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徐京植とその時代 ──批評家として、活動家として、教育者として

先日急逝された作家の徐京植さんについての報道各社の訃報は、軍事政権下の韓国で逮捕され、収監された二人の兄の救援活動や韓国民主化運動の一翼を担ったことに重点が置かれていましたが、その言論活動は多岐にわたります。
そこで徐さんの足跡をコンパクトにまとめた、

「徐京植とその時代──批評家として、活動家として、教育者として」
(執筆:早尾貴紀・東京経済大学教授/『徐京植 回想と対話
高文研、2022年〉所収)

を公開します。

ぜひご一読ください。


はじめに


 本書は、徐京植さんの批評活動の全体像や意義を明らかにする試みである。そのために以下の三部構成をとる。
 第Ⅰ部「自己形成と思索の軌跡」には、徐さんの最終講義と、徐さんへの長時間インタビュー、徐さんと三人の在日朝鮮人研究者(李杏理さん、崔徳孝さん、趙慶喜さん)との座談会の三つを収める。これによって、徐さんがどのような状況にあってどのような問題意識をもって発言をされてきたのかを明らかにする。
 第Ⅱ部「日韓にわたる批評活動の多面性」には、シンポジウムをもとに、日本から二人(鵜飼哲さん、高橋哲哉さん)と韓国から二人(権晟右さん、崔在さん)の四本の報告と徐さんからの応答、さらに東京経済大学の三人(本橋哲也さん、澁谷知美さん、李杏理さん)のコメントを収める。これによって、徐さんの批評活動が、どのように受容されて、どのような影響を与えたのかを明らかにする。
 第Ⅲ部「芸術表現をめぐる二つの対話」には、NHKディレクターの鎌倉英也さんと徐さんの対談、および、佐喜眞美術館館長の佐喜眞道夫さんと徐さんの対談を収める。これによって、徐さんとともに長きにわたって映像や芸術に携わってきた方と徐さんとのあいだでどのように共鳴しながら活動が積み重ねられてきたのかを明らかにする。
 またこの序文においては、編者の一人であり、長く徐さんの読者であり、元同僚でもあった私、早尾の立場から、徐さんの言論活動の全体像に一定の見取り図を与えることを試みたい。

第一期=救援活動の時代


 一人の作家としての徐京植さんの言論活動に、時代区分を入れることは厳密な意味では不可能だろうし、徐さん本人からは時期で区分されることに違和感・異論もあろうと想像するが、しかし徐さんの言論活動がつねに情勢の変動のなかで社会に向けて発信されたものであることに鑑みると、徐さん個人の持っていた唯一無二の役割と、その言論活動の意義の大きさを理解するためには、一定の時代区分を入れて社会情勢に照らしてみることは、有益であろう。
 徐京植さんの言論活動の第一期は、徐さんのお兄さん二人、徐勝さんと徐俊植さんが韓国留学中に政治犯として逮捕された一九七一年に始まり、二人が釈放される一九九〇年までと見ることができる。この一九九〇年の前後というのは、もちろん韓国においては軍事独裁体制が終わり民主化していった時期であり、世界的に見れば冷戦体制に形式的に終止符が打たれた時期であり、日本社会では直接的な戦争責任者である昭和天皇が死去し「昭和」が終わった時期であった。
 この七〇年代と八〇年代を通しての徐さんの言論活動は、お兄さん二人の救援運動のなかで、またそのために支援に集まった日本のリベラル左派の知識人らとの交流のなかでなされていった。たんに韓国の軍事独裁の問題ということでなく、日本も冷戦構図のもとで米国・資本主義陣営の一端を担い韓国の軍事独裁と共犯関係にあったし、また日本による朝鮮半島の植民地支配が未精算であったことも韓国の軍事独裁に関係していた。他方で、冷戦構図のもとで、共産党や社会党などに属していたりそれらを支持していたりする左派知識人がまだ一定の存在感を持っていた時代でもあった。日本のなかには、日本社会そのものの民主化を追求すると同時に、韓国の軍事独裁に、つまり徐兄弟の投獄に責任を感じ救援運動に関わる知識人がいた。日高六郎、安江良介、和田春樹、藤田省三らなどがその代表格であろう。徐さんは、在日朝鮮人政治犯の弟という当事者の立場で発言するとともに、こうしたリベラル左派の知識人との対話を通して日本社会に問題提起をしていった。その時期の著作は、『長くきびしい道のり──徐兄弟・獄中の生』(一九八八年)と『皇民化政策から指紋押捺まで──在日朝鮮人の「昭和史」』(一九八九年)に代表されるだろう。

