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【ガザへの思い②】ガザに嫁いだイフティハールおばさん

このJVCパレスチナnoteでは、ガザの状況についていくつかの記事で紹介してきました。今回は、JVCのパートナー団体のスタッフのマナールさんが、ガザに嫁いだ彼女のおばさんについて話してくれたことを書きたいと思います。

「私が最後にガザに行ったのは2000年、妊娠している時だったわ。その頃私はヒジャーブ(*1)をかぶっていなかったの。ガザの多くの人はとても保守的で、女性がヒジャーブをかぶらずに歩くことは許されなくて、住民に石を投げられてしまったわ。それ以降夫がガザに行くことを許してくれることはなかった。」

いずれにしても、第二次インティファーダ(*2)の後、ガザはイスラエルによって完全に封鎖され、ガザ内外の人の出入りがほとんどできなくなってしまいました

それ以前は、毎月のようにガザの人に嫁いだおばさんを訪ねたり、おばさんがエルサレムにいるマナールさんたちを訪ねたりと、頻繁に行き来をしていたそうです。おばさんは、ガザ地区のシュジャイアという地域に住んでいましたが、その地域は常にイスラエルからの軍事攻撃のターゲットとなり、破壊されました。

「ガザに行く時は、エルサレムの車のナンバープレートを隠して行っていたのよ。だってイスラエル人が来たと勘違いした人たちから攻撃されてしまうかもしれないからね。」とマナールさんは冗談めかして言っていました。行き来できた頃も、ガザとイスラエルの境界にあるエレズ検問所(*3)を抜けるのは大変で、書類をなくされて車で寝泊まりして許可が下りるのを待ったこともあったそうです。

「今では、ガザにいる家族や親戚の支援やプレゼントのためにお金を送りたくても、一親等までしか銀行送金できないの。イフティハールおあばさんのきょうだいである私の父ですら、彼女が危篤状態だと証明する書類が発行されるか、もしくは彼女が亡くなったことが証明されないと、ガザに行くことができないのよ。おばさんがエルサレムを最後に訪れたのは2001年、アル=アクサ・モスク(*3)にお祈りに来た時だった。でも、彼女に与えられたのはガザからアル=アクサ・モスクの往復の時間と、モスクで祈る2時間だけ。だから、誰も彼女に会うことが出来なかった。」


マナールさん(エルサレムの旧市街が見える丘で)

マナールさんは思い出しながら続けました。
「イフティハールおばさんが結婚したのは、21歳の時。彼女は看護師であり助産師だったんだけど、ガザでは女性が働くことは一般的ではなくて、彼女は働くことができなかったの。男の子4人と女の子2人に恵まれたけど、家計は厳しくて・・・。今は電話やインターネットがあるから、月に一回くらい電話で話したり、SNSでお互いの近況を知ったり、お祝いし合ったりできるようになったわ。

でも、マナールさんたち家族や親戚がエルサレムで集まっているのを見ると、おばさんは悲しそうに「私以外のみんなは一緒にいるのね。うらやましいし、とてもみんなに会いたいわ。」と言うそうです。

「イスラエルとガザの間で戦争が起きている間、彼女は家族に電話で無事を伝えてくれるんだけど、詳細は電話では話せないと言うの。彼女も年をとって、すべてが変わったわ。でも、会いたいという気持ちは大きくなっていく
ばかり
よ。」


外とのつながりを求めることや、紛争地帯で生きることの難しさは、普遍的なものですが、ニュースの見出しや政治的な問題の背景には、実在している人たちの現実の生活やストーリーがあることをいつも覚えておかなければならなりません。


(*1) ヒジャーブ:イスラム教を信じている女性(ムスリマ)、非ムスリマを含めた着用を法的に義務付けているイスラーム教国内の女性が、頭や身体を覆う布のこと。
(*2) 第二次インティファーダ:蜂起、反乱などと訳され、パレスチナの文脈では、反イスラエルの民衆蜂起を指す。
(*3) アル=アクサ・モスク:エルサレムの旧市街にあるイスラム寺院。イスラム教においては、3番目に神聖な場所とされている。


聞き手:アヤット・ヤグムール(JVC現地スタッフ)
話し手:マナール・カラエン


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