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自分とは何かを知り、これからも最高な人生にするために、人生を振り返ってみた。

引っ込み思案な幼少期


1998年12月27日。私がこの世に産まれた。ある友人も同じ年月日に産まれたらしい。その日、私は約3600gの体重で甲府中央病院に生まれた。私は比較的大きな体で生まれたため、周りの人々から多くの驚きと喜びを受けた。 当時、私たちは山梨県で生活していたが、しばらくして、私たちは東京都練馬区へと引っ越すことになった。そこで私は祖母と一緒に数ヶ月過ごした後、私たちは再び引っ越すことになり、東京都杉並区に移り住んだ。
当時、私は日の出幼稚園に通っていた。ガラスの前で遊びながら、唾をシャボン玉のように吹く瞬間を大いに楽しんだことを覚えている。また、両親から勧められて、サッカークラブや水泳の練習にも積極的に参加し、僅かながらも自己成長を感じていた。
ある時、幼稚園から帰る途中での出来事が今でも覚えている。私は道路に飛び出した瞬間、自転車に轢かれてしまった。私の歯から血が流れ出し、母親は私をとても心配し、叱った。今でもその光景は鮮明に思い出される。この出来事以来、私は徐々に社会性を身につけ、他人の目を気にするようになった。
サッカーでも、私はなぜか様々なポジションを経験していた。しかし、試合に出るとミスすることをとても恐れ、不安に襲わ続けていた。この不安は私にとって非常に顕著であり、試合に出ることを避けるようなタイプになってしまった。緊張してしまったため、私は本来のプレースタイルを発揮できなくなり、人前での行動が苦手になってしまった。今、私は振り返ってみると、自分自身ができないことを誰かに見せたくないという思いが強く背景にあったのではないかと感じている。失敗したくない、できない自分を見られたくない、という思いが私の行動に影響を与えていたのだ。

足の速かった小学校低学年時代

小学生に上がったときは、水泳やサッカーを行っていたこともあり、他の人と比べて運動神経が良かった。足が速く、体育祭では皆んなから「すごい」という眼差しで見られていた。また、様々な習い事を行い、サッカーだけでなく、水泳を継続したり、兄の影響もあり、塾や野球も始めていた。色んなものに好奇心旺盛で、特に算数が公式や、ピタッとはまる感じが好きだった。
また、学校においては、いじめられている子の登校を支援するために、一緒に登校したり、高尾山に登り、友人が怪我した場合、おんぶして山登りをするなど、現状が上手くいっていない人に貢献をする機会が多くあった。0以下になっていたり、困っている人がいると助けたいと感じている部分があった。

人の目を気にし始めた小学校高学年

平日は友人とゲームや公園での遊びに没頭していた。しかし、週末の野球になるとプレッシャーが重くのしかかり、常に失敗を恐れる日々が続いた。恐怖に押しつぶされるばかりで、友人たちとの遊びを逃げ道として選んでいた。時にはただ楽しいことだけを追い求めることで自分を紛らわせた。元々、兄がやっていたからという理由で部活に入部させられたが、初めはうまくなることに対する欲求はなかった。同期にはジャイアンツジュニアの友人がいて、野球を始めたのが遅かったため、自分が今更上手くなれるとは思えなくなり、諦めの境地に立たされていた。
小学校で行った学年の劇では、緊張や不安はあったが、ライオンキングの主役に選抜され、組織の中における重要な役割と感じていたため、楽しい思い出であった。
友人とのゲームは、当時私にとっては最高に楽しい時間だった。特にモンハンでは、みんなで一緒に狩りをすることで、協力し合いながら強敵を倒す快感を味わえたのだ。それはなぜかと言えば、友人たちが強力な敵を一緒に倒してくれるからである。その結果、私たちは素晴らしい素材を手に入れることができ、ただ自分1人でゲームを進めるよりも、自分の力だけでは倒せない相手に立ち向かうことに、魅力を感じていたのだ。目標を達成するために、人の手を借りて最短で進むことに対して、楽を感じていた。

