思案


noteにするほどではないかな、などと思いつつも自分自身の気持ちの整理のために書き出してみると相当量になってしまったので、それならばとここに清書することとした。あくまでも記録用になるのでさらっと読み流すことをお勧めする。


「同じことをしているようで、どんどん差が広がっているものだ」


これは今日、授業中に先生が発した一言である。

同じ授業を受けてにも関わらず、ノートをとる部分や集中して聞いている部分が人によって異なる。同じ室内にいたとしても、同じ内容を教えていたとしても、学習の差はこんな感じでついているのだよ、と説明してくれた。

この差を貶して叱るか、褒めて伸ばすかでクラスの雰囲気が変わってくるらしい。

言ってしまえば普通のことで 誰でも分かる…なんて思うかもしれないが、人間日常に溢れる事象をわざわざ言語・文章化しないもので、忘れていた当たり前の大切さを急に取り戻しがちなのである。今回はそのパターンにぴたりと当てはまっている。

久しぶりの感覚に痺れていると、この言葉は人生の広域に当てはまるのではないかという思考ルートにたどり着いた。いつものパターン。


あくまでも例えばの話、同じ供給を受けている私たちでも推し方は全くと言っていいほど異なるわけである。それは一体なぜなのか。

はっきりとした答えを出すのは一個人として難しいので考察にはなるが、「環境」の違いが大きいのではないかと思う。特定の期間ではなく、これまでとこれから、あなた自身を取り巻くすべての事象を指す。

同じように生を受けて、同じように歳をとってきた。時間は平等に与えられている。

素晴らしい出会いを繰り返して喜べるのは、自分にない部分を持っている存在への遭遇が喜ばしいからである。こんな価値観を持っているのか、こんな言葉を使って文字の中でもまるで動いているように彼らを表現できるのか、と自分ではこぼれ落としていたであろう感性を丁寧に掬い上げて見つめることができる。

上記に加える形にはなるが、共通点を喜ぶのは安心、という別ジャンルの喜びであるとわたし自身は認識している。全く知らない誰かと同じような点があるのは奇跡としかいいようがなく、胸の高鳴りとは裏腹に心の落ち着きを取り戻せるポイントではあるからだ。

だからこそといってはなんだが、「正解」もない。本人の気持ちを害するものや法に触れるものは除いたとしても 個々の推し方を評価する点が違うので、マルバツは付け難いだろう。

近くにいる人がマルに見えたって、それは自分の評価基準が今まで生きてきた環境の中で形成されてきたからなのであって、もし少しでも違う世界に触れていたら変わっていたのかもしれない。

どんな形だって本人のことを少しでも考えている瞬間があったらそれはパワーになっていると過信して突っ切ってしまってもいいのではないか、なんて思う。自信過剰 自己中心的 な〜んてワードはぶつけられたところで応援パワーに勝てるほどのものではない。各々が彼らを思う気持ちがそこにあるなら、それは紛れもなくオンリーワンの愛なのだ。

少しでも「カッコいい」と思った、口に出した、それだけで何かが変わる。きっと明日の彼らの肌艶が変わる。言霊である。


SNS社会における自己評価と他人評価の直結は著しく、言葉に書き起こされていたら尚更である。褒められたら素直に飲み込んで欲しい。わたし自身は良いと思ったから伝えるし、最大限細かな感情が伝わるように努めたいと思っている。

自己肯定感の話にも関わってくるが「隣の芝生は青い」というように、ほんとに近くにいる人は羨ましく見えて仕方ないのだ。きらきらしてて、自分にないものを持っていて、堂々と歩いていて。

自分にないものに憧れるのは当然のこと。手にしたいと思うから、手に入れたら自分がもっと良くいられると思うから、掴みたくなる。掴んだら何か変わるかなあ と思って伸ばす手ではないはず。きっと、自分がこれをほしいと明確に意図があった上でなのだろう。

まあまあ!あなたはオンリーワンでナンバーワンだよ!と周りから言われたところで納得できないのはやはり、評価基準が違うから。あなたが良くてもわたしが良くない。それに尽きる。だから外部にやいやい言われて苦しくなったら耳を塞いでいい。

まあきっと向こうもわたしのことを羨ましいと思っているし、オンリーワンであるわたしの代わりはいないわけだから、と強気で生きられる日はいつかくる。だから恐れないでいい。


話を戻そう。

推す行動にも同じことがいえる。誰かのやり方が正解じゃない。誰にでもオンリーワンの武器があり、そうやって発信している。私は絵が描けないから文章を書き出したけれど、そんな動機だって唯一無二の信念でやっているからオンリーワン!

今はたとえ大きな部分に目が向けられなくても、小さな一つ一つの積み重ねがあなたと言う形を作り上げていることからすると、その小さなパーツが大事で、いつかのときに必要になる。大切に磨いておくのが良いと思う。組み立てるのが遥か未来だったとしても、あの時可愛がっていてよかったな、見つけられてよかったな、自分のこういうところなんかいいよなって思えるのが良い。


4月になり急激に忙しくなった身の回りで、私は学ぶことが非常に多くありつつも、すの〜まんに頼りながら生きていることを実感する。

大好きな気持ちは全く衰えておらず、むしろその逆である。

それが伝えたかったのか?いや違う。メインは本文です。これはオマケ!


人間、行動の直後に嫌悪刺激がくると無意識にその行動の頻度が低くなってしまうらしい。逆も然り。それぞれが紡いだ言葉や載せられたものたちには最大限の拍手を。春の桜は散りゆくけれど、気持ちの鮮度は自分の管理次第で一生旬です。

今日も読んでくれてありがとう。

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