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モノフォニーの幻想

Open Lesson覚書。

前回はなんと会社のチームの親子が二組来てくれて、
人生の時間のorganic integration有機的統合を目的に転職した身としては、
ああ本当に私のpublic/privateは完全に統合されたのだなと実感する日だった。


教室を始めた時からずっと、辞めどきはいつだろうなと、レッスンのたびに考える。
生徒さんの自由や可能性を広げることを最優先にできなくなったらーわたしがわたしの経験に基づく正解に固執し、世界観を刷新できなくなったら、
その時が辞めどきだろうなと思う。

わたしたちが普段「一音」と認識しているのは、実はピアノの一つの鍵盤だったりする。
一人ひとりの声が表現し得る音程には幅があるのに、
ピアノの鍵盤を「記号」として知った瞬間、目の前の声の可能性を忘れ去ってしまう。

本当は、人の声は物理的な鍵盤の幅よりもさらに豊かで、
あなたにとっての"ド"とわたしにとっての”ド”には差がある。
その意味においては、音楽的モノフォニーはまぼろしであると言っても過言ではない。


他人と、全く同じ音程で歌うことはできない。
しかしそのように異なる現実を持つ者同士だけが、共に新しいものを創発し得るとわたしは信じている。

よいレッスンの要件、というものがあるとすれば
それは「終わった後にお互いの世界観が少しずつ変化していること」かもしれない。それは同時によい「対話」の要件でもあるだろう。

そこで必要なのは、どこかの誰かが打ち立てた「正解」や文脈をあなたにインストールしたり、説得して「わかってもらう」努力では決してない。

異なる現実を持った者同士が、
たった一つの最小公約数・点を見つける瞬間がある。
するとそこから新しい関係性が立ち上がる。
レッスンの中では「曲」という単位が、その共通項の役割を担っている。

異なる音程や言語や文脈を生きていても、
たった一つ、共通の「ゴール」を打ち立てることができれば
赤の他人と手を繋ぐことができる。

レッスンのゴールは、音楽を通じてお互い自由になろうね、という祈りにも似た約束で、
わたしはそのことだけは誇りに思っている。

わたしたちはみな、異なる音程を感じ異なる現実をもっている。
寸分違わずに世界観が一致することはないーそのことの圧倒的な豊かさ!
幾度心が震えても、決して飽きることがない。


*本日のメニュ
・warming up
・全方位性の発声としての赤子の声ー産声から「単語」の発声
・Take Me Backーどの地点に「戻る」か考えてみる
・The Night (that Christ was Born)ーフレーズをpick upしてsoloを作ってみる

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