第二期=歴史認識論争の時代


 徐さんの言論活動の第二期は、お兄さん二人が釈放され、冷戦が終わり、「平成」が始まった一九九〇年頃から東京経済大学の専任教員として就職されるまでの二〇〇〇年頃までと見ることができる。一九九一年から非常勤講師をいくつかの大学で始められているが、やはり常勤の専任教員となるかどうかで教育者としての役割に大きな違いがあること、その前後で徐さんの批評の言葉の質にある変化も認められること、また日本社会も一九九〇年代に「ポスト冷戦」と「ポスト昭和」と「戦後五〇年」とを迎えて大きく変動していた時期であったことも踏まえて、ここを第二期と区分することとしたい。
 九〇年代は、戦争の記憶と歴史認識をめぐる論争の時代であった。冷戦の終わりと東アジアの軍事独裁体制の終わりは、それまでの大きなイデオロギー対立のもとで封じられていた植民地支配と戦争の記憶を解き放ち始めたのに対して、戦後五〇年の区切りは歴史認識をめぐる反動的な運動を加速させた。具体的には、九一年に韓国で最初の元「慰安婦」のカミングアウトがあり、ここからアジア全域で日本軍「慰安婦」問題が争点化していった。この問題は、民族・性・階級が複合的に関わる植民地主義と戦時性暴力の典型的な事例でもあり、また記憶や証言の(不)可能性やオーラルヒストリーも含む歴史認識と歴史記述の課題を浮き彫りにした。他方で、冷戦が米国・資本主義の勝利というタテマエで終わったために党派的な左派論客は退潮してしまったこと、直接的な戦争責任者である昭和天皇が死去して「平和主義」的な平成天皇が即位したことで左派論客が天皇制批判を弱めてしまったこと、戦後五〇年の区切りで「もはや戦後ではない」「未来志向」という風潮が強まり、戦争の記憶を忘却する動きが強まったばかりか、日本による対アジアの戦争や植民地支配をアジアの解放や近代化に資するものだったとして正当化する議論が横行したこと(「新しい歴史教科書をつくる会」に代表される)、などが反動の兆候として顕著になった。
 こうした情勢の変化のなかで、日本人の左派リベラルの論壇が弱体化していき、逆に在日朝鮮人の知識人としてぶれることなく日本の植民地主義を批判し戦後民主主義の可能性を追求した徐京植さんの発言はますます重みを増していった。本書編者である戸邉秀明さんと私、早尾は、ともに九〇年代に大学生としてこうした歴史認識論争を目の当たりにしており、そうしたなかで徐さんの鋭い発言に接し、そして教えられていった世代である。なお私は、東北大学の学生時代に宮城県在住の在日朝鮮人の元「慰安婦」宋神道さんの裁判支援に長く関わり(九二年カミングアウト、九三年提訴)、そうしたなかで戦争・植民地支配・在日朝鮮人の歴史やポストコロニアリズムに関心を持つようになり、徐さんの発言を追いかけるようになった。
