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1.コロナ重症患者になって

1-1.こんにちは、僕はコロナ患者です

こんにちは。僕はコロナ患者です。コロナで肺をやられて呼吸ができず、酸素不足で思考力が落ちています。何をやるにも時間がかかります。ゆっくりやらせてください。ゆっくり話してください。同じことを何度も聞いてください。若い方はおおむね早口です。生命力がフル回転しているみたいです。僕も自分が若い頃は分からなかった。60歳を過ぎてから、若い人の早口を感じるようになりました。こちらはそれでは聞き取れないのです。特に今は酸素が足りず、ものを考えるのも一苦労です。時間がかかります。どうかゆっくりやらせてください。

僕はいまICUにいます。どうやら人工呼吸器を装着しているようで、声がまったく出せません。人工呼吸器の酸素チューブは、喉の奥、声帯を通過して、気管支まで入っています。喋ることはできません。ですから僕が意志をお伝えするためには、筆談が必要です。しかし僕の両腕は縛られています。手首から先は袋の中です。薬でせん妄状態になり、治療時に苦しくて暴れるかも知れないからですね。これは最初に説明され、納得して同意書も書いているのですが、それでも実際にされると想像とは全然違う。薬でぼんやりした状態であっても、両手が拘束されているのは凄いストレスです。特に手首から先が袋の中、というのがいけない。人間、手が開かなければ何もできません。閉塞感と無力感が強烈です。

筆談のときは看護師さんが袋を外してくださいます。どれだけホッとすることか。ただしかし、皆さん必ず右手の袋を外す。すみません。僕は左利きなんです。右手では筆談できないんです。仕方ないことかも知れませんが、利き腕は右と決めつけないでください。僕はいま声が出ないので、右手の袋を外してもらった後、動かせるようになった右手で、左手を指して、「利き腕はこちらです」とお伝えしようとします。うまく伝わらないことも多い。看護師さんが代わるたびに何度も同じことの繰り返しです。

また近眼+老眼に加えて、網膜の病気もあり、目がよく見えません。検査結果などを見せてくださるときは、枕元にあるメガネをかけてほしいのです。そして僕は声を出せず、両手を拘束されているので、そういう簡単なことも伝えられない。それが苦痛です。ついには僕の利き腕とメガネのことは、ベッドの横に張り紙をして頂きました。僕はやっと繰り返しから解放されました。面倒な患者でごめんなさい。でも本人はもっと面倒なんですよ。簡単な会話や身振り手振りができないことが、これほど大変とは思いませんでした。

こうして機械に繋がれて、チューブで呼吸している僕の姿は、悲惨な様子に見えるのかも知れません。しかし実は本人には、大きな苦痛はないのですね。薬で鎮静されていますから。もちろん痰の吸い出しなどの苦しい処置もあるけど、ほんの数分で終わることです。それ以外の時間は、ただただ時間の経過がよく分からず、ひたすらに退屈です。人工呼吸器の装着は、本来ならば暴れ出すほどの苦痛のはずです。気管にお茶が入っただけで、あれほど苦しく咽せるのですからね。そこに液体どころか、固体のチューブが奥まで入っているのです。普通なら秒と耐えられず、大暴れして吐き出そうとするでしょう。ですからそうさせないために、苦痛を感じないように、僕は薬で意識レベルを落とされています。完全に意識をなくしてしまうと、それはそれで看護が大変なのでしょう。かろうじて意識を保ち、自分で寝返りがうてる程度に保たれているようです。ですから僕は1日中ぼんやりしています。ただし本当に眠ってしまって、夜に眠れなくなると厄介なので、昼間は出来るだけ眠らないように努力しています。

