2・26事件と松井石根と南京大虐殺事件


84年前の今日は、2・26事件が起きたの日(1936年2月26日)である。
この事件と南京大虐殺事件を引き起こした上海派遣軍司令官・松井石根大将の関連について、笠原十九司著『日中戦争全史』上巻254~257頁から抜粋する。

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松井石根(まつい・いわね)大将の野心

 盧溝橋事件直後、参謀本部と軍令部は「帝国居留民の保護を要する場合においては、青島および上海付近に限定して陸海軍所要兵力協同してこれにあたる」という「北支作戦に関する陸海協定」(七月一一日)をむすんでいた。この協定にもとづき、大山事件を仕掛けた軍令部が、事件の翌日の八月一〇日に、陸軍二個師団の上海派遣を閣議で決定するよう米内海相に求め、米内が八月一三日の深夜の閣議で強引に決定させたことは前述したとおりである。
 近衛内閣の「暴支膺懲」声明をうけて陸軍も一五日に第三師団と第一一師団よりなる上海派遣軍(軍司令官松井石根大将)の「編組」を発表した。「編組」というのは、同派遣軍の任務が上海地区の日本人保護という限定された小範囲の一時的派兵であり、純粋の作戦軍ではないという意味であり、天皇の命令による戦闘序列である「編制」という正式用語をわざわざ避けた。参謀本部がまだ戦争不拡大方針でのぞんでいたことの表れである。
 「編制」といった場合、戦時または事変にさいし、天皇の命令によって作戦軍の戦闘序列、すなわち各部隊の指揮系統と上下関係がきちんと定められた正式の軍編制のことをいった。
 一時的な派兵と考えて、参謀本部は上海派遣軍の部隊には精鋭の現役兵を送らずに、戦力や規律で劣る予備役・後備役の兵隊を多く召集して派遣した。参謀本部作戦部長だった石原莞爾は「今次の上海出兵は海軍が陸軍を引きずって行ったものといって差し支えない……私は上海に絶対に出兵したくなかったが実は前に海軍と出兵する協定がある」ためであったと回想している。
 上海派遣軍司令官に任命されたのは、当時満五九歳で、すでに予備役になっていた陸軍最長老の大将の松井石根であった。松井は、陸軍士官学校の第九期の卒業で、同期からは陸軍大将が五人も輩出した。松井石根・荒木貞夫・真崎甚三郎・本庄繁・阿部信行の五人で、荒木は陸軍大臣に就任して男爵、真崎は教育総監、本庄繁は関東軍司令官、侍従武官長を歴任して男爵、阿部はのちにであるが、内閣総理大臣になり、翼賛政治会総裁・朝鮮総督を歴任する。松井は陸軍士官学校を二番で卒業し、陸軍大学校を首席で卒業して秀才といわれたにもかかわらず、同期の四人の大将のように軍中央のトップの職位に登りつめることなく、中風を患って、五人の同期生のなかで一番早くに現役を退いて予備役となっていた。
 ところが突然の日中戦争の開始で、陸軍には現役大将が不足し、さらに前年の二・二六事件鎮圧後の〝粛軍〟の影響で荒木や真崎らを任命することはできなかった。そこで松井に「白羽の矢」があたったのである。松井が、軍功をあげて爵位を獲得する最後のチャンスの到来と思ったことは容易に想像できる。
 上海派遣軍司令官の松井石根大将に与えられた任務は「上海派遣軍司令官は、海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海ならびに北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」と限定されたものであった。しかし、松井はこの命令を守るつもりは最初からなかった。八月一八日の参謀本部首脳(次長・総務部長・第一・第二部長)との会合において、松井は「国民政府存在するかぎり解決できず……蒋(蒋介石)下野、国民政府没落せざるべからず……だいたい南京を目標としてこのさい断固として敢行すべし、その方法はだいたい五、六師団とし、宣戦布告し堂々とやるを可とす……かく短時日に南京を攻略す……(蒋介石は)南京を攻略せば下野すべし」とまで述べた。松井も武藤章らの拡大派と同じに安易な「一撃論」に立ち、日本軍の「最高司令官」として南京を攻略して国民政府を打倒し、謀略宣伝機関を設置して、「満州国政府」と同様な新政府を樹立することを考えていたのである。
 これにたいして石原莞爾第一部長は「個人としては永びけば全体の形勢に危ういものと考えあり」と懸念を表明し、不拡大派であった参謀次長多田駿中将も「南京攻略戦の着想は……具体的に研究すれば、困難ますます加わる」と婉曲に反対しただけで、明らかに命令違反を言明する松井司令官を非難し、厳重に注意することもしなかった。多田参謀次長は、病気中の今井参謀次長が時局の重大化により更迭されたのにともない、八月一四日に就任したばかりであった。
 軍人としては高齢で中風の持病をもち、しかも上海のような国際大都市の攻防をめぐる航空部隊まで投入した近代戦・陣地戦を作戦指揮した経験がまったくない松井石根のような軍人を、ただ陸軍最高位の大将という理由で任命したことは、日本の軍隊が年功序列の官僚組織であったことの証左である。この欠陥が、後述する南京大虐殺事件(南京事件と略称)を引き起こすことになる。
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