 宋神道さんの裁判支援の傍らで、私自身も「慰安婦」問題や歴史認識論争に関して発言や執筆をするようになった大学院生の頃に、高橋哲哉さんに声をかけていただき、高橋さんと徐さんとの連続対談「断絶の世紀 証言の時代」(九八年から九九年にかけて岩波書店で実施し『世界』に連載、同題で単行本化)に若手の聞き手として同席させていただくことになり、東北地方に住まいながら幸運にも徐さんと直接の面識を得ることとなった(なお本書第Ⅰ部の座談会に参加されている崔徳孝さんともそこで知り合った)。私以外はみな都内在住のなかで一人遠方から駆けつける私を、帰りの時間から交通費のことまで徐さんはいつも気遣ってくださったのがありがたかった。
 この九〇年代後半の時期の徐さんは、「慰安婦」の存在を認めないあるいは「売春婦」と蔑む右派・保守派の歴史否定主義者たちと闘いながら、同時に左派・リベラル派の「頽落」とも次々闘わなければならない、ひじょうに苦しい時期でもあった。和田春樹氏が一九九五年に発足した「アジア女性基金」という民間募金によって元「慰安婦」に見舞金を支払う運動の旗振りをしたことは、国家責任・国家賠償を否定することになった(徐さんはその後、二〇一五年の「慰安婦問題に関する日韓最終合意」で再び民間基金による解決が謳われた際に、和田氏と何度か公開書簡を交わすこととなったが、完全に平行線であった)。一九九九年には、花崎皋平氏が『月刊みすず』に出した「脱植民地化と共生の課題」において、徐さんの原則的な批評を「糾弾モード」で受け入れられないと批判したのに対して、徐さんはすぐさま同誌に「あなたはどの場所に座っているのか?」(『半難民の位置から』に収録)を書き反論を試み、戦争責任や歴史認識の問題をコミュニケーション・モードの問題に矮小化する過ちを指摘したが、やはり平行線に終わってしまった。
 その少し前の一九九七年には、倫理学者の川本隆史さんがやはり『月刊みすず』掲載の「自由主義者の試金石、再び」で、彼の師である鶴見俊輔氏がアジア女性基金(民間募金)を支持する無原則さおよび「慰安婦」に対する兵士の「愛」を語る一方的歪みを批判したが、即座に鶴見の盟友でもある藤田省三氏が同誌上で鶴見を支持し、川本さんに対し感情露わに「激怒」を示したことがあった。藤田氏は川本さんにとっても徐さんにとっても恩師であり、また鶴見俊輔と並んで戦後民主主義を代表する思想家である。当時東北大学で教員をされていた川本さんとは私は大学院生として親交があったので、その後に徐さんが仙台に来られた機会に私も入れて三人で会合を持ったが、その際、徐さんの「川本さん、反論しないのですか?」という問いかけに、川本さんが腕を組んだまま「うーん…」と唸ったきり言葉を発することができなかったことを鮮明に覚えている。
 和田春樹、鶴見俊輔、藤田省三、花崎皋平といった戦後民主主義を代表するようなリベラル派の論客たちが九〇年代を通して次々と「頽落」していったことについては、日本の戦後思想に深刻な限界があると言わざるをえず、在日朝鮮人の徐さんは期せずしてそのことを炙り出す存在であったように思う。なおこの時期の徐さんの批評を代表する書籍は、『分断を生きる──在日を超えて』と『半難民の位置から──戦後責任論争と在日朝鮮人』の二冊だろう。