しかし意識を保って起きていると、それはそれで問題が発生します。鎮静剤によるせん妄が凄いのです。耳元には常にポップな音楽が流れています。ICUの中でBGMをかけるはずがありませんから、幻聴なのでしょう。僕の脳が作り出している音楽です。集中治療室の中にあるはずがない、おかしなものもいっぱい見えます。これも僕の脳が作り出す幻視なのでしょう。ひたすらそういうものに耐えながら、何とか正気を保とうとする毎日です。唯一、まともだと確信できる記憶は、毎朝、主治医からぽんと膝を叩かれて、おはようございます、と声をかけて頂いた記憶。その瞬間だけ僕は完全に正気に戻る気がします。ドクターは僕の目の反応や表情で、薬の効き加減を見ているのでしょう。それ以外の記憶は混乱の中に埋もれています。何もできない無力さ。毎日がひたすら長いです。

それにしても、お医者さま、看護師さん、理学療法士さん、みんな、こんなことなかったら、お会いできなかった人たちです。僕とはまったく違う人生を歩んできた方々です。そういう多くの方々のお世話になることになりました。どうかどうかよろしくお願いします。僕は怖いジジイではありません。ただコロナで少しばかり酸素が足りず、クスリで少しばかりせん妄になっているだけなんです。きっと僕たちは理解しあえます。僕たちは一緒にコロナと戦う仲間ですから・・・

・・・上記のテキストの原文は、僕がまさにICUの中で、酸素欠乏の脳で考えたものです。ICUから解放されてすぐ、スマホのメモに打ち込みましたが、もともとは今よりさらに支離滅裂な代物でした。それでもなおかつ、大幅な書き直しをしても、このテキストを冒頭に掲げたのは、集中治療室の患者の側から書かれたテキストは少ないだろうと思ったからです。僕自身、今これを読み直しますと、当時の混乱と退屈がありありと蘇ってきます。いやはや。あんな目にあうのはもう二度とごめんですね。

1-2.ダメですね。やっぱりICUに入りましょう。

今から思えば、緊急搬送の時点で、やっぱり僕はもう、いつもの僕ではなかったね。脳に酸素が全然回ってなかった。8月19日の早朝4時。呼吸困難のため朝まで一睡もできず、ついに決意して最後の声で救急車を呼ぶ。急いで身支度するも、何を持っていけば良いか分からない。保険証?スマホ?充電器?着替えは?やっぱり入院するのか?するとしたら何日くらいだろう?ダメだ。ものを考えることができないや。適当なものを適当にカバンに入れたけど、この持ち出し不備には最後まで困りました。なんせ僕はコロナ患者です。病院から外出許可がでるわけもない。足りないものがあっても取りに帰れない。留守宅から必要なものを探して届けてくれる美女もいないわけなので、どうにもならん。洗面道具も着替えも何もないことになったのです。

そもそもの僕のコロナの発症は、8月7日。この日、おかしな咳が出る。これまでと違う変な咳。そして翌日、やっぱり発熱。やられたな、という感じ。とりあえず近くのかかりつけのお医者さんに電話して、検査を手配してもらう。この時の僕は、ワクチン未接種状態。65歳以上ではなかったため、ワクチンの順番待ちをしている間に罹患したわけだ。2日後の検査では案の定、陽性判定。そのまま自宅療養に。お医者さんに解熱剤と咳止めを処方して頂く。薬は受け取りに行かなくても、薬局の方が郵便受けに入れておいてくださるという。自宅療養では一切の外出を避けて他人と会わない。弁当も店内に入らず、窓ごしに購入。発熱はだいたい38度から39度。40度になることはなかったな。とにかく薬を飲んで安静にしているだけ。部屋は散らかり放題だけど掃除する気力もない。

このときの保健所の基準は「自宅療養は10日程度。発症から1週間程度で熱が下がり、無症状が3日続いたら外出して良し」でした。そして陽性確定時点で、すでに4日ほどが経過している。つまりこの調子であと1週間頑張りましょう、熱が下がったら無罪放免、という感じでした。ところが1週間過ぎても、僕は熱が下がらなかったんだよね。それでも明日こそ熱が下がるかも、明日こそ回復するかも、と思い続けて数日。日に日に呼吸がしんどくなってきた。横になって寝ると、呼吸ができない。身体を起こしているとまだマシ。そして8月18日の夜は、ずっとソファに座って夜明かし。ついに一睡もできずに早朝、息も絶え絶えで救急車を呼ぶはめになったのです。