ゲームの虜であったことによって、中学受験のために通っていた塾でも最下位クラスに甘んじてしまった。野球の方でも試合に出ることはできず、ただの部員に過ぎなかった。仕方のないことだと諦めながらも、楽なので良いかと思っていた日々。なぜそう思ったのか、当時は明確な目標が持てず、ただ目の前の課題をこなすだけで心躍るものを感じていなかったのだ。さらに、野球では先輩と一緒にプレーすることができず、自分自身を出せないまま縮こまった状態で過ごしていたた。自分自身を出しても、主張しても否定されるのではないか、ミスしたらまた怒られ、できない自分がバレてしまうのではないか、そのように窮屈で退屈な毎日と感じていたのだ。相手を気遣い愛想よく接することに疲れ果ててしまい、本当の自分を語ることができず、嫌いな自分のままでいることにも疲れを感じていた。この頃から、他人の人生を歩むようになってしまったのだ。その後、両親からゲームを強制的に取り上げられ、野球も週末のみとなり、黙々と勉強に励む日々が始まった。また、当時の自分は反抗期でもあったため、遊んでいる最中に誤って友人の手をカッターで人を傷つけたり、筆箱を投げつけたりしてしまった。母親が謝る姿や、自分が人を傷つける行為に自己嫌悪を覚え、両親にも申し訳なさを感じ、自分自身の行動や思いを制限しようと考えるようになり、親に情けないと思わせることなく、喜ばせようと無意識で思ったのかもしれない。また、当時兄が志望校に合格することができず、色々なことを親に言われている姿を見て、自分はこうならないように、親を悲しませてはいけないという無意識が芽生えていった。

小学生最終学年となり、親から強制的にゲームを取り上げられた。また、野球をやっている中で憧れの早稲田という志望校に向けて、努力し始めた。当初はE判定ばかりで受からないだろうと思っていた。しかし、勉強してわからない点を自ら講師に休日でも質問をしに行くようになったことにより、試験で「できる」状態になり、徐々に楽しさを感じていた。家では集中できないので、そのまま塾で勉強をし続け、その結果、第一志望の学校の合格を勝ち取った。合格確率は低かったものの、挑戦して勝ち取った合格は大変嬉しく、また、支えてくれた両親も喜んでくれて本当に嬉しい気持ちになった。以前までは、自分自身に答えがない状態はいやで、答えを見て理解したつもりでおり、できないと思われる自分が嫌だという感情があった。しかし、自分の適切な現在地や、何もないこと、人に頼った方が良いことを理解することで、質問すること及び自分自身で考え、答えを見つけようとすることによって、希望する学校に入ることができた。また、野球ではいつも皆が行わない、常に準備、片付けを積極的に行っていたり、状況に応じて、ポジションがコロコロ変わっていた。。なんとなく過ごしていた中で、先発の投手が怪我をした。そこで自分は遊びで投げていたスローボールがコーチから目をつけられ、投手としてポジションチェンジすることになる。投手は試合に置ける重要な役割で緊張やミスを不安になるようになってしまうことだが、自然と緊張しなかった。自分でボールを投げること、バックには味方が守ってくれていること、信頼できる捕手がいたことなどが理由で自分だけでないという感覚があり、チーム感覚が強くあった。チームで勝ちたいという思いで文武両道で練習外でもプレーを行い、その結果、都大会ベスト4という結果になった。常に、組織において足りないところ、枯渇しているところに、自分がピースとして埋まるような感覚があった。

無味無臭な中学時代

中学に入学したものの、野球部の部活動は週3回しかなく、退屈な日々が続いた。練習のない日は、与えられた宿題をこなすか、スマホのゲームに没頭していた。周りと比べて、小学校の頃に練習してきたことがあり、少しだけアドバンテージを感じていた。また、周りの人々も練習以外の時間をだらだらと過ごしていた。新設の学校であるため目標がまだ定まっておらず、ワクワクするような目標も存在しなかった。休日には友人の家に行き、映画を見たりゲームをしたりしていた。このだらだらと過ごす時間は、一時的な快楽を追い求めていること、友人たちと一緒にいることの安心感により続けられた。特に、友人と将棋をすることにハマっていた。将棋は相手の一手先を読むことや決まった戦術をどのように組み込んでいくかを当てはめることがとても魅力的だった。しかし、心の中では少しやり過ぎだと思っていたこともある。それは、食事中などに、友人の前でオナラをすることですることによって、みんなが笑ったり、特別な感覚を感じるときである。。全員が何かしらの行動で笑ったり、クラス全体が盛り上がることがとても嬉しかった。

野球部では、小学校での経験もあり、上級生に混じり、レギュラーとして舞台に立てる喜びに胸を躍らせていた。緊張感が漂う中でのプレーには燃えるような憧れを抱き、先輩たちの中で存在感を放つことに強いやりがいを感じていた。自分たちの世代を代表してグラウンドに立てるという自負と、チームへの直接的な貢献ができていることを感じていた。しかしながら、ある時、その舞台での一瞬のエラーがチームの敗退を招いてしまった。深い悲しみと共に、彼は今までの自身の行動に対して自己嫌悪に陥った。過去の軽率な行いと戦う中で、次年度のチームを引っ張る決意を抱いた。