「普遍性」へのまなざし


 徐京植さんの第三期に入る前に、徐さんの批評の特徴をもう一点加えておきたい。それは私が徐さんの批評に惹かれた点でもあるのだが、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害、そしてその煽りを受けたパレスチナ難民問題やパレスチナ解放闘争への眼差しである。
 私自身、大学生から大学院生にかけて、ヨーロッパ哲学を研究し、そのなかでもとくにハンナ・アーレントやマルティン・ブーバー、ジャック・デリダといったユダヤ系の哲学者に関心を持ちつつ、ユダヤ人の特異性と哲学の普遍性とが織りなす緊張関係のことを考えていた。さらにはそうしたユダヤ系哲学者らが、ユダヤ人国家建設運動や戦後に建国されたイスラエルに、さらにその結果として生じたパレスチナ難民に、どのような距離感と姿勢を持つのかを探っていた。むしろそのことを見ないでは、哲学に「普遍」を語る資格などないと考えていた。
 そうした時期に読んだのが、徐さんの『私の西洋美術巡礼』であった。それは、東アジアの植民地主義と軍事独裁の「特殊」な問題が、さらにそのなかでも「小さな」在日朝鮮人の存在が、しかし世界の〈普遍〉の問題に通じていること、近代資本主義世界の人間疎外や、国家と民族と個人の矛盾、マジョリティとマイノリティの緊張関係、権力と暴力の暗部といった、東洋でも西洋でも共通する人間性をめぐる問いであること、そしてそうした人間性を表現する絵画・芸術に徐さんが出会い、救援運動時代の閉塞や絶望から徐さんがかろうじて救われたこと、などが書かれたエッセイであった。
 また、ホロコーストのサバイバーでありそのことの意義を考察し続けながら最後に自殺したイタリアの作家プリーモ・レーヴィについて、丁寧に丁寧にその足跡を辿りながら自身の経験を重ね、そして日本の戦争の記憶・証言の問題に示唆を与える『プリーモ・レーヴィへの旅』は、衝撃的であった。九〇年代の歴史認識論争の渦中に刊行された数多くの書物のなかで、静かな声で響くこの一冊は長く読み継がれるべき名著であると思う。
 さらに、フランツ・ファノンや白楽晴など第三世界の民族抵抗運動の思想家や作家の作品読解を通して、植民地主義やアイデンティティについて論じた『「民族」を読む──20世紀のアポリア』、そのなかでもパレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニーについて論じた章「土の記憶」や、藤田省三や日高六郎や岡部伊都子や松井やより、そして本書第Ⅱ部収録のシンポジウムにも登壇いただいた鵜飼哲さんらとの対談をまとめた『新しい普遍性へ──徐京植対話集』、そのなかでもパレスチナ人映画監督ミシェル・クレイフィ氏との対談「普遍主義というひき臼にひかれて」は、ハッと気づかせられたり深く頷いたりしながら繰り返し読んだ。
 徐さんは、パレスチナ問題に対して共感を寄せつつ、それが東アジアの(ポスト)植民地主義に共通していたり関係していたりする部分を見出し、そして欧米近代の普遍主義ではない、帝国に抑圧された各地のマイノリティ同士が連帯できるような別様の「新しい普遍性」をパレスチナ人の経験とともに模索していた。単行本には収録されてはいないが、『現代思想』誌上でなされたパレスチナ/イスラエル研究者の臼杵陽氏と徐さんとの対談「分断と離散を越えて」(『現代思想 特集:想像の共同体』一九九六年八月号)もまた、私には学ぶところが大きかった。
 そうしたこともあり、九八年に徐さんと面識を得てからは、私は徐さんを仙台に招いて対話集会を重ね、二〇〇〇年に「断絶を見据えて──在日朝鮮人と日本人」、〇二年に「朝鮮とパレスチナ──あるいは日本とイスラエル」を開催したが、事前学習として最初のときはブックレット『皇民化政策から指紋押捺まで』を、二回めのときはクレイフィ氏との対談および臼杵氏との対談を、集会参加者にそれぞれ読んで臨んでもらった。この二度の対話集会は、徐さんが多くの質問の一つ一つに丁寧に応じてくださったことで、ひじょうに充実したものとなり、より広く読んでもらうべくすべてを文字起こしして冊子化した。そしてこの二つの冊子を両方とも、徐さんの書籍『秤にかけてはならない──日朝問題を考える座標軸』に収録していただくこととなった。単独の講演や知識人との対談ではなく、市民集会の記録が徐さんの著書に収録されるのは珍しいことだったが、私にとっても貴重な一冊である。
 パレスチナ関係のことで追記すべきこととして、私が二〇〇九年に日本に招聘したガザ地区研究者でホロコースト・サバイバーであるサラ・ロイさんと、徐さんに対談していただいたことがある(「〈新しい普遍性〉を求めて──ポスト・ホロコースト世代とポスト・コロニアル世代の対話」として、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』青土社に収録)。また、ガザ地区の人権活動家・弁護士のラジ・スラーニ氏や、イスラエルのユダヤ人ジャーナリストのアミラ・ハス氏らとも徐さんは対談している。