マンションから出ると、すでに救急車は来ていました。大急ぎで乗り込んで酸素吸入を受ける。コロナ搬送の場合、そこで念押しをされます。いいですか?病院に行ったら必ず入院ですよ?診察だけして帰宅なんてことありませんからね。行ったら入院です。入院でいいんですね?そりゃそうでしょう。隔離が必要な伝染病なんだからね。その患者をホイホイ帰してくれるわけがない。しかし僕は呼吸ができない。背に腹は代えられません。どうみてもこのまま治りそうにないし、もう入院でいいです。さらにそこから1時間以上、救急車の中で、受け入れてくれる病院探し。2021年の8月は、大阪の感染者数もまだ多く、ピークのような時期でした。しかし最後の運があった。近隣で最も大きな公立の医療センターが受け入れてくれたのです。

病院についたのは早朝。白白と夜が明けていました。すぐに肺のCT撮影。そして病室で同意書など書類への署名。自分の名前書くだけで、酷く面倒で酷く手間取ったことを覚えています。同意書の中には、治療のための両手の拘束まで書かれており、さすがにゾッとしましたが、今さら拒否もできません。名前を書く書類は他にもいくつもあり、病院着やオムツのレンタル契約までありました。必死で署名していると、ドクターがCTの検査結果を持って来室。「ダメですね。このままだとどんどん悪くなるよ。やっぱりICUに入りましょう」こうなったら覚悟を決めるしかない。まあそもそも60歳過ぎて独身未婚、20年間オール外食、小太り高血圧の飲酒喫煙ジジイですからね。かろうじて週に数回、お散歩と軽くランをしている程度で、元の健康要素が少なすぎたのです。

そしてドクターがこんなことを言い出した。「もしも身内の方に連絡するなら、今しかありませんよ。ICUに入ったら、当分電話はできません。今から電話されますか?」しかし時間はまだ朝の6時過ぎ。こんな時間に電話して身内を叩き起こし、ICU入りを伝えたとしても、そんなの恐怖であり迷惑でしかないと思いませんか?身内は普通に現場で働いています。「ICUはどれくらいの期間ですか?1週間くらい?それやったら後から昼間に、病院から一報入れてやってくれませんか?来週、ICUを出てから、改めて僕が自分で連絡します」この時点で僕は死ぬつもりなど毛頭ありませんでした。「コロナ重症」だとさえ思っていなかった。それに万一のことがあっても、口座とか株とか、全部財産処理の時に見れば分かる話。こんな状態で電話をして「●●株は売るな」とか細々と伝えることもできません。不安にさせるだけの電話ならしない方がマシ。「来週電話します。そうお伝え下さい」このやりとりが最後でした。僕はそのまま車椅子でICUに運ばれて、そこから記憶が飛び飛びになるのです。


1-3.ようこそICUへ。鎮静とせん妄の世界へ。

さてさてICU(Intensive Care Unit:集中治療室)とはどんなところか?名前の通り重症患者に対して、集中的な治療が行われる治療室です。人工呼吸器をはじめ、多くの医療機器がベッドの周りを取り囲み、ヘビーな医療処置が行われ、医療機器の電子音やアラートが鳴り響いています。しかもコロナ病棟なので、部屋そのものがビニールで区切られ、看護師さんも入室のたびに防御服を着て、手袋をはめ替えます。ベッドのすぐ横には、巨大なウイルス濾過器が置かれ、昼夜を問わず轟音を立てています。ICUとは「医療」という作業の場であって、身体や神経を休めたり休養する機能はありません。居住性なんて考慮されていない。ようするにめちゃくちゃ居心地が悪いのです。夜間も音がうるさくて、睡眠薬なしに眠ることは困難でした。僕の入院先には、そういうコロナ専用のICUが20床以上ありました。

