今の自分から離れれば離れるほどぼんやりとする過去と未来がある一部分だけくっきりと縁取られて見えるのは、自分の中に強烈なインパクトを残しているからであろう。あえて過去・未来を断定しないのには訳があるので後述させてもらうこととして、さっそく本題に入ろう。



各々が生きていく上で、ある程度の主軸となっているものが大なり小なりあるだろう。学業だったり、仕事だったり。なにかしらのスタートを切って、今の自分が走り続けている。
そして気づく。自分より先に走っている人の強さに、後から走り始めたのに悠々と走る人の得意げな顔に、それを目にした自分の焦りに。

先に走る人は大きな背中を見せ続けてくれる。しかしその時も永遠ではない。ある程度の時間が経過すると 先を走る大きな背中は区切りをつけ、また次のコースへと場所を移していく。

上が抜けた分は下が、今まで支えてもらったようにやろうと奮闘する。初めのうちはなかなかできないことでも、時間をかけてじっくりと、段々と、ステップアップする。実感があってもなくても。喜びや悲しみを乗り越えた先の、セーブポイントにたどり着けた感動もあるだろう。



人間は自発的に協力し合う生き物だから、近くに困っている人がいたら助けようと手を差し伸べる。「大丈夫ですか?」と一言添えて。

しかし、感情もある。後から走り始めてぐんぐんとスピードを上げる人が、前を走る人をサラッと追い越した後「大丈夫ですか?」と声をかけるだろうか?この時の声掛けの裏側には「遅くないですか?走れてるんですか?」と聞こえてくるようで、受け取る側は嫌味と思っても仕方ないだろう。

追い越すスピードの速さが巻き起こす風は、こちらの自信までも削ぎ落としていく。

自分にとってしっくりくるスピードで走っていたのに、好きだなあと思って眺めていた景色があったのに、状況はいとも簡単に一変する。



さて、ここで見るべきものは何か。
答えは一つ。自分だ。


この先への希望を捨てたものは、自分のことすらも

捨てる。


どう思っていたか、どうしたかったのか、どうやってきたのか言葉にしてくれている。どんなに苦痛をもたらした出来事であっても客観的に、淡々と語る能力を持っている。彼自身過ぎ去りし日々も、俯瞰して見ている。私たちよりもよほど大きな枠組みで物事をとらえている。

還元しきるのは難しい出来事であろう。私たちもこれまでの日々を「自分の糧になっている」と丸ごと割り切っているだろうか。そんなことないだろう。ぶち当たった壁が高ければきっと逃げてきたし、越えなければいけないなんて無理難題を強いられたって、無理なもんは無理なのだ。負荷をかけるだけが偉いわけじゃない。なにより


自分の中のぐるぐる渦巻く感情を愛せるか。


ここが何よりも重要事項なのだ。ツイートもした通り、腐っても曲がっても人間でいることをやめられない以上、どうにかして自分の体と、心と、向き合っていかなければならないのだ。一刻も早くそういった手段を見つけなければ、淡々とつらい日々を潜り抜けるだけで人生が終わってしまう。

法に触れない限り、手段は問わない。そう思う。


最終的な決め手はわからないが、奇跡的な出会いや必然的な機会が重なった結果の今であることに感謝以外のどの気持ちを述べられようか。



冒頭で過去と未来を断定しなかったのは、完全なるわたしの意思だ。


過去の記憶が鮮明であることに違和感を覚えるものはきっと少ないように思うので、未来の話を。鮮明さのある未来とは一体何か。


それは、自分が獲得したいと願う夢。


未定だからこそ、描ける未来がある。輝かしい将来があると信じることが出来る。改変できない事実に引っ張られるよりも、未来を見据えて走り続けるほうが心地よい。

努力しきらないうちに自分の身の回りを断定したような物言いで語ってしまうのは残念なことだし、負を発すれば呼び寄せる。いつの間にか自分のまとう雰囲気は闇へのトンネルになり得ない。

かくいう自分もそうなってしまわないように、言葉を綴り続けているのだが。


今の道に至るまで各々の人生は光り輝いていたし、自分という主人公が今ここに生存していること、それ自体が奇跡であることに変わりない。もう本当に何度書いても書ききれないが、それぞれが大切な存在で生きていることに価値があり、巡り合えたこの場所も、人も、彩を添える花なのだ。

たまたま彼らに出会い、応援したいと思った自分がいるからここの場所が生まれた。エンターテイメントは刹那的な消費ではないから、思いを自分のなかにとどめるのではなく分かち合うこと、これが次へとつながっていく。



青き一万字に痛く感銘を受けた私の、夜中の独り言。







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