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新年に思うこと〜コロナ禍で大切にしたいこと〜

あけましておめでとうございます。

大阪のとあるお寺の住職をしております。
今年から思った事をnoteに書く、まぁ日記みたいなのを書き始めます。
宜しくお願い致します^ ^

はじめに

お寺の仕事納めは、大晦日の除夜の鐘で、仕事初めはというと元旦のお勤め(私の宗派では修正会と言います)です。
私のお寺では、除夜の鐘は1月1日の0時に終わり、元旦のお勤めは1月1日の0時から始まります…そうなんです。仕事納めたらそのまま仕事初まりなんです。そんな業界は、芸能界かお寺ぐらいなじゃないかと思ったりしているのですが(他にそんな業界があれば教えて下さい。意気投合出来るかも)。

それはともかくとして、暮れても明けてもコロナで、少しでも早い終息を願うばかりですがなのですが、100年に1度と言われる世界的に蔓延した感染症は、現在でも分からないことも多く、憶測などで不安になってしまうことがあります。
例えば、東京ナンバーの車が地方に行った時に石を投げられた、地方の実家に帰った時に「東京に帰れ」などの張り紙を家に貼られた等々はまさに憶測からくる不安の表れだと思います。

コロナは都合が良い⁈

今はある程度、マスクする事で濃厚接触が防げるとか、アルコールがウイルス除菌に効くとか、分かってきている所も出てきたように思います。
なんでしたら、自分がやりたい事に対しては、gotoと行動に起こし、あまり気が進まないものには自粛する。と、コロナを都合よく使う事も出てきたようにも思います。
これは、決してコロナが都合良いのではなく、コロナに対する私が都合良いだけなのですけど。

私は“都合”の塊

この都合が良いということを少し考えてみると、自分に都合が良いという事で、言い換えれば自分勝手ということではないかと思います。
この自分勝手な心は、無くす事は不可能に近いと言われます。

インドのお話。インドに目の不自由なAさんがおられました。ある日、Aさんは久しぶりに友人Bさんの自宅を訪れ、話に花を咲かせて、気付くと外は真っ暗になっていました。Bさんは「夜道は危ないから」と言って提灯を持たせようとすると、Aさんは「目の不自由な私に提灯なんか要るはずがない、冗談はやめてくれ」と怒りました。するとBさんは「貴方は要らないと思うが、相手の人がぶっかってくると危ないから持っていきなさい」そう言われてAさんは提灯を持ちながら帰宅されたというお話です。

自分には必要ないと思う事でも、周りには必要なものというのはあるのですね。
でも、やっぱりなかなか気がつかない事も多いのも事実ではないでしょうか。気がつかない所で自分勝手になってしまっている事も有るかもしれません。

自分勝手な私から離れる方法


ではどうすれば良いのか…
それは、手を合わせることだと思います。

お寺ではよく手を合わせますが、それは“感謝”しながら手を合わしていることが多いのです。
例えば、葬儀や法事の時に「今までありがとう」という想いで手を合わせていたりしませんか?
例え話で【請求の合掌】と【領収の合掌】という例えがあります。
請求の合掌とは、「〇〇するから、〇〇なります様に」と何かを求めて手を合わすのを請求の合掌。
領収の合掌とは、「〇〇いただきました」と手を合わすのを領収の合掌と例えられます。
仏教の合掌、手を合わすのは領収の合掌と言われます。
感謝や良いことがあれば、どうぞ手を合わせて下さい。

感謝とは-泣き婆さん-

毎日そんなに感謝出来るほど良いことばかりは起こらないのですが、ここであるお話を…

「泣き婆さん」と呼ばれていました。ある日のこと泣き婆さんの噂を聞きつけ、和尚さんが哀れに思い、その家を訪ねました。「あなたは毎日泣いているが、何がそんなに悲しいのか」「私には2人の娘がいます。一人は傘屋に嫁ぎました。天気が良い日は傘が売れず辛い思いをしているだろうと考えるだけで、涙があふれてくるのです。もう一人は下駄屋に嫁ぎました。雨の日は下駄が売れず辛いだろうとまた涙が出てくるのです。」和尚さんは微笑んでこう諭しました。「あなたの考えは正反対ですよ。晴れたら下駄屋の娘が喜んでいると笑い、雨が降ったら傘屋の娘が喜んでいると考えればどれだけ楽でしょう」それを聞いてから老婦人はニコニコ笑顔で暮らすようになりました。

良いことばかりが起こる訳ではない私たちの生活も少し考え方や視点を変えると見え方も違ってくるかも知れません。
感謝出来るから手を合わせれるのではなく、手を合わすから感謝が出来る。
そんな意識で今日夜お風呂の中で感謝の手を合わしてみてはいかがでしょうか^ ^

合掌

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