僕がICUにいたのはちょうど6日間。そのうちの5日間は、気管まで人工呼吸器のチューブが入っていました。人工呼吸器については、事前に説明を受けたのかも知れませんが、薬のために記憶がめちゃくちゃです。普通の意識なら、自分の口にチューブが挿入されていることくらい分かるはずです。しかしその記憶がないということは、そもそも自分がどんな状態なのか、理解できていなかったということです。「今日、何日か分かっていますか?」と何度も聞かれ、僕は最後まで正解を答えることができませんでした。ICUには時計もカレンダーもないので当たり前なのですけどね。そしてそういう場所にいると、自分の生命と身体のこと以外は、極端に関心が低下します。早い話が世間がどうなろうと、どんな事件や事故が起ころうと、誰が何をしていても、興味や関心がなくなるんです。それどころじゃないんですよね。

そして先にも書きましたけれど、こちらは鎮静剤の影響でせん妄状態になっています。せん妄の何か辛いか?人間というのは、僕は今せん妄だからどーにもならん、って割り切れるような生き物ではない。せん妄ならせん妄なりに、自分の狂気の多寡を確認したがります。僕だけかも知れませんけど、自分は今どれくらい頭おかしいのか?を把握したいのです。この自己確認は大変だけど、正気を保つためにはやらざるを得ない。おかしな言い方ですが「私は狂っている」という正確な認識だけが、髪の毛一本の正気を保つからです。たとえばICUの中に巨大な狼が見える。そんなアホなとメガネしてよくみるとミーティング中のスタッフさんだったりする。この「見間違い」を確認せずに放置しておくと、幻視がどんどんと膨らんで始末に負えなくなるんですよ。

近眼+老眼+いろいろな光の加減?想定外の不可思議な光景が目に入ってくる。これをいちいち確認するのがしんどい。事実上ベッドに縛られているので、近くに寄ってみることもできませんしね。また幻視や幻聴だけでなく、こんな妄想も湧いてきました。実は日本には極秘のコロナ治療のパートナーがいる。彼らは特異体質の国家公務員であり、彼らが僕の代わりに治療を受けてくれる。頼もしいぞ我らがエージェント。早く来て交代してくれ!さすがは妄想で、支離滅裂ですね(笑)。

しかしこの「当事者意識の欠如」のような感覚はずっとありました。治療を受けていても、なんだか自分のこととは思えない。僕が連れてきた誰かが世話になってる。ありがとうすんません。という意識がずっとありました。そんなことは初めてで、自分でもおかしいと思う。でもきっとせん妄とはそういうことなのです。知識がなければ本当にメンタルをやられます。特に両手を縛られていると、そのプレッシャーもあって、突然パニックになって叫びだしそうになる。まあ気管チューブが入っているので、叫ぶことなどできないわけですけど。

ちなみにですが、ICUの中、患者が収容されるスペースにはトイレはありません。オシッコは膀胱まで管が入っているし、ウンチはおむつで垂れ流し状態です。トイレで用を足せるような「元気な」患者はICUにはいません。そして食べ物どころが飲み物の気配さえありません。栄養摂取はいわゆる点滴です。そんな栄養液だけでウンチが出るんかいな?というところですが、それがちゃんと出るのですね。便は食物のカスだけではなく、死んだ腸細胞や腸内細菌でできている。だから液体だけの摂取でも、ちゃんと固体の便が出る。なんやったら「便秘」にもなる。まさに人体の不思議ですわ。

1-4.人工呼吸器5日目、気管切開を免れた。

ICUの6日間。僕の記憶はめちゃくちゃですが、その助けになるものがありました。その名は「ICUダイアリー」。日勤の担当看護師さんが、毎日、その日の僕の様子と治療内容を記録してくださったものです。1日につき数行の文章ですが、とても有り難いです。ICUから解放され、療養病棟に戻されたとき、僕はこの手書きのメモを頂き感激しました。ダイアリーの初日、8月19日の記載はこうなっています。「本日一般病棟に入院されましたが、呼吸の状態があまり良くなかったのでICUに入室しました。肺を休めて呼吸を助けるために、お口の中にチューブを入れる処置などをして、今日はお薬の影響で眠って過ごされています」…僕にはこの気管チューブ挿管の記憶はまったくありません。おそらく入室直後に、強い鎮静と共に処置がなされたのでしょう。しかも19日は終日眠っていたという。ですからICUでの僕の記憶は、翌日の20日の朝からはじまったことになります。

