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心に住まう 愛の話


どこで出会い なにに惹かれ なぜ愛し続けるのか。



感情を克明に記すことは至難の業である。自分自身の感情すらも名前の分からず戸惑うことがあるのだから、他人が言葉に起こすなんて尚更だ。

こうして文を綴り続けるのだって、自分の記憶を記録にする一つの手段に過ぎない。写真も同じことだ。刹那のように過ぎ去る今を、少しでも永く残したいと願い、切り取る。

ここまできたことで「永さ」をようやく意識し始めた今、「始まり」にフォーカスを当て、人生の1ページとしてしっかり残しておこうと思った。あの胸の高鳴りを、揺らぎを、すぐ手に取って見返せる距離に置きたい。




私は俗にいう”熱しにくく、冷めにくい”タイプの人。そして、一目惚れ(直感)でしか人を好きになったことがない。友達からだんだん気になって…とか、距離が縮まって…といった話は私の理解が及ばず。良くも悪くも、初見の印象から変化していくことはほとんどない。


例にもれず、彼もその一人だった。


(こういった文章において多くの場合、彼だけが例外!となって話が展開されていくのだろうけれど、私の場合は順当に、丁寧に手順を踏んで物事が進む)


当時中学1年生。13歳?体感としてはかなり前の話になるので記憶があまり定かではないにしろ、当時彼に抱いていた感想は「この人、いい人だ」というもの。浅い人生経験と拙い語彙がゆえ、説得力がゼロに等しいのは見逃していただきたい。

私が彼を知るきっかけとなったのは、あるテレビ番組だった。(某じゃ〜に〜…隠れていない)


一目惚れであれば、出会いのインパクトは強烈であろうと思うだろう。ところがわたしは沼落ちにしろ、そうでないにしろ 自分の気持ちを自覚しないまま、かなりの時間が経ってしまう。なんだろうなあ〜…と薄ら気づいていても見て見ぬふりをすることすらある。それを非常に熱しにくいというべきか迷うが、火をつけるには相当な時間がかかっていることは確かである。

どうしようもなく彼を目で追ってしまうが、恥ずかしさゆえに凝視は出来ず、頭に残るほんの僅かな残像で余韻に浸る。視界に入れると照れてしまうのだ。口角は上がるわ、目尻は垂れるわ、自分の表情を誰にも見せられたもんじゃない。その上に、あんなに素敵で愛おしい声も耳から入れ続けなければならない。ナチュラルに呼吸が苦しい。彼を見つけるたび、どきりという音がして、それは周りにも聞こえているのではないかと思っていた。



なぜ余韻に浸りたいんだろう。なぜずっと頭の中に存在しているのだろう。なぜ彼がこんなにも魅力的だと感じるのだろう。なぜ彼の動向を気にするのだろう。なぜ彼を見ると元気が出るのだろう。

もうほとんど答えは出ているのに、その結論を出し「自分の感情はこちらです!」と決定づけてしまうことに緊張するのかもしれない。その後の自分の感情とどう付き合えばいいのだ。毎度のごとく押し寄せる胸の苦しみは、誰が連れてきていて、それを愛おしい抱きしめているわたしは他になにをすれば良いのだ。考えたって仕方のないことではあるのだが、なるべく遠回りをして、自分の心と向き合うのを先延ばしにする遅延行為。向き合うのには痛みを伴う覚悟もしなければいけないからなのかな、なんて近頃は思う。


しかし、この感情に裏も表もない。というより両面染め上げられてることが明確である。逆にここから目を逸らして、わたしはどこへ向かうのだ。


これは明確な 純粋な 立派な好意である。

自覚する覚悟 を決めた。




好きだなと思って、楽しいなと思って、また明日を生きようと思う。この事象が普遍なようで、尊い日常であることを年々噛み締めるようになった。なぜなら

明日に確証がないのだから。




正直、誰かを応援したいと思うこの気持ち、見逃したくない欲張りな感情…言ってしまえばなんの交わりもなかった他人に、ここまで興味を持つことが自分にあるんだ、と驚いた。と同時に、だから人生はこんなにも面白いのだなと思った。

