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731部隊と日中戦争

731部隊の「マルタ」が話題になっている。

日本軍の不法行為として731部隊の史実は戦争犯罪に関心を持つ人にとってはよく知られているが、一般の日本人はほとんど知らないので、基本的な知識を得ていただくために、『日中戦争全史』下巻(94~103頁)から抜粋する。

ノモンハン戦争と七三一部隊

 関東軍は、ノモンハン戦争において初めて細菌兵器を使用した。本書第Ⅴ章の武漢攻略作戦における日本軍の毒ガス兵器使用のところで述べたように、細菌兵器の使用は国際条約で禁止されていたことはいうまでもない。

ノモンハン戦争における細菌兵器の使用

 関東軍作戦参謀服部卓四郎中佐は、三九年八月初頭、ソ連軍の給水状況に着目、その給水地を攻撃して給水を断ち、後退させる作戦を検討したが、関東軍の自動車不足から実施を断念した。つぎに考えたのが、捕虜から得た、ソ連軍はハルハ河を主な給水源とし、しかも水をほとんど煮沸あるいは濾過しないで使用しているという情報にもとづき、細菌兵器を使用することだった。
 ノモンハン戦争には、関東軍司令官の命令により、関東軍防疫部(部長石井四郎軍医大佐、石井部隊と称する)が給水班を編成、石井軍医大佐みずから最前線へおもむき、石井が開発した石井式濾水器を携行、使用して、湖沼水や川水などの生水を濾過して人馬に提供した。この石井部隊が七三一部隊のことである。石井部隊は飲用水の供給というのが「表の顔」で、細菌戦部隊が秘匿された「裏の顔」であった。
 前述した八月二〇日のソ連軍の大攻勢によって第二三師団は壊滅寸前に陥った。この時に、ソ連軍の大規模攻勢を妨害することを目的に細菌攻撃が実施された。碇常重軍医少佐を隊長とする二、三〇人からなる決死隊が、ハルハ河の支流であるホルステン河の上流に、チフス菌の培養液を入れた二、三〇個の石油缶をトラックで運び、その中身を河に流したのである。この時、培養液をあびた軍曹がのちに腸チフスで死亡した。
 この時のチフス菌攻撃の結果、ソ連軍兵士に被害者がでたのかどうかは、資料がないので不明である。

軍医石井四郎による七三一部隊の創設

 ノモンハン戦争で初めて細菌兵器を使用した関東軍は、ソ連軍が大量に細菌兵器を使用することが予想されるので、それに備えなければならないということを口実にして、関東軍防疫部を関東軍防疫給水部と改称した。前者は「細菌戦準備」を目的にしたが、後者は「細菌兵器の研究・開発、実戦使用」を目的にするとした。そして、全満州に支部・支所を設置し、戦時は各兵団に配属させるという石井部隊の拡大案を陸軍省に提案、陸軍中央がこの提案を受け入れ、四〇年八月一日、関東軍防疫給水部に拡大・改編されたのである。
 日本陸軍における細菌戦の研究と実験、細菌兵器の製造、そして細菌兵器の実戦使用の指導機関になったのが関東軍防疫給水部すなわち七三一部隊であり、その生みの親、育ての親が軍医の石井四郎であった。
 京都帝国大学医学部を卒業した石井四郎は、軍部中枢を説得して、生物兵器開発の機関として東京の陸軍軍医学校内に「防疫研究室」を開設した。三二年八月のことである。「満州国」ができると、日本国内ではできない人体実験やさまざまなことが特権をもって実施できることを利用し、三三年、ハルビン郊外に「東郷部隊」(秘匿名、七三一部隊の前身)を設立して、人体実験を開始した。化学兵器・生物(細菌)兵器開発の必要を関東軍・陸軍中央に意見具申して認められ、天皇の裁可も得て、三六年八月、ハルビン郊外の平房という地に関東軍防疫部(通称七三一部隊)が設立され、石井四郎は初代部長となった。七三一部隊には、最初京都帝国大学医学部出身の中堅、若手の医師が集まり、つづいて、九州帝国大学医学部、東京帝国大学医学部、慶応義塾大学医学部出身の医師が集まった。

