飲んでいるが、今日は出社してすぐメールなり電話なりで忙しくしていて、何も飲んでいなかった。朝は基本的に食べない。今朝はチョコレートひとかけとトマトジュースひとくちだった。何か飲もうかと、喫煙所のすぐ近くに据えられた自動販売機の前に立ち、折り畳みの財布からくしゃくしゃの千円札を抜き出して無理やり突っ込んだ。そこにきてはじめて、飲料のラインアップを眺める。ファイアのコーヒー、知らないメーカーの硬水、腸内環境をどうこうする乳酸飲料、ミニッツメイドのフルーツジュース。それらがごったに、まるで油分を含んだ水たまりみたいにまだらに配置されていて萎えた。参った。飲みたいものがどれ1つとしてない。すべてに絶妙な飲みたくなさがあり、しかもそれらが妙な均衡を保っているせいで消去法を使うことさえできない。とはいえ、たしかにのどは渇いているのだし、いまさら千円札を絞り出して別の自販機を探すのも億劫だった。だからおれは「右下の隅に陳列されている」という地政学的な理由でレッドブルを買った。この選択に正解も不正解もない。午前からエナジードリンクを飲むような輩は個人的にはどうかとも思うが、渇いたのどが潤いさえすれば、おれはそれでよかったんだ。
昨日は散々な日だった。誰にもそういう日はある。といっても誰かにぶん殴られたりだとか、泥水を頭からかぶったりだとかそういうわかりやすいアクシデントはなく、内心がただひたすら穏やかではなかった。ざっくりと言語化してみるなら、取り掛かっている仕事が自らの無能に起因してうまく回らかっただけで、それ自体はよくあることではあるんだが、昨日は妙に深くまで落ち込んでしまった。そして一度そういう落ち込み方をしてしまうと、他ならない内心の自分が傷口をえぐることがある。お前はいつもこうだ、情けない、誰もお前なんかを必要としない、お前は今後も小手先を弄して生きていくんだ、みたいなことを平気で言う。おれは他人に対してはめったに思わないのに、自分自身のことになるといとも簡単に、何も容赦せず、ひどい言葉を向けてしまう。しかも自分が一番効果的に傷つくような言葉をわざわざ選んでしまうんだから、かなりこたえる。たいていは寝てしまえばなりをひそめるのだが、それでも渦中にあっては何も手につかなくなる程度にはくらってしまう。我ながら難儀な性分だなと思う。
自罰的な内声が脳内に響きながらも生活は続く。続いてしまう。冷蔵庫には絹豆腐くらいしかなく、仕事の帰りに食材を買う必要があった。正直をいえば早々に臥せてしまいたい気分ではあったが、理性がまだ生きていたのか薬局には寄れた。やや寒いくらいに空調の利いた店内をうろついて、スパゲティの乾麺を買い物かごに投げ込む。野菜ジュースの棚で一番成分の濃そうなやつを探して、胡散臭そうなトマトジュースをこれまた投げ込む。ついでに菓子棚をぶらついて、カカオ分の高そうなチョコレートも投げ込んだ。普段間食はしないのだが、チョコは比較的好きだ。
そういうふうにしておれは、殆ど思考を働かせずに買い物を済ませた。炭水化物さえ摂ればたぶん身体は満足するだろう、野菜ないしそれ由来の栄養分も必要だろう、チョコでもあれば気分が騙されて好転してくれないだろうか。そんな稚拙な打算。ただただ愚かで短絡的だけど、でもこれだって生存戦略の1つなのだろうと思う。そして事実、おれはそれに救われた。たしかに救われたんだよ。
具なんかない。豆腐しかないってさっき書いたよな。ただ茹でただけのスパゲティにケチャップを和えて、酸味を飛ばすためにフライパンで火にかける。分量まで気が回らなくて、ずいぶん濃い味付けになってしまったけど、甘くて、香ばしくて、泣きそうになるくらいうまかった。その一皿は、その時のおれにできる精一杯のねぎらいだった。何もなせなかった、誰にも誇れなかった1日だった。でも明日は違うかもしれない。もっと酷くなっているかもしれないし、あるいは少しだけ良くなっているかもしれない。それは明日にならなければわからない。そんな来るべき日を迎えるための一皿だった。
結論、朝になって事態は良い方に転がっていた。その場でしゃがみ込みたくなるくらい安心した。星のめぐりがよかったとしか思えない。今朝はチョコレートひとかけとトマトジュースひとくちだけ摂って家を出た。出勤しながらミーシャマイスキーのBWV1012を聴いた。個人的にはヨーヨーマよりも好きだが、ヨーヨーマは小曲と小曲のつなぎが恐ろしいほどうまくて、だから甲乙つけがたい面もある。みたいなことを考えられるだけの余裕はできた。そしてひっくり返したおもちゃ箱を片付けるみたいな業務をこなして、おれはよろけながら喫煙所を目指した。数分後に、自販機に立ち寄って呆然と立ち尽くすことになるけど、まあそれくらいかわいいもんだ。
すぐ買えるコーヒーの中ならタリーズのブラックが一番うまい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?