咲き乱れ
近頃 大学の授業において、
”「導入」で如何に人々の心を掴むか”
その重要性を痛感する場面に何度も出くわしている私であるにも関わらず、書き出しはいつもの如く、季節の挨拶から始めよう。これがセオリーになりそうである。
四季感を捉えきることのないまま 季節を見送ることが多くなってしまったことが少し寂しくもありつつ、その分 耳や目から取り入れる色はそれまでよりも豊富になっている気がする。足りない部分を本能的に補おうとしているのだろうか、だとすれば、私は人生を体の底から味わい、楽しんでいるのだ。なんと優秀な知覚だろう…
逃げないでと願いすぎるこの季節の空気も、今年は想定よりも吸い込んで生きている。来年は如何ほどだろう。
足繫くカフェに通う私の持ち物に、最近新しく加わったものがある。パソコンだ。
私は 以前から話しているように共感覚(文字に色がついて見える現象)があり、日常生活の中で電子機器を使用することは苦手な方である。
SNSに限ったことではなく、画面の中に公開されている色覚情報は想像よりもはるかに多く、読み取りに苦戦するのだ。色の種類に限りがないし、組み合わせもそれに準じて数を増すのは当然のことであろう。
自分の思っている文字の色と、他人のつけたその文字の色に齟齬が生じると 物事の本質に迫りづらくなってしまう。それを脱する方法を日々模索しているのである。だって、読みたいものも満足に読めない世の中じゃ……
そうしてようやく 積極的に波を潜り抜けてみようと試みるうちに それなりに上手く読めるようになってきたのである。
そんな一安心もつかの間、周りの人はこの問題で苦戦していることはないのだろうなと気づき 不思議な感覚に陥ってしまった。言ってしまえば、不要な壁なのである。
それでも私は、乗り越えた先に良いことが信じてやまないので 何でもやってみる。壁なのか谷なのかわからぬが、今よりもいい景色がみられるの可能性がゼロでないのに 留まるわけにはいかない。生きているうちはずっと何かしらの”炎”を探して生きたい。心の真ん中にある炎は滾っているくらいのほうが丁度良いのである。
人は私を「なんだか忙しそうだ」と形容するが、せっかくの人生を掌でころころと転がしているうちにしおれてしまうよりは、ガシガシ動いてパタッと倒れるほうが余程自分らしいと思って生きているので 何も問題はない。
これまでもこれからも、これが通常運転である。
SNSの返信頻度は、もう少し上がるよう尽力いたします。申し訳ない。
アイドルとして生きる彼らにも「ゴール」などないだろう。
だからいつだって ありがとう、と言いたい。ありがとうと思っていない時でも「ありがとう」というのか?嘘でも伝えて、そんな味気ない言葉になっていいのか?いや、それは本当に思っていないのか?ありがたみを見失っている自分の慢心ではないのか?
尻尾を追いかけ回すように、この問答は終わらない。
良くも悪くも「当たり前」などなくて、抑揚があることによって私たちのときめきも 味わいが変わっている。起伏のない人生なんて面白味もないだろう。
あの時出会っていれば〜じゃなくて、今 出会えたから〜にしよう。
「正解」だけを探し求めることがいい勉強ではないと、何度も教わっている。「過程」で見つけたものにだって、宝物はいくらでも眠っているのだ。その言葉を聞いて、大きく心が動いて、眠って、また忘れて、思い出せというように先生の言葉を聞く。心への沁み具合が毎度違うのは、進んできた道のりに比例していると都合よく解釈している。
とんでもなくへんてこな時間に、同じようなことを言っていた。
結局私の思考はいつだって、同じところから派生して生きています。多少の成長・失敗を重ねつつ。
いつまでも勉強を好み、続けている私であるが 最近気が付いたことがある。それは「花が好き」ということである。単なる花の話ではないので、お付き合いいただきたい。
わかる喜びに出会ったその子たちは、とても晴れやかな表情をするのだ。
そのたびに「この顔をいつまでも眺めていたい」と思うのである。担当している子供たちに限ったことではない。誰だって、どこにだって、学ぶ喜びがある。共に動く私の同期だって帰り道、急に「そういうことか!」とひらめいて喜び、お菓子を買って帰ったりする。こちらまで心を耕してもらったような感覚になる。
この感覚は経年劣化を知らず、むしろ増幅している。
無論 自分の育てた花だけでなくて、ほかの花畑で育った花にも同じような感覚を抱く。だから「自分の手柄だから」といったことではなく「満開の表情に出会えること」が嬉しいのだ。
手段としての勉学になるのではなく、自分を能動的に動かして得るものは絶対に手にした感覚が違う。ずっと暖かくて、重たい大切な宝なはず。今自分が目の前に向かって走ってるのだって、始めたきっかけ・走り続ける理由が確かにあったはずだ。
見失う時があるのは、そのものの存在価値をよりグレードアップするタイミングとして捉えればいいと思う。「こんなにも大きな愛で動いていたんだ」と思っても「なんだ、いらないじゃないか」と思っても「この時間は無駄だった」と思ってもなんでもいい気はする。結局、未来の自分は何処かしらには落ち着いているはずだから。
(明日の自分へ:課題終わってないので、やって下さい)
その場しのぎ〜というと聞こえが悪いが、自分の信念で動いている、といえばかっこいい。それでオッケー。
夢に迫る手続きのような日々に忙殺されそうな私は、この花を忘れてはならないと強く、強く思っている。
素敵な花を、愛すべき花を、必然的に出会った花を。
以前書いた「念ずれば花開く」の話と通ずるところはあるかもしれない。
念でもなんでも、花は開いたもん勝ちなのか。開けばなんでも良いのか……また不毛な議論が幕を開けるよりは、目の前にある日常を丁寧に紡いだ先にある花を楽しみに待とう。
雑多をつらつらと綴ると、いつも長くなってしまう。有益な情報だけを選びたくないとは思いつつ、こんなにも日常を含んだ文章になってしまうとは…!日々勉強。日日是好日。字面も響きも非常に愛らしいこの言葉、気に入った。
これから寒さを増し、歯を食いしばる時期に突入するが 彼らの季節は本番に突入するわけである。季節ど真ん中に降る雪に思いを馳せ、今日もわたしは闊歩する。
皆様もどうか、お身体に気をつけて。
健康第一、暖まって生きよう。
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