善悪二元論を超越する試み、について。
私は、私たち人類が何者かの企てによって大量に薬殺されてゆくことに憤り、そんな悪辣な所業を断じて許さないと、今まで一貫して書いてきました。一方で私は、毒入りの餌を仕掛けたり、有害物質を噴霧したり、熱湯を浴びせたり、一撃で叩き潰したりして、これまで数多くのゴキブリを駆除してきました。
人類が大量に薬殺されるのは悪事で、ゴキブリを大量に虐殺するのは正当であるというのは、ダブルスタンダードではないのでしょうか?
私は、ゴキブリは害虫なので駆除するのは当然との大義名分を主張できますが、それなら、増えすぎた人類は地球にとって有害なので削減するのは当然との理屈も、同様に通用しなければなりません。
人類とゴキブリを一緒にするな、とか、人類削減とゴキブリ駆除は次元が違う、とか、支配層エリートの策謀と一般生活の衛生管理は全く別の問題だ、など、さまざまな反論が想定されますが、どれも残念なことに、相対的な議論に過ぎません。なかなか、すんなりとは納得できないのも尤もなのですが、これが論理的事実なのです。
つまり、超支配勢力=支配層エリートが自らの持てる権力や財力を駆使して人類削減の蛮行を為すのと、個人が家庭でゴキブリ退治という名のジェノサイドを行うのと、どちらが悪として非難され、どちらが善として許容されるか、といった判定=価値判断は、絶対的ではないのです。相対的なのです。
相対的であるということは、主体が何であるかで、評価が反転したり変化したりするのです。悪なのか善なのか。主体の居場所(立場・状況)によって善にもなるし悪にもなるということです。
同じようなことは、ともに一神教であるA教とB教の宗教対立にも言えます。歴史を遡れば、一神教の信者は異教徒を人間と思いませんでしたから、A教徒がB教徒を殺しても悪くないという基本概念がありました。極端な場合、むしろ善い行いとなる場合もあったようです。悪い行いと思うのは、殺された側のB教徒たちだけです。
戦争も同じです。戦争状態が法的に有効であれば、付随・関連する殺人は全て合法であり、仮に訴追を受けたとしても、軍規・軍令に反していなければ無罪でしょう。戦争に限らず、一般に法の下で執行される殺人は当然合法なので、悪くないのです。
善と悪は相対的なのですから、判断基準にはなりません。ゆえに今後、私は善悪二元論を離れ、善と悪を超越した境地から、あらゆる事象を考察してゆくこととしたいと思います。
善と悪とは表裏一体なのです。善こそが絶対で・善を尽くして・善を絶賛する人にとって、もし悪が無くなったら、何を以って善と定めるのでしょう? 悪があってこその善なのです。悪には、善を善たらしめる、悪ならではの存在意義があるのです。こういう見方を訓練してゆくことで、既存意識からの超越が得られます。私たち地球人類もまた、いよいよ意識の超越にトライすべき時期を迎えているようなのです。
現在の、私たちの世界では、かつて経験したことのない勢いと規模で、あからさまな策謀があちらこちらで露見しています。どうして、こんなにも多く、明解に、策謀が露見するのでしょうね。
どうやら2012年頃から、私たちの属する3.5次元宇宙の振動数が上がってきていて、以前なら隠し通せた謀り事(はかりごと)の数々が、今や自然に顕在化して、はっきり見えるようになってきたのだそうです。そして、この『謀り事・偏在化現象』を通じて、これから先の世の中をどう生きるか、あるいは死後の行く末をどうするか、などを、個人差はあるものの(★)、フツーの人びとが比較的容易に直感できるようになってきたようなのです。
今後、これら一連の気づきと目覚めが段々と拡がり、精神的に癒される人びとが、お一人でも多くなりますよう、私は誠に微々微力ながら、それを、ひたすら念じつつ、拙い拙い発信を続けてゆきたいと考えています。さしあたって、その程度のことしか、私には、できませんものですから。
あ、そうそう、多神信仰が標準の(八百万の神々を何の躊躇もなく受け入れられる)日本人は、善悪二元論を超越するのって、比較的、気楽かも知れませんね。
日本人の方へ、「日本人で、良かったですね」🇯🇵。