「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」

昭和天皇の「拝謁記」の報道で、天皇自らの「戦争責任」に関する発言が注目されているが、昭和天皇が公の場(1975年10月31日記者会見)で「戦争責任」について語った言葉が上に掲げたものである。
この発言について、哲学者・高橋哲哉氏と作家・徐京植氏は以下のように語り合っている。
(『責任について──日本を問う20年の対話』から抜粋)

高橋 さらに話がさかのぼることになりますが、昭和天皇の戦争責任について私がどうしても思い出すのは、次のことです。一九七五年一〇月三一日、アメリカ訪問から帰ってきた天皇と皇后が初めて記者会見を行なった時に、記者の中から、「陛下はいわゆる戦争責任についてはどのようにお考えですか」という質問が出ました。このとき昭和天皇は、「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」と述べた。全体としてにこやかな記者会見で終わったということになり、新聞報道でも「言葉のあや」発言はほとんど取り上げられませんでした。当時の新聞をいま確認してみても、『朝日新聞』をはじめとして、広島・長崎について「気の毒ではあるが戦時中なのでやむを得なかった」という表現は見出しになっていても、「言葉のあや」発言の扱いは極めて小さいし、批判もされていません。天皇の名のもとにいったいどれだけの人びとの運命が狂わされたかを思うと、現実と言葉のあまりの落差に目もくらむ思いがします。

徐 私も世間が憤激するかと思ったら、そうならなかった。詩人の茨木のり子氏の詩「四海波静」くらいが私の印象に残る辛辣な批判でした。その時、リベラルを自任する人たちは何を考えていたのか。この時はまだ冷戦構造が崩壊していない時期ですからね。そこにはもっと深い、高橋さんの言葉では「地金」みたいなものがあって、戦後民主主義的な空間自体がメッキだったということがはっきりと現れた瞬間だったのかもしれませんね。

高橋 その後一九七八年に、A級戦犯が靖国神社に合祀されます。A級戦犯合祀のための「名票」が厚生省から靖国神社にすでに送られてきていましたが、合祀されずにそのままになっていた。BC級戦犯については合祀を済ませていたのに、A級戦犯だけ合祀されなかったのは、それまで長く宮司を務めていた筑波藤麿氏が「国民感情」を理由に合祀に反対していたからだとされています。それが、東京裁判が戦後の日本を歪めたという歴史観の持ち主だった松平永芳氏が宮司になったとたんにA級戦犯を合祀した。これを報じたのは翌七九年の『朝日新聞』ですが、そこにでている識者のコメントでも「国民感情に反する」ことが問題視されていました。
 つまり、七〇年代末にはA級戦犯合祀が「国民感情」に反していたというこれらの見方がある程度妥当なものだとすると、A級戦犯として裁かれた東条英機らに対しては国民は反感を持っていたけれども、七五年の天皇発言についてのメディアや国民の反応を考え合わせると、〈戦争を始めたのは軍部であって天皇は悪くなかった〉〈天皇は国民のことをいつも考えていたから〝聖断〟を下して、軍部を押さえて戦争を止めてくれたんだ〉という意識が「国民感情」として根付いていたということでしょうね。

徐 もっと広く言うと、一九七〇年に安保条約が改定され、〝政治の季節〟が過ぎて、国民も脱政治的になり、現状肯定的になっていった。全共闘までの時代は、少数ですけれど、天皇の戦争責任とか、魯迅の言葉「墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない。血債は必ず同一物で返済されねばならない」を借りて「血債の思想」を叫んだ人たちもいました。しかし、新左翼の〝自爆〟の後にシニカルなムードが広がると、日本社会は元のアイデンティティの方にゆり戻っていった。確信犯的なアイデンティティというよりも、まあこれでいいかみたいな軽いノリで、七五年の天皇の発言も記者会見場では軽く笑いながら流すという雰囲気だったそうですね。

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