ワシントンは「チョコレート色の街」

福田直子著『観光コースでないワシントン──歴史と戦争が刻まれる街』から抜粋

 ワシントンはアメリカ人の間で、長い間「チョコレート色の街」と呼ばれてきた。市内の黒人の人口の割合が常に高く、一九五〇年代には七〇%近くに達したこともある。二〇一一年、黒人の比率は初めて五〇%以下になったが、SE地区の住民は大半が黒人である。南北戦争後の奴隷解放から「分離すれども平等」という差別の時代を経て、黒人たちが真に市民権を得たのは公民権運動以降だ。
 公民権運動は一九五四年から一〇年以上続いた。黒人がみずから立ち上がり、白人活動家たちの協力を得て広がった差別撤廃の運動は辛抱強く、非暴力の姿勢を崩さなかった。たびかさなる人種差別主義者たちの暴力に直面しながら、非暴力を貫いた公民権運動は、黒人のみならず、人種そのものに対するアメリカ人の意識を変えていった。
 運動のきっかけとなったのは一九五四年五月一七日、連邦最高裁判所が下したブラウン対トピカ教育委員会裁判の判決(通称「ブラウン判決」)である。原告である黒人溶接工のオリバー・ブラウンは小学校三年生の娘が人種隔離のために近くの学校に通えず、遠くの学校へバスで通わなければならないのは違法であると訴えたのである。リベラルなアール・ウォーレンを主席判事とする最高裁判所は公立学校での人種差別が憲法違反であり、「人種だけを理由に黒人の子どもを隔離することはその成長にかえって悪影響を与えるものである」とした。一九世紀末から続いていた分離政策を事実上覆す、初めての判決である。
 この判決に勇気づけられた黒人たちは、人種分離反対と雇用の機会均等を求め、各地で活動を展開する。バスの座席分離政策をボイコットする事件をかわきりに、分離政策が適用されている公共の場所やレストランなどで座り込む「シット・イン」や、白人と黒人が一緒にバスに乗り込み、差別が蔓延している南部を横断するという「フリーダムライド」も行われた。差別撤廃に共鳴して活動を共にした白人たちは、「黒人に賛同して白人を敵に回した」と、警官たちからもひどい暴力を受け、犠牲者も出した。ところが、暴力には決して暴力で応えるべきではないという非暴力の姿勢に徹したことで、運動はさらに支持されてゆくことになる。
 公民権運動が頂点に達した一九六三年八月二八日、ワシントンのモールには、二〇万人以上が集まり、リンカン記念堂の前で公民権運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング牧師が演説した。「私には夢がある」というわずか一七分ほどの演説は、歴史に残る名スピーチのひとつとして有名になり、キング牧師が立った場所には今日、演説の言葉の一部が刻まれている。
 公民権法は正式名を「憲法上の投票権を実施し、公共施設や公立の教育機関における差別にたいする憲法上の権利を保護するため、訴訟を提起する権限を司法長官に与え、公民権委員会が連邦援助計画における差別を防止し、雇用機会均等委員会を設置するためおよびその他の目的の法律」とし、一九六四年に上院と下院で可決された。翌年には「合衆国またはいかなる州も、人頭税その他の税を支払わないことを理由に、投票権を拒否または制限してはならない」と規定する「投票権法」といわれる憲法修正第二四条が成立した。リンカン大統領が奴隷解放宣言をしてから一〇〇年を経て、一連の人種差別法は事実上廃止された。
 しかし、公民権法が成立したからといって、アメリカ社会に巣くう根強い差別意識がすぐさまなくなることはなかった。南部だけでなく、北部の主要都市の白人たちも反発して攻勢に出たため、その後、数年間は各地で暴動が起きた。「長く暑い夏」とよばれる一連の暴動事件は、五年間続いた。

(中略)

 公民権運動を指導したマーティン・ルーサー・キング牧師の像が晴れて「モール」に加わったのは二〇一一年であった。「モール」といっても、タイダル・ベースン沿いで、ちょうどリンカン記念堂とジェファソン記念碑の中間あたりだ。
 キング牧師記念碑は、春になると満開の日本桜に囲まれる。暗殺されたときが桜の咲く頃であったため、キング牧師を偲ぶのに最も適しているとされた。
 大統領ではないキング牧師の記念碑を、リンカン、ジェファソン、フランクリン・ルーズベルトという、三人のアメリカ大統領の記念碑の近くに建てることは、キング牧師記念碑委員会の長年の悲願であった。モール周辺には国内外から年間、二五〇〇万人の人々がやってくる。モール近辺に記念碑や博物館を建設することは、それだけで大きな意味がある。9・11同時多発テロの後に建立されたとあって、爆弾を積んだトラックが突入しないよう、頑丈なコンクリートやボラード(鉄柱)のバリアで囲まれ、訪れた人にはややものものしい印象を与えている。
 「希望の石」と名づけられたキング牧師の像はやや肌色がかった花崗岩で製作され、高さ約九メートル、顔の部分だけで四六トン、全体で一六〇〇トンもある。大型の記念碑を建立するためには議会の承認が必要で、その後、資金集めがされてから具体的な像のデザインが決まる。キング牧師像では、五二カ国から九〇〇の応募があったが、最終的に中国人のアーティスト、雷宜ミソが選ばれ、中国で製作し、ワシントンに移送されてきた。
 当初は「黒人のアーティストを起用すべきであった」とか、巨大なキング牧師の像は「顔が険しすぎる」、「権威主義的な印象が強い」との批判もあったが、キング牧師記念碑委員会は、「キング牧師はアメリカのヒーロー」であって、黒人社会の枠に収まらない偉大な人物であったと説明している。

写真①:キング牧師が演説した場所には「私には夢がある」という言葉が刻まれている
写真②:苦渋の歴史を歩んできた黒人たちに希望を与えるキング牧師の記念碑

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