背の海

何でもないことで涙が出ることについて、考えてしまった時点で涙が意味を持ち、正確には無理に意味を持たそうとする自分の動きにより「そうですそうです。とある素敵な理由ですよ」と気を使いながら無色の水滴は地面に落ちていく。

隣に住んでいる坂本さん宅、朝に決まって6時の頃に油の音が聞こえてくるので健康的だ、良い奥さんだ、古き良き、ティーンスマイリーを繰り出しながらダイナソーjrのウィキペディアを読了。ダイナソーjrから東京ダイナマイトのウィキへとたどり着けるだろうか。意外にも3回リンクを踏むだけで達成することができ、これを友達に伝えるとしたらどう話せばいいだろうか。そう考えると明日の登校が一瞬だけ楽しみになるも、なぜか2度続く急な上り坂に上書きされ億劫な気分に。こういった意識の変遷が連なってドラマが生まれればいいものの、テレビで二宮くんがはしゃいでいるとそんなことすらも忘れて一喜、結局すべてを忘れて翌朝上り坂に辿り着くと道中までの5分程度も完全に忘れてしまう。30を超えてふと振り返るとしてもこんなことはまったく思い出さず、行ったこともない綺麗な海に勝手に想いを馳せるのだと思うと一体この7月1日に何の意味があるのだろう。学校に行くのはやめだ。

こういった気だるさは最近、自分の内でも外でも、ある程度には肯定されている気がする。これで地獄には落ちないし、このまま小田急線に乗って江ノ島まで行ってしまえば大人になった後から思い出すだろう。自転車も捨ててしまえばいいけれど良い自転車だし、そう、自転車が高級で便利なものだからって後からどうなるのだろう。青春の思い出に、高級電気自転車が登場するか?しんどい徒歩や錆びたベンチを差し置いて出てくるか?そもそも便利さに値段が比例すること自体、あまりに単純すぎてダサく感じる。爆裂にくさいうんこに18000円の値がついたり、アホみたいに画質の良いテレビが680円でも本来良いはずなのに、そうすればクールなのにそうならない今っていうのは、すべて辻褄の枠組みの中で行われている、自分たちは決められた動きをするパックマンのように感じる。果物屋で生計を立てようなんて誰が思う?

改札を通ってホームに立った時点でもうすべてを捨てたような気分だった。架空の人物にまた会おうとさらばを決め、さよなら電車に乗り込むのは我ながら勇気が要ったろう。ドアが閉まり、鳥の声が聞こえなくなって、電車を密室と捉えたのは生まれて初めてだった。読む本もないけど、車窓を眺めて暇をつぶすのもなんとなく読書的に感じてためらわれた。今の自分の状況にうっとりした顔をしてしまったらどうしよう。そう思って向かいの空いた座席を見つめながら寿司と寿司の交尾を想像してみると大変うっとりしてしまった。ここはどこで自分は誰で彦摩呂のちんちんってどんななんだ。風邪をひきたくなってきた。

外の景色を写しながらガラスは眠っている。人はもう誰も乗ってこない。侍や忍者が実在したなんて信じていない。宮本武蔵は乞食だ。鎌倉幕府は公園でケネディは木こりだ。大奥はラクロス部だし、ヒトラーは車の名前で、世界初のオートマ車であった。鉄はやわらかく羽織ると暖かい。人は走れない。実家に金を入れている大学生は死ぬ。原付で空港に駆けつけても手遅れだ。恋人はパリでパティシエになる夢を勝手に諦め、あらゆる階段をより直角に削る仕事を始めた。なぜ青春に色を塗りながらもこんな思考なんだろう。なんとなく気分を変えようと向かいの席に座ると、すでに海が見えていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?