僕が僕らしくある為に

ふと自分の過去の話を言いたくなったので文章にしようと思う。
いつぞやかのnoteを見返して頂ければわかるが小学生の時はいじめにあっていた。
元々目立ちたがり屋で、何かと変な事をしていた。
小学4年生の時に友達が欲しくてその場で適当に考えた創作落語をクラスの人に見せたらそれがウケて学級放送で出演するくらいまで行った過去がある。ただ小学生の全盛期はここまで。5年生6年生は保健室登校になってしまった。保健室の先生は良い人だったので色々な話をしていたが、母親は「あの保健室の先生は貴女の事をよく思ってない、あなたは嫌われている」「保健室登校をする発想が私にはわからない、貴女はおかしい」と罵倒されてそこから人を信じられなくなった発端になったと思う。小学校は本当に厳しかったので、色々としんどかったし、辛いことが多かった。
その反動なのか中学、高校は本当に楽しかった。
新しい人が入ってきて、中学、高校はよっぽどの事が無い限り先生には怒られない。まぁ私は大暴れしすぎて3年間担任が同じだったり偉い先生に目を付けられたりしてたが。
私の中高の生き様は例えて良いのかわからないが
あずまんが大王の智ちゃんみたいな生き様だった。卒業式とかで祝辞代表で私じゃないのに「お!私の出番か!」と立ち上がって先生や友達にお前じゃないと突っ込まれたりしてた。あと校舎が新しくなってコンビニができた時にカップスイーツの販売があった。しかしそれは教師しか食べちゃ駄目とか言うクソ仕様だったのでムカついたからコンビニ開店初日にカップスイーツ買い占めして友達に無料配布した。その後先生に怒られて反省文を書いた。一番多かったのはケータイ関連だった。ガラケーの時に引き出しで隠れながら好きなアニメの二次創作の小説読んだらよく先生にバレて没収されて反省文をよく書いていた。
iPhoneが出始めの頃、初めて買い与えられて
Twitterにどハマりして当時まだiPhoneが小さかったのでペンケースの中にiPhoneを横置きしてTwitterを開いていた。後ろの席は全然バレないのだが私は頭が悪いので前から2列目でやっていた時にバレて安定の反省文を書いた。6年間で何度反省文書いたのかわからない。地理と歴史の先生以外は皆大嫌いだったので反省文は適当に書いていた。一番酷かったのは原稿用紙一文に反省してまーすとどこぞのスノボ選手みたいな文章を書いた事もあった。夏の中間テストの時に他クラスで友達とコミケカタログを見ながら宝の地図を書いていたら何故か先生がやってきて没収されたことがある。あの時はやべっ!友達に迷惑かけたと反省したが難なく反省文を逃れた。未だに何故と言う案件だ。中学1年の時に小学6年の終わりから中学の勉強で頑張っていた関数だったかの小テストがあった。絶対満点は取れると思ったが結果は67点。あまりにも悔しくてテスト返却された時は思わず泣いてしまった。その時に初めて努力しても無駄なものは無駄なんだと思った。そこから数学の勉強は適当にやっていた。母親は「貴女ならできる」と昔から言ってきたが、人の勉強方法にケチをつけるような母親に何がわかるんだ。と毎日イライラしていた。あと謎の母親の私は可愛いからモテる自慢や、ナンパ、痴漢された自慢をされた話を聞くのが嫌だった。本当に死ぬほど嫌だった。小学生の頃母親のケータイを見た時母親の自撮りが数千枚あったのを見つけた時はドン引きした。学校で一番問題になったのは私は定期的にコミケに行った後同人誌の見せ合いを友人間で行っていたのだがそれがバレて、ちょっとエッチな表紙の同人誌が運悪くバレてしまい謹慎処分を喰らった。その時に校長先生みたいな奴に「貴女はここに向いてないと思います。夜間学校とか行かれたらどうですか?」と煽られた時はガチでムカついた。その反動で中学から高校に上がる試験で結構良い成績を出して学校の先生に褒められたことがある。