練習時間が短い時間しかない中、練習時間を最大限に活かすため、私はチームの準備を最優先に行った。もしその日チームの監督がいない場合でも、私は自分自身でノックを打つようになった。私は勝利を掴むために何ができるのか、どうすれば勝利に繋がるのかを考え抜き、父親の協力もあり、外部のグラウンドを確保し、時間帯を選んで練習するようになった。私はこの仲間たちと勝利を達成することが何よりも嬉しいと心から思っていた。
しかし、チームの一員は勝利のためではなく、ただ野球を楽しむために参加している者もいた。当時、本当に心底一緒にプレーをしたくないと感じていた。私は全員を引っ張ることができなかったのだ。私は一人勝手に練習を続け、自分と楽しく過ごせる人々とだけ関わり、他のチームメンバーと向き合おうとしなかったため、このような結果になったのだと感じている。
公式戦が近づくにつれ、緊張感やプレッシャーに耐えられなくなり、途中で投げ出したい気持ちさえも湧いてきた。どうしてそんな思いを抱いたのか、ただ気楽に緊張せず、日常を過ごすことが重要になっていった。また、当時自分は主将にも関わらず、人前で話すことが苦手意識があった。そのため、それをネタにしてみんなに笑われていた。なぜか副将が主将の言っていることを通訳するといった形でいじられていた。当時、嫌気は多少あったが、手段がどうあれ、人を笑わせることは嬉しかったが、まあいいやと思っていた。その時から、あまり人に対して向き合うことも素直に接することもできなくなり、できなくなったいった。その結果、公式戦では1勝もできずに最終学年が終わってしまった。

中学校3年の長崎旅行は、印象深く残っている。その街並みは異国のような雰囲気で、まるで別世界にいるかのような感覚に魅了された。私はこの場所に再び訪れたいという思いに駆られていた。
勉強の方は、平均点を取ることのみで、それには満足していたのだ。高校へ進学できれば良いため、点数を取る必要性を感じず、勉強そのものには面倒臭さを感じていた。だからこそ、積極的に勉強に取り組むことはなかった。自分自身の興味関心を抱く学問もなく、ただ平均点を保つために勉強に励んでいた。当時の私は、目標が何もないため、最小限で効率的に楽しく過ごすしていた。野球以外でも負担やストレスを抱えることを嫌い、勉強は楽しみながら点数を稼ぐ手段として充実感を感じていた。ただし、運動神経は優れていたため、優秀学生証を受賞した。しかし、この承認の欲求だけを満たされているだけで、振り返ってみれば、私は何もかも成し遂げていないことに気付いたのだ。

無難に過ごした高校時代

野球部に入部した私は、高校との厳しい上下関係の違いに最初は戸惑っていた。しかし、不思議なことに、その厳しさに対して嫌悪感を抱くことはなかった。年下であるべきなのに礼儀をわきまえているという強い意識があり、明確なルール(360度見渡し、100m先以上に先輩が歩いているところを見つけたら、そこまで全力で目の前にダッシュして、挨拶をする)が存在することで、やるべきことも単純で、苦労はそんなになかった。さらに、チームメンバーは私よりも遙かに優れた選手たちで溢れており、練習には緊張感があったが、その中で多くのことを学ぶことができ、甲子園という目標に向かって努力することにとてもやりがいを感じていた。憧れ続けてきた甲子園の舞台にも、自分が立つチャンスがあるという喜びにワクワクしていた。また、週に6回もの厳しい練習があり、体力的にも中学時代に比べてつらい時期もありましたが、野球への集中を妨げることなく、心地よく打ち込めていた。

3年生が引退して、先輩捕手が怪我したことにより、急遽自分が捕手に転向することになった。またもや足りないところを補うことを行っていた。キャッチングの技術の評価が高く、そのままベンチ入りを果たすことができた。下級生のころから高いレベルで野球をできることは嬉しかった。ただ、試合に出場することが当時自分にはなかったため、ブルペンでチームに少しでも貢献できるように自分なりにできることを行い続けた。プレーしたいという思いはありつつ、試合に出ることによって、ミスをすることの怖さは正直あ理、ブルペンにいることが楽に過ごせると思っていた。その後、推薦で1年生の後輩が入り、先輩が怪我から復帰することによって、Bチームに降格した。
悔しい気持ちもあったが、どちらかというと安心感があった。同じ同期と楽にプレーできるという気持ちがあったためである。ミスすることなく、無難に過ごして行ければ特に失敗することなく、居心地良く過ごせると感じていた。それからも無難に過ごし、時が過ぎるだけであった。また、野球部の同期から家畜が近くで飼われている場所で練習した時から、流れで「臭い」と言われることが永遠に続き、会話をしようとしても「臭い」と特定の人達から言われるようになった。すごく嫌悪感を感じ、自分自身も何も意見を言うことができず、ただ過ごす日々を送っていた。そのような無意味な発言をする人、当時何も言い返さず、そのままに過ごしている自分に対して嫌気がさしてきた。無難な行動、ミスしたらまた何か言われると考え、安全に何も起こらないようにと過ごすようになっていった。

