ボギー、俺も男だ
愛した人との別れから、二度と女性に関わらないときめた。
女性からの誘いも、あえて嫌われるようきっぱり断る。
「きのうはなにしてたの?」
「そんな昔のことは覚えていない」
「今夜は逢える?」
「そんな先のことはわからない」
粋なセリフじゃありませんか。
名作「カサブランカ」(1942)は全編名セリフのオンパレードの、大人の恋愛映画でありましょう。
『ルイ、これが美しい友情の始まりだな』
『君と幸せだったパリの思い出があるさ』
『君の瞳に乾杯』
一言だけ聞いたら、なんのこっちゃわからない。
それでもボギーが語ると言葉に酔える。
主演はハンフリー・ボガード。陰のある男を演じさせたらピカイチ。斜に構えて世の中を見つめ、口にするのは皮肉ばかり。一筋縄ではいかない男のひとことは嫌味なぐらいキザなのに、心に響くのですよ。これが映画の魔術というべきか。
まだ純粋だった10代のわたしは、この映画にドハマリした。
「大人の男は、かくあるべし!」
映画の中のキャラクターはフィクションなんだけど、田舎の小僧には、まぎれもない現実としか思えない。
ボギーは美男子ではなかったけれど、とにかく渋い。渋すぎる。
渋すぎた毒を飲んだ未成年のわたしは、無条件に真似た。ボギーの完コピ、めざす。
まだビデオもない時代だったので、リバイバル上映があれば通いつめ、テレビ放送されるたびに必ず見る。見終わった後、忘れないようにセリフをメモするのは当たり前、しぐさや表情を目に焼き付け、鏡の前で練習する。
でもね、そんな熱に浮かされたのは、わたしだけではありません。
ウディ・アレンの映画「ボギー!俺も男だ」(1972)は、まさにボギーに犯された男を描くロマンティック・コメディ。
「カサブランカ」を崇拝する映画評論家がボギーに恋い焦がれ、日常生活もボギーになりきる毎日。そんな彼に奥さんは愛想を尽かし出ていく。心配する友人たちをよそに彼の妄想はエスカレートし、やがて彼の前にボギーの幻が現れ始める…。
ウディ・アレンならではのユーモアとペーソス。ボギーをそれほどのアイコンとしたのは、相対的に女性の力が強くなり、行き場をなくした男たちへのアイロニーだったのか。
恋愛映画というと、「ローマの休日」(1954)が好き、という女性は多そうです。
オードリー・ヘプバーン、可愛いし。女性のアコガレかもしれませぬ。
そういう意味で、わたしは「カサブランカ」が恋愛の教科書でありました。
まず男はやせ我慢。ハードボイルドのキホン。自分の中のルールを守るためには、誰にも媚びない。それがたとえ巨大な権力が相手であっても。
そんな男の恋愛は、相手の女性にも同じものを求めてしまう。
ボギーの熱病にかかったわたしは、ついに晴れ舞台を迎えたのです。
心惹かれる女性が現れ、やっとのことでデートに誘います。
田んぼと海しかない田舎でも、二人でドライブすれば、そこはパリ。
隣りに座る女性もイングリット・バーグマンにしか見えない。
潮臭い海岸沿いの田舎道も、凱旋門前の大通りでありますよ。
彼のタバコの吸い方の癖も習得し、気の利いたと思われるような会話を心がけた。
パーフェクト。
ここはナイトクラブだと自分にいいきかせた料理屋。そんな自分に給仕のおばちゃんさえも、蝶ネクタイのウエイターに見えたはず。ノンアルコールの飲み物も、マティーニだったはず。醤油差しもキャンドルだったはず。
運ばれてきたマティーニのグラスをあわせ、わたしは彼女にむかって万感の思いをこめていいました。
「君の瞳に乾杯」
あのときの彼女の顔を、わたしは一生忘れられない。忘れたくても忘れない。
「はあ?」
次の瞬間、顔中が口になったかと思うほどの高笑い。
ナイトクラブは一瞬にして小汚い居酒屋に変わり、マティーニはウーロン茶に変わった。
お腹を抱えてのたうつ彼女の、重爆撃機の轟音のような笑い声の中で、わたしのボギー熱は急速にしぼんでいったのであります。
アジア人のガキは、ボギーにはなれないのよ。
あの日から、わたしの中からボギーの姿はすっかり消え失せた。
それからはデートに誘えた女性には、まずは一言、
「とりあえず、オッパイさわらせて」
とお願いすることを信条として、こんにちに至ります。
ウディ・アレンの映画は70年代。そのころでもすでにボギーは化石だったんでしょうね。わたしが恋愛の教科書にするには、あまりに古すぎた。
しかしさ。
それでもなおかつ、ボギーは粋な男の代名詞と、わたしはいいたい。
彼の眠る墓には、
<用があったら口笛を吹いて>
と刻んであるとかないとか。
虎は死して皮を残し、ボギーは名セリフを残す。
わたしもせめて人生の終わり一回ぐらいだけでも、高笑いされない名セリフを残してみたい。
とは思っているんですよ。
(2016年10月8日記)
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