一人分の人生を全うするのでさえ難しいだろうに、私はこの人の人生も見つめて生きていきたいと願った。それは紛れもなく好意からなるときめきで、いつ何時も彩られる景色に動揺を隠せない。魔法のパワーが強すぎる、本当に同じ人間か?同じ世界に存在しているのか?本人を目にしてもにわかに信じ難い。




具体的に彼の魅力を大いに語っても良いところなのだろうが、来たる6/21という特別な記念日の引き出しに入れてあるので また今度。


といいつつ、数ある魅力のうちの一つを挙げておこうかな。


わたしが彼に一番強く惹かれた印象が残っているのは、踊っている時の指先だった。はらはらと、魔法の粉をかけるような振り(よくやっている、ような気がする)それが、どうしようもなく綺麗で、唯一無二の美しさだったのだ。手がアップになったとか、そういうわけではないのだけど、兎にも角にも美しい作品だった。それ以外にも、口元に当てる指や、頬杖を着く手、なんだかそこを意識的に見ることが多い。魅せる上で効果的な機能を果たしているのが、手。


長く書きすぎてしまった。



まあ、ここまでが第一章というべきか。




第一章があるということは、第二章へ続くというわけである。


私自身の転機を迎えることとなった2019年冬。

受験戦争の真っ只中である。全てのSNSをシャットダウンし、時間を見つけては勉学に励む、そんな日々。情報源といえば新聞か、夜少しだけ見るテレビ。毎日欠かさず触れる媒体といえば、これくらいのものであった。

朝 手に取った新聞を目にして、時が止まった。



自分の将来を決める試験の直前に、自分の大好きな人の今が動いた。そのときは目の前の点数よりも遥か先にある見えない何かを必死に探そうとして、そんなの意味のないことだと諦めて、それでも浮かび上がる表現し難い感情の壁をどうにか超えた景色を想像して生きねばならぬ、とシーソーのように自分の感情は忙しなく動いた。

隙間に入り込んで、自分自身を覆い尽くそうとするから、逆に自分自身にのめり込んでトップスピードで走るしかなかった。


兎にも角にも、自分は今を越えねばならぬ。試験にしろ、この感情にしろ。


怒涛の日々が幕を開けてからは、試験の休憩時間に覗く感情の影を深呼吸で沈め、今を、今を、と 着実に歩みを進めている実感を得ていることを形に表すかのように、帰宅後 試験用紙を机の上に積み上げた。高さを増していく紙の山が、わたしにとっては命綱であったのだ。机の上に飾ってあった写真が眩く光る。きっと希望の光だったのだろうけれど、私の後ろに出来上がる影に目が行きすぎて、どうしようもなかった。

2月後半、落ち着きを取り戻した生活。ところが、試験を盲目に乗り切るあまり、急にふと「本当にやりたいことはこれなのか」と半ば手遅れとも取れるような冷静さが ここでやってきたのだ。当時のわたしにはあまりにも先の見通せない日々にまた首を突っ込むことになるようで本当に嫌だった。考えることを体が拒否するかのように、泣きながら寝て、起きて、ご飯もろくに食べずに1日どうにかをやり過ごした。

このままでは、廃れてしまう。決断は、早いうちに下さねばならぬ。

そう思っているうち、3月を迎えてしまった。不本意な春。



みなさん、ROTを知っているだろう。あの番組が私の人生を動かしたと言っても過言ではないのだ。

忘れもしない金曜日。

眠れない夜にふと目に入ったのは、紛れもない彼であった。文章や写真で拝見することはしばしばあったものの、動いている、映像で彼の今立つ場所を見るのが初めてだった。

彼がそこにいるという事実をこの目で捉えた。


その時、やっと自分以外のことで泣いた。暗いトンネルを抜け出したかのように彼が光をもたらしてくれた。頑張っているのは自分だけでは無い、なんて綺麗なことは言えない。ただあなたが、そこにいてくれるだけでよかった。ただあなたが、自分を生きていると知ることができた、それだけでよかった。私の視界を何が塞ごうが、ただあなたがあなたでいられるのなら、それでよかった。