高校最後の学年に、私はベンチでチームのために過ごす日々が多かった。同期達は成長し、試合で輝いている姿を見る度に、嫉妬や悔しい気持ちが胸に広がっていた。悔しい気持ちと共に、感じるのが遅すぎたことに気づいた。私にできることは、ただベンチから応援することだけだった。試合に負けた際の、何もできない無力さと、このチームメンバーと一緒に野球をすることができなくなる寂しさを痛感した。練習後にみんなで食べたセブンティーンアイスや、試合後のご飯、高田馬場のサイゼリヤに通った日々は、楽しかった。練習が辛くても、みんなで団結して勝つために頑張ることは、非常に楽しい思い出だった。もう二度とあの時には戻れないことを思うと、悲しみに包まれていた。

その感情は、友人と遊び、学び、過ごすしうちに静かに消えてゆきました。高校生活は試験勉強、体育祭、学園祭で形作られました。一緒にクラスメイトと共同作業し、VRのようなアトラクションを作るという難題に対して、試行錯誤しながら、クラスの雰囲気を明るく、最終的には表彰されたことも非常に良い思い出であった。学園祭では黙々と作業しながら、時に友と叫び合う時間もあり、体育祭では全校生徒の前でラジオ体操を指導する役割を果たし、人目を引くことや他者の喜びを感じることに楽しさを見出しました。自分が笑われても、それが他人を幸せにすること、組織が盛り上がる雰囲気に喜びを感じていた。なぜこのようなことが喜びをもたらすのか、みんなが楽しんでいる様子を見ると自分も幸せな気持ちになり、お互いに幸せを分かち合える状況を作ることに面白みを感じていた。

卒業旅行では、青春18切符で日本を巡る旅に4名の友人と出掛けた。各地の魅力的な場所を巡るため、慎重に計画を立てることにこだわっていた。しかし、時には友人の自己中心的な行動や遅れに少しイライラすることがあり、黙り込んでしまい、一人で先に行動を進めることもあった。目標に最短で近づきたいという思いに対して、何か遅れが生じてしまうと当時他友人と突き進んでしまう時が発生していた。
しかし、そのような状況の中でも、友人と一緒に美味しい食事を楽しみ、さまざまな体験を通じて、旅はますます楽しく最高のものとなっていったので、総じて最高に楽しかった。
また、学部選びにおいては、偏差値が文系の中では高い政治経済学部を志望していたが、点数が足りず、法学部に入学した。法学部へは、小学校の先輩で同じ高校に通う友人が弁護士になり、その職場を見学した際に出会った雰囲気やリーガルハイに感銘を受け、弁護士の魅力を強く感じるようになった。そんな彼の姿に心惹かれ、私は法学部への進学を決意したのだった。

無難に過ごした高校時代

大学に入学した。弁護士になるか、それともラクロスをやるか悩んでいた。ラクロスは体験するごとに上達していく喜びに溢れ、再び仲間たちとスポーツを経験したいとの思いから、ラクロス部に入部することにした。日々成長するラクロスは本当に楽しいものであり、私は自主練や動画を見るなどして、さまざまなことを学んでいった。大学では、高校時代捕手を行っていたことから、皆があまりやりたがらないキーパーを務めることとなった。しかし、同期の中には同じポジションで経験者がおり、最初の新人戦ではスタメンに選ばれることはできなかった。悔しさと共に、私は自分にもっとできるという実感があり、そのため、練習量を増やしたり、先輩からアドバイスを積極的に求めることで、次の新人戦以降ではスタメンを勝ち取ることができたのだ。
また、大学1年の秋に彼女ができた。彼女は明るく、チアを頑張っていた姿に私は魅力を感じていた。一緒に色々な場所へ行き、様々な経験をすることはとても楽しかった。彼女はチアと生活を両立させるために非常に苦労しており、私たちはほぼ半同棲状態でした。一緒に過ごす時間は私にとって非常に幸せなものであり、彼女の喜ぶ姿を見るために誕生日を祝うことは何よりも幸せでした。彼女を支えること自体も私にとっては楽しみであり、何よりも幸せだったのだ。誕生日プレゼントを渡すときは、彼女の喜んでいる顔を見ることでなく、何をしたら喜ぶのかを考えている瞬間であった。友人からはビッチじゃないかと言われ続けていたが、彼女の裏側で努力している姿に魅力を感じていた。

