行動の整合性

とりとめもない、答えも定まっていないそんな話なのでなんか言ってんなあくらいで読んでほしい。


−何かを主張するために、他人の権利を害する行為
これは果たして整合性を伴ったものだろうか?

主張を知らしめる為に、建造物に塗料等をばら撒き汚した動物愛護団体のメンバーらしき人が司会者と討論する番組をYouTubeで見てふと思った疑問だった。

第三者としての意見を言わせてもらえば、害された側(今回であれば汚された建造物のオーナー等)はよりその主張に対して批判的になるのではないかと個人的には思った。

くわえて誰か(今回の場合メディア)にその主張を利用されているのではないかとすら思った。

話は変わるが、例えば自分がそこまで(破壊行為等)しなくては世界は自分たちの主張に目も向けてくれないという絶望感に覆われたとき果たしてその整合性に向き合う事はできるだろうか?

また第三者としてそういった人々の心に寄り添えるのだろうか?

あの動画をみて人はわかりあえないことをどう乗り越えていけばいいんだろうってすごい考えさせられている。答えはでない。

わかってもらえない孤独ってあるよなっていうふうにも思った。

そういった孤独に俺は寄り添ってあげられているだろうかと不安になったがゆえにこんな深夜2時過ぎに必死にnoteを書いている。
明日(というか今日)に推しの生誕があるにも関わらずだ。

その後関連で似たような動画を何本か見てる中に良いなと思う意見があったのでそれを残してとりとめもない深夜のノリを終わりにさせてもらおうと思う。

「何かを主張するときは、その向こうにいる人間を無視してはならない。」

色んな人、主張が相手の人、主張に寄り添えたらいいよね。

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