朝鮮王妃殺害事件

125年前の今日(1895年10月8日)は、日本軍京城守備隊が朝鮮の王宮景福宮に侵入、国王高宗の后・閔(ミン)氏を殺害、遺体を焼くという凄惨な事件を引き起こした日である。日本では「閔妃暗殺」として知られている事件である。

以下、『朝鮮王妃殺害と日本人』の著者・金文子氏が『しんぶん赤旗』(2019年7月24日付)に寄稿した「日韓の歴史をたどる─王后殺害事件」の引用・要約である。

事件の翌年96年3月に英文雑誌に掲載された調査報告書には、日本軍京城守備隊の蛮行が生々しく描写されている。
以下の文章は、ソウル駐在領事・内田定槌(さだつち)が日本語に翻訳して、外務次官・原敬に報告した文章の一部である。
「抜剣の儘(まま)国王陛下の御居間に乱入し、後宮を捜索して手当次第に宮女を引っ捕え其(その)髪を攫(つか)み、或は之を引ずり回し、或は之を打ち擲(なぐ)りながら、王后陛下の御所在を究問せり…壮士等は…王后陛下が或る一隅の室内に匿(かく)れ居り紿ひしを発見し、直ちに之を捉え…之を斬り斃(たお)したり…陛下の玉体は、戸板に載せ絹布を以て之を纏(まと)ひ庭園に取り出したりしが、間もなく日本壮士の指図により更に付近の小林中に持ち運び、之に薪(まき)を積み石油を注ぎ火を放って之を焼き棄てたり」(「韓国王妃殺害一件」2巻)
日本軍は前年の1894年7月、日清戦争直前にも景福宮に押し入り、国王を虜(とりこ)にしていた。王宮から撤退した後も日本軍は王宮前に駐屯し続けた。これが京城守備隊で、この部隊が王后を殺害したのである。
日本軍はこの謀略事件を実行するにあたって、朝鮮人同士の権力争いに偽装するため、国王の実父大院君を無理やり引き込んだ。
この殺害計画は真夜中に実行される予定だったが、大院君が抵抗して時間がずれ込み、多数の西洋人が目撃したのである。

 事件のひと月前に着任したの駐韓公使三浦梧楼は、外務大臣西園寺公望への電信で日本人の関与を認め、自分が「黙視」したと告白、さらに「日本人は殺害等の乱暴は一つもしなかったという証明書を朝鮮政府から取っておいた。大院君にも、随行の朝鮮人に日本服を着せて日本人を装わせたと言わせる。この二点は外国人に対し“水掛論”に持ち込む考えである」と、偽装計画まで報告している。(『日本外交文書』)
 先の内田領事は外務次官あて私信には自ら隠蔽工作に奔走していることを書いている。
 「日本人の関与は多数の西洋人が目撃しており、もはや隠せない。公使館員、領事館員、守備隊については、外国人の間でもまだ判然としていないので、今なら隠蔽できる。彼ら以外で二、三十名ほど処罰して済ませる」(『原敬関係文書』)

 日本政府と大本営は、三浦公使をはじめ関係者を本国に召喚し、56人を収監したが、3カ月後には全員を無罪放免にした。

 この事件は、三浦駐韓公使の暴走と見られてきたが、実際は三浦は大本営と密に連絡を取り、本国の訓令にしたがって王妃殺害を実行したことが明らかになっている。


【参考文献】
朝鮮王妃殺害と日本人
http://www.koubunken.co.jp/book/b201892.html

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歴史の偽造をただす
http://www.koubunken.co.jp/book/b201993.html

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これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史
http://www.koubunken.co.jp/book/b201765.html

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