2年生になり上級生と同じチームでプレーするようになった。試合でも活躍して、自分のプレーにも自信を持つようになっていたが、ある試合で連続で得点を決められてしまい、それ以降自信を失い、再び試合に出ることやミスしたらどうしようという発想に戻ってしまっていた。不安になり、練習もこなす日々が続き、彼女と遊ぶことが優先的に高くなって行った。
その一方トップチームで活躍する同期たちは厳しい環境ながら、大きく成長して、スタメンとしている姿をみて、誇らしいと思いつつ、自分は何をやっているのだろうか、またこのままのスポーツ生活で終わってしまうのかと考えていた。そのまま、練習をしている最中に前十字靭帯を断裂して、約1年間のリハビリ生活を送ることになる。成長できない自分に悔しい気持ちもあるが、プレーをしなくて、失敗をしなくてすむ環境に、正直安心感を感じていた。またこのまま安定的に平常な主体的な人生を過ごすことがないように楽な選択をまたしていた。なぜその選択をしていたのか、それはまた「できない」自分、それにより批判されることや嫌われることが嫌だと考えていたのではないか。そのように集団の規範に従い、行動することのみを続けている生活であった。
入院中、お見舞いに来てくれた同期や後輩たちに対して、自分が一人で辛い時でも来てくれたみんなには今でも非常に感謝をしている。退院後、プレーで自分はやることがなかったため、ひたすら上半身のトレーニングを行うようになった。日に日に体が大きくなる自分に対して、周りから賞賛され、日に日に自信するようになっていった。

また、当初付き合っていた彼女に振られた。友人曰く、自分が怪我の入院中もしくは、ずっと前から他の男性と関係を持っていて、単純に自分に飽きたからだと考えられた。人生で一番涙を流し、なんでこんな思いしなくてはならないんだろうと思い、同期を誘い、オフの前の日はひたすらお酒を飲み続けた。彼女がいなくなると友人主催の合コンに誘われ、参加するようになり、その中で以前授業で出会った際に気になっていた女性がおり、その人にアプローチして付き合うことになった。彼女も友人からはビッチと言われ、でも素敵な部分が多くあるので、別に楽しければいいだろうと考えていた。
まだリハビリ期間は続き、ひたすら筋トレを続けていた。同じ怪我をした後輩と一緒にウェイトをして、方法を教えたりすることにもやりがいを感じていた。自分と同じ経験をして、自分が少しでも後輩の役に立てればと考えていた。その時は、一人で黙々とやるよりも、一緒にやることで非常に楽しさを感じていた。

ある時、先輩が途中退部をすることにより、急遽主務を務めることになった。主務はグラウンドの確保や、大学との連携などを行う役職である。自分としては非常に嬉しい気持ちになった。なぜなら、チームにプレーで貢献できない自分に存在意義を感じることなく、そんな中どんな形であれ、何かしら貢献できることにやりがいを感じた。主務として、新歓の責任者やグラウンドの確保や他部活や大学との連携のための連絡等を行っていた。特に新歓では、自ら色々なことを仲間と一緒に企画して、新入生が少しでも楽しんでもらえるような空間を作ること、さらにスタッフを昨年比3倍以上入部するという目標に対してやりがいを感じていた。その結果、前年比3倍以上のスタッフ及び新入生が入部することになった。
その後、復帰して久々にできるラクロスに楽しさを感じていた。前のように試合に出るのが怖いというよりも、体つきが変わり、ベンチプレスをここまで上がられるのであれば、勝てるだろうという謎の自信に満ちていた。また、単純に楽しく、プレーをできること、仲間と一緒に過ごせる時間、議論する時間が増え、とても楽しかった。一人ではなし得ない、チームだからこそ勝てた時は非常に楽しく、チームがある意義をすごく感じていた。そのように考えているうちにどんなに周りの仲間が辛い時でも自分がみんなの明るくできる存在になろう、自発的にそのように行動することによって、チームの雰囲気が変わり、試合に勝てた経験があったことから、どんな時でも前向きに、みんなが暗い時でも明るくできるような人になりたいと思った。その結果、日本一になり、チームの優勝に貢献することができた。
また、周りからはビッチとよばれていた、当時付き合っていた彼女にも大変支えられた。主務として役に立っていないと感じていた時、辛い時や怪我をしてプレーができない時、どんな時でも明るい声をかけてくれていた。誕生日を祝ってくれた時はなんで自分が欲しいと思っているものをこんなにも理解しているのか、驚き、感動していた。家族以外に安心して過ごせる人でずっと一緒にいたいと考えていた。また、一つの面だけで人間が見られてしまうことが残念だと感じていた。良い人、良いものは評価してほしいと感じていた。

そして、大学最終学年となった。滾っているメンバーとチームが勝つためにどんなことをすれば良いのか考えること、また帰り道に食べるつけ麺、二郎は最高に楽しかった。(高田馬場のピコピコポンからのゴンチャでトリプルタピオカミルクティーに生き続けていた)チームで同じ方向を向いている感覚があり、そのためにお互い切磋琢磨して行動していることは非常に楽しかった。そのような中、コロナウイルスが流行り、自宅での待機期間となった。
就活もあり、少々安心した自分もいるが、仲間と直接会えない時間はつまらないものもあった。そこで、毎日7時に必ず同期と筋トレをオンラインで行うことや、オンラインでの動画MTGを開催するようになった。今まで話したことの少ない他チームのメンバーとも話すことができ、また、みんなが笑ってくれたり、楽しい時を過ごせることはオンラインでも行うことができ、意外と楽しい日々であった。