七三一部隊における人体実験と細菌兵器の製造

 七三一部隊は、ノモンハン戦争を利用して積極的に活躍ぶりをアピールし、それが陸軍中央に認められ、前述のように関東軍防疫給水部に組織を飛躍的に拡充した。七三一部隊の人数は、四〇年七月には三二四〇人(将校二六四人、下士官・准士官二五一人、兵七二〇人、軍属二〇〇五人)と、前年の三九年六月時点にくらべ、約三倍に増大した。さらにノモンハン戦争に敗北した後は、対ソ戦に本格的に毒ガス兵器・細菌兵器を使用することを想定して、四〇年一二月、七三一部隊の支部としてソ満国境近くに、牡丹江六四三部隊・林口一六二部隊・孫呉六七三部隊・ハイラル五四三部隊が軍令により設立され、対ソ細菌化学戦に備えて軍備を拡充、毒ガス弾を大量に貯蔵した。
 いっぽう、日中戦争の拡大にともない、中国戦場において日本軍部隊が現地の生水を飲まないようにする飲用水の供給は、兵士たちの死活問題にかかわる重要な兵站任務となり、中国の主要都市に以下のように七三一部隊の姉妹部隊といえる防疫給水部が設置された。
 北京に 甲一八五五部隊(北支那方面軍防疫給水部)、一九三八年二月設置
 南京に 栄一六四四部隊(中支那派遣軍防疫給水部)、一九三九年四月設置
 広東に 波一六〇四部隊(南支派遣軍第二一軍防疫給水部)、一九三九年四月設置
 右記の各地の防疫給水部はそれぞれ一〇カ所をこえる支部をもっていたので、石井機関は全中国にまたがる大組織に成長、三九年末の段階における石井機関の総人員は一万四五人、右記の防疫給水部の基幹部隊は四八九八人を数えた。
 ノモンハン戦争後、陸軍中央は細菌戦に期待をよせ、七三一部隊が関東軍防疫給水部に拡充してから製造した細菌兵器の中国戦場における使用を指示するようになった。このため、関東軍防疫給水部に改編された四〇年七月以降、華中の戦場において細菌戦が実施されるようになった。細菌戦の実例については後述する。こうして、「防疫給水部隊」という「表の顔」とまったく逆のことを中国軍、中国民衆にたいしておこなう「細菌戦部隊」としての「裏の顔」が表裏一体となったのである。
 四〇年七月にハルビン郊外の平房に拡充された七三一部隊の本部はつぎのように八つの部からなっていた。
第一部(研究部):各種細菌(ペスト菌・コレラ菌・ガスえそ菌・炭疽菌・腸チフス菌・パラチフス菌)の細菌戦使用のための研究および培養。特殊監獄の管理。
第二部(実験部):細菌兵器(爆弾)の開発・実地試験。安達の野外実験場の管理。部隊保有の飛行機の運航と管理。ノミの培養。
第三部(防疫給水部):防疫給水および病院。一九四四年から濾水器製作工場で細菌爆弾の容器を製作。
第四部(製造部):各種細菌の大量生産工場。細菌の貯蔵。
教育部:新人隊員の教育。細菌戦要員の養成。
庶務部(総務部)・事務部
資材部:細菌爆弾の製造。細菌生産のための材料(寒天など)の準備・貯蔵。
診療部:部隊要員の病院。
 七三一部隊本部の中心はカタカナのロの字の形をしていたので「ロ号棟」といわれ、一〇〇メートル四方の三階建ての非常に堅固な建物で、細菌実験をやるために冷暖房完備であった。ロ号棟の中庭には「特移扱」「マルタ(丸太)」といわれて生きたまま人体実験に使われた囚人や捕虜などを収容する特殊監獄が二棟あった。七三一部隊で生きたまま実験され、殺されたのは、中国人・朝鮮人・モンゴル人・ソ連(ロシア)人であった。対ソ戦の準備のためにロシア人も「マルタ」にされ、殺害実験の犠牲にされた。平房から一三〇キロ離れた安達にあった野外実験研究所には飛行場があった。実験飛行場では、「マルタ」を木にしばりつけ、飛行機から細菌を落として、感染するかどうかの実験をおこなった。
 日本の敗戦までの五年間、七三一部隊の本部で人体実験の犠牲になった人は三〇〇〇人にのぼった。その多くは中国人だった。
 七三一部隊について本書で触れるのはここだけなので、敗戦にともなった部隊の最後を簡単に述べておきたい。
 ソ連の対日参戦によりソ連軍の満州侵攻が開始された四五年八月九日、陸軍中央より、証拠隠滅のため七三一部隊の建物の徹底破壊が命令された。特殊監獄に収容されていた「マルタ」四〇〇余人は毒ガスで殺害された後、石油をかけて焼却された。部隊員とその家族は、八月一四日には満鉄の特別列車で優先的に撤退完了した。七三一部隊の解散に際して石井四郎は隊員たちに「秘密は墓場まで持って行け」「戦後公職についてはいけない」「隊員同士互いに接触をとってはいけない」と厳命した。
 七三一部隊の膨大な人体実験データを持ち帰った石井四郎と部隊幹部にたいして、連合国軍総司令部(GHQ)は、調査研究データを全てアメリカに提供することを代償にして、極東国際軍事裁判(東京裁判)において免責することを決定した。そのため、石井四郎ら七三一部隊の幹部、隊員らは戦争責任を追及されることなく戦後を生きたのである。

