曹操の墓

画像1 曹操高稜。10ほど前に盗掘により、偶然発見された。王族の墓ではない質素な作り。曹操を表す石碑が決めてになり、中国政府が断定した。曹操は偽の墓を作って盗掘に会わないようにしていた。1800年間発見されなかった。最後まで皇帝にならず、曹操の死後、息子の曹丕が皇帝に即位した。それに対抗して劉備、孫権も皇帝に即位する。3人の皇帝がいる、大戦乱の三国時代。曹操は優れた人物であり、時代を超える英雄といわれている。墓の面積は65平米ほど。遺体は平服で埋葬されていた。
画像2 関羽と曹操は、共に過ごした時期があった。曹操は関羽に高い身分を与えて離れる事がないようにした。関羽は義兄弟である劉備率いる袁紹軍と対峙することになる。敵の大将を自らの手で打ち取り曹操軍を勝利に導いた。その後、人質だった劉備の家族と共に曹操の元を去り、劉備の元へ帰った。関羽との約束を守った曹操の仁義だ。曹操は関羽を尊敬していた。曹操は関羽とともにずっと居たかったのだろう。その後、拠点を変える検討をするほど関羽の武勇に悩まされる。その後関羽は呉に討たれ、首が曹操の元に送られてきた、
画像3 上野国立博物館で三国志の展示があり、曹操の墓の等身大の模型があった。曹操は武帝と呼ばれる存在になった。奸の極み、奸絶ともいわれる。悪役である曹操は、漢皇帝を有する大義があった。頭痛持ちだった記録がある、原因は虫歯ではないかと頭蓋骨から推測する意見もある。

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