就活では、自分にとっての最高な環境、人とは何かを考えて、就活先を決めた。正直決めた当初は周りが大手商社や外資系と言われるところに行き、正直劣等感を感じていた。自分は主務含めて部活動を頑張ってきたが、なぜこのような結果になるのか、悔しかった。そのため、第一志望であった商社に入職した人が簿記3級をとっていたので、簿記2級をとった。ただ記憶しただけで、今では本当に何も覚えていない勉強であった。
コロナが明けて、大会が始まるとそれに向けてただひたすらにそれに向けて頑張っていた。そんな中、彼女に突然振られた。前回同様飽きられていた。非常に悲しく、しばらくメンタルを保つことに苦労していた。ただ目標があり、それに対して支えてくれる仲間もいて、継続してラクロスにコミットした。オフの日でも練習に行きつづけ、技術がどんどんと向上していき、自分なら何でも止められるのではないかと言う気持ちになっていった。当時は本当に苦な感情が全くなかった。目標に対して成長を続けられている自分は自信があったし、目標に向け努力している人たちと一緒にプレーすることは非常に楽しかった。

チームが点を多く取られていた時は、救世主のように舞い降りて、数々のセーブを繰り広げ、チームの勝利に貢献できることはまさに天にも昇るような喜びだった。
最後の試合の決勝前に観客席に向かって、大きな声で代表して挨拶を行うなど、基地外のような行動でも周囲が笑ってくれたら、その喜びは言葉では形容しがたいものだった。
試合は敗北に終わり、試合に出ていた自分が結果として貢献できなかったことに対しては、深い慟哭が心に満ちた。だが、一つの目標に向かって全力を尽くし、想いを後輩たちに引き継ぎ、彼らもその姿を見て努力することが、素敵な環境であると感じ、大学のラクロスのコーチを続けた。

初めての仕事

ワクワクした気持ちで入社した。これからどんなことがあるのか、どんなことができるのか、楽しみな気持ちと緊張感のある気持ちであった。研修では、目立つこと、みんなに笑われ、笑顔が少しでも増えれば良いと考えていた。その場がどのようにしたら、楽しくなるか、エンターテイメント的な要素があるかということを考えていた。その後配属され、介護エージェント事業部という、介護職員と施設のマッチングのお手伝いをする人材紹介、法人営業を行っていた。しかし、配属後、面接を辞退する連絡もなくそのまま音信不通になるケースや、会話がなにも成り立たないなど、理解に苦しむ時期もありました。数字に追われる日々で、一日中寝ていたい、目を覚まさないでいたい、トイレで吐き気がするという感覚が常にありました。そんなある日、トマトさんという職場の方とお話しする機会があり、仕事は人の役に立つことであり、顧客がどのようにしたら幸福に感じるのかという観点で考えるといいよというアドバイスを頂いた。その時確かに仕事って何のためにやっているのかって目の前の人の幸福の追求をすることで役に立つことだと考え、そこからその観点で仕事をするようになった。最初は表面上ではいいから、真摯に向き合おうと考え、行動に移し、その結果勝手に日に成果が現れ始め、単月のMVPやQのMVPに選ばれることとなった。しかし、その中でも喜びは一時的なものであ理、人材紹介で、法人の仕組みを変えることができず、本質的に変化を生み出すことは難しく、どのようにすればよいか悩んでいる時期もあった。

そんなある時、友人からフットサルに誘われ社会人同士で知らない人たちとフットサルを行うこととなった。単純に当時は社外の人たちと関わる機会が少なく、知らない世界を知ることは楽しいなと感じていた。
飲み会などにも参加するようになり、ある時そのような悩みや起業にも興味があるという話をすると「金持ち父さん、貧乏父さん」という本を紹介された。その後、ある師匠を紹介するよと言われ、大崎駅に誘われ、ミーティングをした。世の中はどうやら、ラットレースでポジショニングをいかに変えられるかそんな話だった。覚悟するなら今しかないと決意し、環境を変え、経営者になるために五反田に引っ越しをした。最初はマンスリーで五反田のピンク街の中にあるマンションで5~6畳ほどの場所であった。親戚の結婚式がある日もセミナーを優先し、早退したり(その後全力で謝罪しました)と周囲からもおかしいようそれと言われることもあったが、所謂3つの壁(両親の壁、友人の壁、仕事の壁?)があり、違う結果を得るためには仕方ないと考えていた。目標に向かって変化することにワクワクしていたが、ある友人からの連絡により、それがマルチ商法であることが判明した。今でも本当に感謝しており、自分のそのままの行動をした時の未来では、このようになるということに強い恐怖を感じ、友人や大切な仲間を失うことに対する苦しみを痛感し、すぐにその考えを取りやめる決断をした。