中国民衆が被った細菌戦の被害

 日本軍は七三一部隊の製造した細菌兵器を中国各地の作戦で使用した。多く使用したのは後述する抗日根拠地、抗日ゲリラ地区の絶滅を目的とした燼滅掃蕩作戦(三光作戦)においてであったが、国民政府軍との正面戦場(一三六頁参照)においても、細菌戦を実施した。
 ここでは、湖南省の常徳(地図②参照)において、七三一部隊がおこなった細菌戦の被害の事例を一つだけ紹介しておきたい。
 常徳にたいするペスト菌攻撃は、当時参謀本部の作戦課員であった井本熊男中佐の業務日誌「井本日誌」(四一年一一月二五日)に、長尾正夫支那派遣軍参謀からの報告として記録されていた。そこには、四一年一一月四日、七三一部隊の増田美保軍医少佐自らが操縦する九七式軽爆撃機で、ペスト菌を感染させたノミ三六キログラムを投下したこと、一一月六日には「常徳付近に中毒流行(日本軍は飛行機一機にて常徳付近に散布せり。之に触れたるものは猛烈なる中毒を起こす)」したこと、一一月二〇日頃には「猛烈なる『ペスト』流行、各戦区より衛生材料を取集しあり」などと記し、結論として「命中すれば発病は確実」と細菌攻撃が成功したと報告したのである。「各戦区より衛生材料を収集しあり」とあるのは、常徳へのペスト菌攻撃は、南京にある七三一部隊の姉妹部隊である一六四四部隊と共同作戦で実施し、後者の部隊員が常徳とその周辺に赴き、ペストの流行の拡大とその被害の実態を「戦果」として調査データを集約しているという意味である。
 聶莉莉『中国民衆の戦争記憶─日本軍の細菌戦による傷跡』は中国人の文化人類学者が、一九九八年以来、七年間にわたり、七三一部隊による細菌戦被害地の一つ、湖南省常徳地域に赴き、細菌戦の戦争被害に関して現地の被害者や遺族を訪問して聞き取り調査をおこない、同時に日本軍の史料をふくめた関連資料を調査収集、さらに被害地の市街区や村々を踏査して、細菌戦の被害の全体像を学問的に明らかにした本である。以下は同書から要旨の紹介である。
 一九四一年一一月四日早朝、日本軍の飛行機が飛んできて、ペストに感染したノミを数十キロの綿や雑穀と共に常徳市内の「鶏鵝巷」という地域に投下した。当時の常徳市の人口は六万人前後だった。散布から一週間後に、市内にペストが流行し始めた。ペストには肺ペストと腺ペストの二種類があって、前者はペスト菌が人間の肺に侵入して発病し、人間から人間へ直接感染した。後者はノミを介して伝染し、ペスト患者が死亡するとノミが死者の身体から離れて、生きている他の人を刺して感染させる。肺ペストは感染するとすぐに当日でも発病したが、腺ペストは二、三日潜伏してから発病する。
 家族に発病者がでると、家族が必死に看病したので、家族間に伝染し、家族全員が死亡して家系が絶えてしまうこともあった。人口密度の高い市街地ではペストがあっという間に爆発的に広がり、多数の死亡者がでた。常徳市内の住民には、近郊農村の出身者が多く、ペストで倒れた農村出身者は故郷に帰って死にたいと思い、担架や荷車などに運ばれて、自分の村に戻ると、今度はその村にペストが流行した。村は共同の井戸水を使ったり、村中を生活用水が流れていたりしたので、ペストは村中に広まった。楓樹崗という人口六五〇人ほどの村に一人の感染者が運ばれてきたために、爆発的にペストが流行、村民一八七人が死亡した。蔡家湾村という蔡氏一族の村は、三七一人の村民中、当時二一歳の男性が生き残っただけで、三七〇人が死亡した。
 桃源県は常徳市から二〇数キロ離れていたが、豚を販売する商人が豚を連れて常徳へ行き、感染して家に戻るとすぐに倒れ、彼の死後、家族や近い親族が一四人も死亡した。さらに、周辺の省から常徳へ行商にきていた人たちが感染し、自分の家に戻る途中で伝染させるということもあった。
 常徳市内で発生したペストは、近郊農村、周囲の県や町さらにその周辺の農村と、人々の交流圏・生活圏を通じて、常徳地域にとどまらない広範な地域に膨大な犠牲者を出したのである。
 一九九〇年代後半に細菌戦被害を受けた本人や遺族を中心にして常徳細菌戦被害調査委員会が設立され、広範な調査活動によって作成した『日本軍七三一部隊細菌戦被害者名簿』によれば、被害死亡者数は七六四三人で、被害者は一三の県・七〇の郷鎮・四八六の村落に分布している。しかし実際には、この数字より遥かに多かったと思われる。
 当時住民は、多数の死亡者が発生した原因が、日本軍の細菌戦によるものとは知るよしもなく、死者を出した家は、先祖が悪かった、怨霊が宿っているなどと噂され、周囲から恐れられ、恨まれて、地域社会から孤立を余儀なくされた事例が多かった。またペストが流行した村が、その村は呪われている、村民は疫病神にたたられているので、関係をもつな、娘を嫁にやるな、などと周辺地域からの偏見と差別にさらされた場合も少なくなかった。

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