第三期=教育者・文化運動の時代


 徐さんの言論活動の第三期は、二〇〇〇年の東京経済大学での常勤教員としての就職以降と見ることができる。徐さんが大学で常勤教員をするということで、さまざまな影響を社会に、とくに若い世代に与えることとなった。第一には、「教養」教育として、戦争や差別、人権やマイノリティといったことを、日本社会の中間層をなしていく学生たちに伝えていった。第二に、「21世紀教養プログラム」やゼミを通じて、とくに「芸術」を媒介して人間や社会を考察し表現する学生たちに寄り添い、育てていった。絵画だけでなく、写真、映画、音楽、演劇など、さまざまな芸術表現による卒業論文(卒業制作)を仕上げて巣立っていった学生たちがいたが、多くが徐さんのところでなければここまで自由にはできなかったであろうし、また社会的マイノリティを自認するさまざまな学生たちが徐さんのゼミに集まっていた。徐さんが自らを「学生らのセーフティネット」と呼んでいたことが思い出されるが、本書第Ⅰ部に収録の最終講義の際には多くの元ゼミ生が集まり、徐さんがいかに慕われていたかを示していた。第三に、徐さんのもとに毎年のように在日朝鮮人の学生が入学してくるようになり、徐さんの助言のもとで在日朝鮮人のアイデンティティや歴史や社会的課題に向き合い卒業論文を書いていった。本書共編者の李杏理さんもまた徐さんのもとで学んだ学生の一人であった。
 この時期の教育者としての徐さんの活動を反映している書籍は、『教養の再生のために──危機の時代の想像力』や『在日朝鮮人ってどんなひと?』だろう。前者は東京経済大学で徐さんが中心となり「21世紀教養プログラム」を発足させた際の徐さんの講義に、加藤周一氏とノーマ・フィールド氏による記念講演を合わせて書籍化したものだ。また後者は、中高生から大学の新入生あたりを想定読者として連続講義をまとめた、在日朝鮮人に関する総合的な入門書である。なお、この時期の書き物について、一九九〇年代の徐さんの鋭く厳しい論調を知る人たちから、「丸くなった、甘くなった」といった批判を聞くことがあるが、それは徐さんの半面しか見ていないことからくる誤解のように思う。徐さんは教育者として、いかに日本社会の中間層をなすノンポリな若者たちに届く言葉を紡ぐかに腐心していた。私は二〇〇六年から徐さんが二年間サバティカル(研究休暇)で韓国に行くあいだの留守番として、徐さんの講義を非常勤講師として代行したが、その際に徐さんから講義の心得として、上記の腐心を伝えられた。「教室は独りよがりに先端の研究成果を披露する場所ではない。目の前の学生にいかに言葉を届けるかなのだ」ということを私に言い置いていったのを覚えている。多様な学生を育てるという経験の積み重ねが、自ずと徐さんの語りに変化を与えていったのは、当然のことだと思う。
 加えてこの時期の徐さんの言論活動としては、『季刊 前夜』(全一二号、二〇〇四~〇七年)などの文化運動が挙げられる。九〇年代までは「孤高の人」という印象が強いが、二〇〇〇年代は教育者の顔に加えて、多くのアーティストや研究者や活動家をつなぎ文化的発信にも力を入れていた。〇四年に東京経済大学で開催した展示とシンポジウム「ディアスポラ・アートの現在──コリアン・ディアスポラを中心に」や、〇五年に『前夜』が行なったドキュメンタリー映画『ルート181 パレスチナ~イスラエル 旅の断章』(ミシェル・クレイフィ、エイアル・シヴァン監督)の上映運動といくつかの関連イベント(私も映画解説などを担当した)、一二年に東京経済大学で開催した韓国の写真家、鄭周河氏の写真展と関連シンポジウム「フクシマの問いにどう応えるか──東アジア現代史のなかで」(本書編者の三人が参加した)などが挙げられる。徐さんのいろいろな意味での越境的なポジションが成し得た稀有な組織力と発信力の成果であったと思う。なお、これらの活動に関連する書籍としては、『季刊前夜 別冊 ルート181』、『ディアスポラ紀行──追放された者のまなざし』、『奪われた野にも春は来るか──鄭周河写真展の記録』(高橋哲哉との共編)であろう。
 その鄭周河写真展と関連シンポジウムとは、二〇一一年三月一一日から始まった東日本大震災、なかでも東京電力福島第一原子力発電所の甚大なメルトダウン事故を背景に開催されたものであるが、この大事故は徐さんもまた深刻なものと受け止めた。とはいえ、それはたんに未曾有の大災害としてではなく、戦後日本国家の核エネルギー政策の破綻、および、東アジア冷戦体制下で隠された軍事主義と東北地方にリスクを押しつけた国内植民地主義とを暴露する出来事だったからであり、そこで覚醒した日本社会が「復興」ではなく「更生」することを徐さんは願っていた(が、そうはならなかった)。と、同時に、私自身が当時被災地宮城県に在住だったこと、そしてその翌月四月に東京経済大学に着任予定だったことから、被災避難時には徐さんには多大な心配をかけ、かつ物心ともに厚く支援をしていただいた。私の着任後も、何かと気遣ってくださり、また前記のように、原発事故関連のイベントを開催しては常に私を誘ってくださった。なかでも、二〇一二年に韓国の陜川(広島で被爆して帰国した韓国人が多く「韓国のヒロシマ」と呼ばれる)で開催された「非核・平和大会」にも誘ってくださったのは、私が自分の被災経験を「世界」につなげて考え発言する貴重な機会であった。
 二〇一二年の鄭周河写真展は、さらに一三年から一四年にかけて福島県南相馬市や埼玉県の原爆の図丸木美術館、沖縄県の佐喜眞美術館など六箇所を巡回し、その都度トーク・セッションやシンポジウムが開催された。そのうちの二箇所で私も参加させていただき司会や発言もしたが、その全体を記録として書籍化したものが先にも触れた『奪われた野にも春は来るか』であった。また、同時期に徐さんは、自分の単著単行本として『フクシマを歩いて──ディアスポラの眼から』をまとめ、さらに、福島県出身でもある高橋哲哉さんと、韓国の歴史家の韓洪九さんとの連続鼎談を『フクシマ以後の思想をもとめて──日韓の原発・基地・歴史を歩く』として刊行している。徐さんにとって原発事故がいかに大きな意味をもったのかをこの三冊が物語っている。