ICUに入って最初の処置は、人工呼吸器の装着のようでした。マスコミ報道などもあり、コロナ重症といえば、多くの人が「エクモ」と言います。「コロナ治療には人工心肺」が広く知られるようになりました。しかし人工心肺と人工呼吸器の区別がつかない人もまた多いみたい。人工心肺は血液を体外に取り出して、人工の「肺」で、酸素を入れて二酸化炭素を取り除き、その血液をまた体内に戻す、という代物です。大掛かりなシステムで管理も大変だし、患者のリスクも高い。そして数が限られる。たとえば大阪の場合、2020年調査の資料では、人工呼吸器1,000台に対して、人工心肺は103台となっています。人工呼吸器を使う人の方が圧倒的に多いのです。

一方の人工呼吸器は、患者の気管にチューブを入れて酸素を送り込み、機械の力で無理やり呼吸させるものです。つまり自前の肺が何とか使えるなら人工呼吸器、完全にダメになっていたら人工心肺という使い分けになる。入院した時点ですでに僕の肺はボロボロでした。後日レントゲンを見ると、白く霞がかかって、上の方に縮みあがっている。「こんなんでよく呼吸できたな」と思うくらい。しかしかろうじてガス交換の力が残っていたので、人工心肺ではなく人工呼吸器の処方になったのでしょう。

幸いなことに僕の肺は全滅ではなかった。だから人工呼吸器が使えたし、翌日には早くもその効果が出て、状態が改善されはじめた。翌日20日のダイアリーには、呼吸器の設定を下げるとともにリハビリ開始、とあります。ずいぶんと気の早い話ですが、ベッド横に座ったり、立ったりする練習で、筋肉の衰えを防ぐためのものでしょう。実際、ICUでは筋力は大きく低下します。僕の滞在はわずか6日間でしたが、その間に10キロ近く体重が失われ、手足の筋肉はガリガリになりました。

さて治療は人工呼吸器だけではありません。入院は発症から10日以上後のことで、その時点で僕の体内には、コロナウイルスはほとんど残っていませんでした。僕の免疫でほぼ駆逐されていたので、抗ウイルス薬は使われませんでした。その代わりにウイルスがやった悪さの後始末が必要でした。ひとつは「サイトカインストーム」といって、全身の免疫が荒れ狂い、自分で自分の身体を攻撃する状態になっている。これをステロイドで抑え込む。さらに全身的に血栓ができやすくなるので、血液サラサラ薬で対抗する。ICUでは人工呼吸器で呼吸を確保しながら、これらの治療が施されたようです。

その後も数日、リハビリや体位変換、体位ドレナージによる痰の吐き出しなどが続き、ICU入室から5日目、8月23日の午前中、僕は気管チューブを抜くこと(抜管)ができました。気がついたら数人のスタッフさんに取り囲まれ、僕の口の中から、30センチほどもあるチューブがずるりと出てきた。なかなかショッキングな光景でしたよ。この時、お世話くださる看護師さんたちは、初めて僕の声を聴いて「嬉しい」と言ってくださいました。人工呼吸器の処方をしてくださった医師本人さえ、その処方どおりに抜管ができると嬉しいとおっしゃいました。

しかしこれで万事OK?といえばそうではない。酸素チューブこそ抜けたものの、鼻からは常に大量の酸素を送り込んでいるし、両腕には注射針が入ったまんま。左手の動脈ルート、右手の静脈ルート、指先には血中酸素濃度モニター、首筋には心電図、あとオシッコの導尿チューブ、他にも身体中にいろいろくっついている。状況は大きく変わっていません。そんな状態ではありながらも、翌日24日からはご飯の開始です。入院後はずっと点滴で栄養を得ていたわけで、口からものを食べるのは久しぶり。とりあえず自信がないので「おかゆ」を選択。なんとか半分くらいは食べることができました。

