絶対服従の皇軍兵士誕生の起点

 142年前の今日(1878年8月23日)は、帝都に駐屯する近衛砲兵大隊による反乱(竹橋事件)が起きた日である。
 近衛兵は、1871年の廃藩置県を決行するに当たり、薩長の藩士を主体に編成された部隊・御親兵、いわば政府軍創設の起点となった部隊である。当時の近衛兵は全国の6つの鎮台から選抜された兵によって編成されたベテランぞろいの精鋭部隊だった。
 ところが、西南戦争(1877年)後の褒賞において、近衛砲兵は冷遇されたため、不満を爆発させた近衛砲兵大隊の下士官兵が、大隊長と週番士官を殺害、大砲を引いて竹橋駐屯地の営門を出た。反乱は、計画が未然に発覚し、同じ近衛の歩兵部隊によって鎮圧され、死刑53名、流罪10年118名を含め、近衛砲兵大隊の過半数、400名近くが処分された。
 写真は数年前に撮った、竹橋事件殉難者の鎮魂の碑(東京都港区・青山墓地)である。
 処刑された兵士たちの遺体は青山墓地に埋葬されたが、1889年帝国憲法発布の際に大赦となり、有志たちの手により「旧近衛鎮台砲兵之墓」が建立された。この墓はアジア太平洋戦争末期の混乱のさなか行方不明となっていたが、100回忌にあたる1977年に現在の場所に移されているのが発見された。
 竹橋事件に衝撃を受けた陸軍卿の山県有朋は事件から2カ月後に「軍人訓戒」を作成・布達したが、さらに忠誠無比の天皇の軍隊(皇軍)を作り上げるために、「軍人勅諭」を発布した(1882年1月)。
 「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば、朕は汝等を股肱(またとひじ、手足)と頼み、汝等は朕を頭首(あたまとくび、首領)と仰ぎてその親しみは特に深かるべき。」
 「下級の者は上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ。」
 どんな理不尽な命令にも服従しなければならない──これがアジア太平洋戦争における皇軍兵士の無惨な死に帰結したのである。

竹橋2


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