そしてその後、事業部史上最短でリーダーに昇格し、初めて部下の教育を行った。社会人で初めてチームをもち、行っている際は教育することが非常に楽しかった。特に、教える際に自分自身で営業を言語化して、それを伝えることができている瞬間が楽しく、それにやりがいを感じていた。しかし、自身の営業活動には興味関心がなくなっていっている中で、チームMVP受賞をした。嬉しかったが、やはり賞はなんか一瞬で感情を失い、賞に対する興味関心が消えていった。
そんなある時、事業部内でミッションビジョンの浸透プロジェクトが始まるということで、面白そう、事業部のために何かやりたいと思い始めた。始めては見るものの、空回りするものばかりで、今はそれよりも事業部における、離職率が30~40%近くある状態の方がやばいんじゃないかと事業部長に問題提起したが、なかなか優先的に進めてもらうことができず、最終的には事業部長が交代することとなった。そして新しい事業部長と議論を行った結果、教育者向けの研修の企画と運営を行った。当時そもそも離職率が高いターゲットってどこだっけ、その要因って何だっけという特定から、施策として行う管理職向けの研修の企画から運営をする際に、誰に対してどのようなコンテンツを届けたいかを議論する時間は非常に楽しかった。それが現状の事業部に必要で、本質的であると感じていたため、非常にやりがいを感じていた。

コーチングとの出会い

その中でコーチングに出会い、GOALBの島田隆則さんとお話をした。当初100万ほどする金額は今までの人生で最も高い投資でゾッとするような不安もあったが、本気で人生に変革を起こすのであれば、必要不可欠であるかつ、自分自身の軸で生きることの大切さ、才能領域がどのようなことがあるのかを言語化してから、それを認識してから仕事がどんどん進むようになっていった。また、自分自身の才能機能、興味関心のある分野、価値観を認識して、ゴールを設定した。「日本企業に対して、事業戦略、マーケティングを通じて、売上支援向上を行うこと」「20〜30代の若者に対して、コーチングを通じて、自分軸で生きられるよう支援すること」である。現職で叶えることが現状ではできないと考え、森岡さんが起業された株式会社刀を第二新卒として、応募した。しかし、大学院生や学生、他戦略コンサルタントとして活躍されている人の中で、グループディスカッションを行い、何も議論を前に進めることができなかった。自分自身、できることが少なく、何もできない自分に対して、情けなさを感じた。自分には、難しいと考え、一度転職活動を取りやめ、自分自身の知識を身につけるため、グロービス経営大学院に通い、学習を行った。グロービスでは、社外の方々と触れ合う中で、社内にはない知見を持っている方がたくさんいて、大変魅力的な環境であった。
また、当時先輩であった。新しい彼女と付き合うことになり、プライベートでは豊かな生活を過ごしていた。社内恋愛を隠して行っていたため、非常にきまづい想いはあり、デート中に他の先輩に目撃され、噂が広まったことは非常に気まずかった時期もあった。今では、部署移動したため特に隠すことなく話をするようになり、非常に心が楽になっている。

また、少しでも日本の健康寿命を伸ばし、無駄な社会保障費を削り、高齢者中心ではなく、若者に日本の資金が投資されるようになってほしいと想い、ヘルスケア領域での新規事業を考案したが、ファイナンスな観点がなく、事業を生み出すことができない、かつその事業も健康寿命延伸には効果のないものであると指摘をいただいた。そのため、再度様々な観点で調査するもウェアラブル系が中心であり、グロービスにて同じ講義を受けていたSONYの方がエムスリーと一緒に新規事業を米国などに出張して、仕事をしているお話をきき、最先端を学び日本を前進させるための思考をしている機会が羨ましいと感じ、ただ何も行動しない日々が続いていた。

勝手に尊敬する師との出会い

私が参加したグロービス経営大学院のマーケティングの授業は、学びの中でも最も楽しい時間だった。授業はまるで経営会議のようで、質問が的確に出され、回答は何点か評価され、質問者の背後にはどのような思考があるのか日常生活における観察力を鍛えるための原理原則生活など関灘さんから多くのことを学ぶことができた。彼は知識だけでなく、感性も備えた人で、多くの意見を取り入れながら、日本を変えるという情熱を持ち続けているのに感銘を受けた。私にとっては、非常に有意義な学びの機会だった。