自分の人生の物語が進みゆく中で、四六時中共にできるわけでもない。(それが自分にとって痛みに変わってしまうのであれば心苦しいけれど)わたしはわたしの人生があり、上手くこなすためには一人で突き進まなければならない瞬間もある。

しかし、それが今ここで交わった。運命という言葉を使うのはむず痒いが、然るべきタイミングで訪れたこのときめきは 贈り物といっても誰も責めないはずだ。(というかシンプルにかっこよかった)


実はあのニュースが流れた時、こっそりSNSを開いた。言い方としては、開いてしまった の方が自分を忠実に描写できるのかもしれない。自分以外にはどんな気持ちの人がいるのか客観的に見てみたい一種の好奇心で、「共感や同情はいらない」と思っていたつもりだったのだけれど、大半の人が向けている言葉を把握するとひどく苦しくなった。自分自身の状態が不安定だったというのもあるのだろうが、あまりにも自分の言葉が出なかった。本当に何もできない空っぽだった。

かなしい言葉、飛び交う論争…いくつも目にしたけれど その会話の中に本人が混ざっていたことがあっただろうか。わたしが目にした 変わることのない真実は意外と少ない。今も同じようなことが言えるのかもしれないけど。




食い入るように見て、静かに泣いて、思い出したかのように我に帰った。自分自身のどん底見たから、これより下ることはないな。それなら何をやっても上にあがれる。じゃあ好きにやっちゃおう。
それからすぐに、自分という軸を据えるべき場所を その手で決めた。


結果的に、わたしは次の一年を勉強に費やすことになる。



背中を押してくれた、私の力になった、頑張ろうと思えた、などといった月並みな表現で形容するのが勿体無い。というか、適切な表現が未だに見つからない。

あの時の心のうねりが、今をもたらしているのだとすれば、決しておざなりにはできない。もしあの時見なければ他の道を選んでいたし、それはそれで素晴らしい展開だったに違いない。でも、中学生の時に出会っていなければ抱かなかった感情に出会えたのはなんだか嬉しさもあった。なんだかうまくつながってるな、誰かが設定しているの?伏線回収のようなワクワクは予期されうるものだったの?そんな上手いことあるわけもないのだが、上手く回っているもんだなと感心してしまう。



今は、小学生の頃から思い描いた夢へと走り続けながら、彼を応援させていただく日々。自分の夢のことを思うたび、彼にもらった勇気を撫でて心が躍る。



今目の前に据えている目標は自分の手で決めたこと。彼が今ここにいてくれるのも、ありとあらゆる自分以外の要因が関与しているにしろ、自分で手に取り、その意志を磨くことを決意したから。

ありがたいことだよなあ、なんて急にしみじみもする。人間だし、今はこんな情勢だし。何が起こるか分からないのに、こうして共に過ごす時間を愛でている。


出会えたことに対して伝えられる言葉はありがとうで、今もこうしてここにいてくれることにもありがとう。そして、とてつもなく大きな感情 愛があるんだよ、好きなのだよとこっそり伝えたい。なにしろ、まだ胸の高鳴りが落ち着く様子を見せないのでこうして言葉にするのも慣れないのだ。でも、伝えたらきっと、いい未来を共に見ることが出来そうだ。

言葉の効力を いつでも胸に置いて綴らなければならない。


無理に言葉にすることはないが、言葉にしないと伝わらない瞬間を超えた今 できる限りを伝えられたら嬉しいなとは思う。



実はこの内容を書こうと決めてから もう一年半近く経っているのだ。あの時の情景を思い出すのに照れが勝って仕方なかった。私の気持ちは、照れに対しての耐性がゼロである。誰しもそうかもしれないな。




君が君のままでいられる場所が、どうか少しでも長く続きますように。君の色は、わたしにとって、かけがえのない素敵な色だよ。



今を輝く橙に とびきりの愛を。








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