おわりに


 この序文および本書全体によって、徐京植さんの全ての言論活動を網羅できたわけではないことはやむを得ないが、それでも編者三人と徐さんご本人と関係者のみなさんの協力で可能なかぎりのことは尽くしたつもりである。振り返ってみて、戦後民主主義と東アジア冷戦とが緊張関係をもっていた七〇年代・八〇年代、ポスト冷戦とポスト「昭和」が重なる時期に歴史認識論争が激しかった九〇年代、南北朝鮮や中国との関係を悪化させた一方で〈九・一一〉以降の対テロ戦争で軍事緊張が強かった二〇〇〇年代、原発事故以降に内向きな復興ナショナリズムが高まった二〇一〇年代と、徐さんは稀有な時代の目撃者であるとともに、どの時代においても体制やマジョリティを冷徹に見通す「マイノリティの目」で発信を重ねる言論人であり続けた。そして、在日朝鮮人としての民族アイデンティティを強く肯定する「民族主義者」(この意味は本文中で説明される)であり、西洋文化(絵画・音楽・文学)の伝統に通暁しそこから最良のものを汲み取る人文主義者であり、パレスチナをはじめとする第三世界の虐げられた人びととの連帯を模索する「新しい普遍主義者」であり、そして日本の大学や社会で学生や同僚や市民をつねに啓発してくれる教育者であった。一人の人間が背負うにはあまりに重い荷物を、徐さんは負っていたように今更ながら思う。
 私はその徐さんの謦咳に接することができ、最大の恩恵に与った一人である。この一冊でその恩義に報いることができるわけではないが、せめてわずかな恩返しができれば幸いである。
 願わくば、本書を通じて、徐京植さんのさまざまな著書がさらに読まれんことを。


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