また、アカウンティングの講座では、魚住さんから介護業界に関する調査結果を聞く機会があった。その中で、人材紹介だけでは人手不足を解消することができないという厳しい現実に直面した。彼の言葉からは、まるで人材紹介の限界を超える新たな解決策を見出すためのヒントが感じられた。魚住さんの話によって、業界に対して何をすることができるのか考えるようになり、社内における新規事業室へM&A支援の相談を行ったところ、すでに実施していると伺い、自分自身が関与することなく終わった。また、ビジネスアナリティクスの講師の方からは、人材紹介をマクロ的な視点で見つめて将来性を考えたことがあるかと問われることもあった。その問いかけは私に深い省察を促し、私の事業が単なる日常的なニーズを満たすだけでなく、社会の根本的な課題にアプローチするための可能性があることを思い起こさせてくれた。

また社内においては、4月より事業部の新卒教育の運営から企画を担当することになった。研修の企画やスライド作成、自分自身が伝えたいことを伝えることは非常に楽しかった。特に、問題解決における研修をする際は、自信が大切にしている原理原則を伝えることができ、正直受けた新入社員にとって、理解しにくいことも多くあったと思うが、自己満足してしまっていた。自分自身は、研修を通じて、教えている最中に言語化して、ホワイトボードにかき、教えることに非常にやりがいを感じていた。

マネージャー昇格

そして、2024年7月より初の一人暮らしと、西日本のグループマネージャーに昇格し、約15名のマネジメント業務に携わった。組織の目標設定をしてたり、新しく支店を進出したため、仕組みを何から何まで設計することに苦労した。また、MBの指導にもかなり多くの時間や、配属後直下の部下が家庭事情により退職することとなり、自分自身が何から何までMBの育成含めて見ることとなり、LD業務とやっていることと同様に日常がすぎていった。0からのスタートで日々が対症療法的に進んでいってしまっていた。

また法人営業を続け、新しく契約を締結した法人に積極的に紹介を行った。しかし聞いていた話とは異なり、内部環境の評判が悪く、複数の退職者が出てしまった。その時、自分自身でその企業に定着率向上のための施策を提案をしたが、持ち帰られず、検討もしていただくことができなかった。自分自身の提案力不足、ヒアリング不足であることまた、人材紹介としてのサービスのみを期待されており、顧客はその点を弊社に任せてもらうことができない、また、人材紹介では業界の問題を解消することができないと強く感じはじめ、転職活動を徐々に始めた。事業部内では、責任があるにもかかわらず、そのことから業績を改善することにあまり社会的意義を感じることがなく、マネージャーとして成果をあまり上げることができなかった。特に上司に報告するためだけの資料作りは、その人の大切にしてそうな観点をもとに作成し、本質的な探究が行うことができず、正直なんのために書いているのだろうと感じる時期も多くあった。

ある時、GOALBのコミュニティ活性化メンバーに選出していただき、コミュニティ内の多くの方々と話す機会ができた。その中でさまざまな価値観、コミュニティ内の人たちが変わっていく姿を見て、自分自身コーチングを受講したが、現実が何も変化しなければと感じていた。その中で、転職活動と同時に、自分自身が社内で提供していたコーチングの本質を学びたいと考え、MindsetCodeに行った。啓さんと出会い、使っている言葉やレスポンスの速さが今までお話しした人とは異なり、このようなコーチになりたいと考えた。また、自分自身が動画を受講するよりも、コーチングを提供していたクライアントに対してより本質的なものを提供したいと考え、コーチングスクール受講を決意した。

そして、現在マインドセットのコーチングに出会い、人生が少しずつ変わっている。
転職活動では、職業機能である戦略人事として、事業を人事領域の観点から拡大させていくために会社を佐賀市、その中で1名の社長と出会い、今までにないくらい早い回答、思考の速さを感じ、また自分自身の目指しているキャリアに対してポジションを新しく提示していただき、自分自身のやることができると考え、その会社へ転職を決意した。

自分自身のやることを理解してからは、前職においても、事業部における事業立案コンテストの企画、運営を行うなど、認知が変わり、日々やりたいこと、主体性を発揮するように仕事を行い始めていた。

また、自身の事業戦略を描く知見をより深めたいと考え、個人として、教育事業の支援を行ったり、趣味の領域では、モデルジャパン大会への出場を決意した。ゴール設定をしてから、日常が変わり、みるもの、使う時間様々な観点で大きく変化をしていった。日々栄養成分表をみるようになり、嫌々行っていた筋トレも好きになり、ついには自炊までし始めるようになった。そのように日常が変化し、そして大会では準優勝し、11月の日本大会に出場することになった。

「ボディチェス」と呼ばれる柔術を始め、大会に出場したり、スタイリストに依頼して、今までにきたことない服を選んでもらい、購入するなど、主体性を発揮するやりたいことをやる人生に転換していった。

これからも主体性のある人生を歩んでいくため、日々自分を変えていくことを決意し、現在も「自分らしさ、自分らしくないこと」をやり続けていく。

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