色んな先生に「アホの子さん進級試験凄かったじゃない!貴女あの点数なら特進行けるわよ!でも数学はダメね」最後の言葉は要らないと思ったが少し胸を張ることができた。無事に進級できて、ちょっと特殊なクラスに入った。高校はもうお祭り騒ぎだ。2次元のガチ恋の子が現れたり、その子の影響でガチ恋が増えたりと凄かった。その子は最初特進にいたのだが先生に反発する子だったので高二から普通科に移動させられたのはあぁ…と思った。あとスクールバッグで痛バを作って謎にマウントを取っていた。本当に面白いし凄い子だった。学校終わりに友達と夜中Skypeして夜が明けるまで喋った事もある。本当に充実した中高だった。私は学校終わりに塾をサボってよくゲーム実況者のライブを行っていた。そこから貢ぎ癖が始まったと思う。本当に良くない癖だと思う。あと実況者から良くリプライを貰っていて同担に空リプで愚痴られた。面白いなぁと思いながら見ていた。絵を描く仕事に就きたくて画塾に通っていたのだが絵が上手くならなくて講評の時間にいつも一番下の段に移動させられて悔しくなった。平面構成も全然上手じゃなかったから良く虐められていた。唯一某超名門校の年上の女の子達が「大丈夫だよ!あんな奴無視しちゃえ!」って色々話しかけてくれたのは嬉しかった。けど絵を描いてるだけでクスクス笑われたり、講評で知らない奴に「これはダメだわ」と知らない奴に言われた時に心がポキッと折れた。もう音がするレベルだった。塾の先生に相談したら「アホの子ちゃんはデザインじゃなくて油画やってみたら?」と言われて!?!?となった。油画なんて倍率かなりエグいし木炭デッサンも苦手な私に油画!?となって将来どうしたら良いかわからなくなった。母親に泣きながらその話をしたら
「貴女は努力してないだけ、いじめられたから何?」と言われたのでもう二度とこの人に助言を求めないと思った。自分の生き方が全てだと思うなよとかなり思った。そこから高校2年生の後半で水曜どうでしょうと言う番組にハマった。昔からTVKとかでチラッと見てはいたのだが高校2年生のときに寝釣りの回で大爆笑して、いつかこんな番組を作りたい、この人達と仕事をしたいと思い、急遽美大志望から某大学へと変えた。某大学は本当に文化祭など行ってみて凄く楽しそうで何より実技が出来ることが羨ましかった。一般受けたのだが面接で落ちた。二次募集も面接で落ちて本当に悲しかった。一応国立美大も受けた、2次まで行ったがそこで終わった。母親が浪人を許さない人だったから嫌々2次募集で受かった大学に行った。
今思えばあそこで喧嘩して自分が行きたい大学行けばよかったと本当に後悔した。今でも後悔している。お笑いでそこの大学の卒業生が漫才やコントをしているのを見ると本当にすごいと思うし正直羨ましい。とある場所で思わずその方に声をかけてお話してしまったくらいだ。私が行った大学の学部はお金持ちが多くて終始マウントが激しくてイライラしていた。口にも出したくない大学だ。4年間よく通えたなと思う。そこから友達が教えてくれてテレビ局でバイトをする事になったのだが、憧れとは時に残酷なもので頑張って、必死にしがみつこうと思っていてもやる気がないとか人の話聞いてるのかとか言われてもう耐えきれなくなってしまった。一番楽しかったのは北海道での仕事だった。上司や先輩が本当に優しかった、楽しかった。もう一度あそこで働きたい気持ちもあるがもうちょっと精神面や体力的にもう無理だと思った。今仕事をし始めているが単純作業が多くて楽しい。自分の好きなジャンルに出会える。これからどうなるかわからないが今の所変な人もいないので楽しい。とりあえず今は推しの為に頑張ろうと思った。

おしまい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?