ようするに気管チューブを入れてからの5日間。それはめきめきと回復しなくてはいけない5日間であり、回復に応じて呼吸器の設定をどんどん下げる。そしてついに「気管チューブなくても大丈夫」になったら抜管ということです。では回復が遅れたら?それは最初に宣言されていました。1週間で改善しなかったら、口からの挿管ではなくて、喉を切り開いての挿管になると。気管切開は長期戦の構えで、会話できる場合もあるというふうに、患者の負担が軽くなる。しかし喉を切り開いているわけなので、消毒や感染防止などの医療ケアが大変になるみたい。僕はほぼ予定通りの日数で回復できたので、気管切開を免れた、ということでした。


1-5.さらばICU。現実世界への帰還。

8月25日。僕はついにICU退室を許可されて、一般病棟に戻りました。キャビネットに荷物を載せて、車椅子での移動はあっという間。スタッフの皆さんに御礼を言う暇もありませんでした。入院時に入れてもらった一般病棟の個室に戻ってきて、僕は一人で天井を眺めながら、やっと現実世界に戻ってきたぞという気がしてきました。人工呼吸器はもうないので、強い鎮静もなく、幻想も幻聴もありません。僕の病室は地上12階。医療センターのすぐ側には大きな川が流れていて、窓からの景色は素晴らしいと思います。しかしあいにくと今の僕は、チューブだらけで身動きが取れず、窓の近くに行くことができません。それでも気配は分かる。ここは現実で、僕はどうやら、生き残ったみたいだ。

病室には、僕が入院時に持ち込んだスマホがありました。わずか1週間ほどとはいえ、僕は完全に音信不通になっていたわけです。すぐに充電器をつないで、多数のメッセージを確認。ああ。どんどんと現実感が出てきたぞ。気管チューブを抜いて以来、スカスカのかすれ声しか出ないけれども、とりあえずは身内に電話する。ICUに入る前に約束していたからね。それ以外の連絡は、すべてメッセージ。しんどいので最低限の相手先のみにする。

ここで知人のS氏からメッセージ。状況を伝えるべき人だけ教えてくれたら、こちらで固めて連絡しますよと。なんと有り難いお言葉か!実はこのS氏はとある呑み屋の呑み友だち。以前から仲良くして頂いていたけど、偶然にもウイルス学者さんで、しかもコロナワクチンの開発者だった!こんなことって、ある?実はこの後の入院生活も、そして退院後も、S氏は僕の大きな支えとなってくださいました。たとえば検査結果など報告すると、すぐに「それは●●を示す数値で、妥当な値です」とか教えてくださるのです。不安だらけの闘病生活の中で、最前線の学者さんから情報支援してもらえるとは、まるで奇跡のような有り難さでした。

そして一方の身内。まあ平たく言えば弟なんですけどね、こちらは散々。僕はICU出たばかりなのに「親戚の誰に連絡しろ」とか言ってくるので思わず激怒。何をゆうとるんや?こっちはほんの数時間前にICUから出たばかりやぞ。身体じゅうに注射針、オシッコも管が入ってるし、ウンチは垂れ流し。こんな僕に今からあちこちの親戚に挨拶メール送れというのか?弟としては代わりに連絡しときます、兄さんゆっくり休んでください、くらいのこと言えんのか?アホか貴様は!激怒激怒!激怒激怒!

しかし考えてみたら弟さんも気の毒だったのですね。あのね、ICUにいて機嫌がいい人間などおりません。ハードな治療でストレスが溜まっています。むしろ世界一不機嫌で爆発寸前なのです。その世界一不機嫌な僕に、不用意にいろいろ言ったために、彼はいきなり噛みつかれるはめになったのです。世間一般の人はICUがどんなところかあまり知りません。ICUさえ出たらもう完全回復と思い込んでいる人もいるのだろう。もちろん実際にはそんなことない。当面の危機を脱しただけで、チューブだらけなのに変わりはない。具体的にどれだけボロボロか、僕は経験してよく分かったよ。そして現実に戻ったというのも、ほんの一時の錯覚でした。実際には本当の社会復帰はまだまだ先。この先も延々と入院生活が続いたのですからね。


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