映画「パブリック 図書館の奇跡」を見て
7月17日に公開される映画「パブリック 図書館の奇跡」を見る機会がありましたので、その感想を書こうと思います。この映画の監督であり主演でもあるエミリオ・エステベスは公共図書館がいかなるものかよく理解していると思います。そして見る側も公共図書館について、多少は知っておいた方が面白さが増すでしょう。
この映画はホームレスと図書館がテーマです。映画に登場する公共図書館はオハイオ州にあるシンシナティ・ハミルトン郡公共図書館。本館は全米2位の大きさを誇ります。ただし、映画はフィクションです。寒波が襲来し、何人ものホームレスが亡くなります。そこでホームレスたちは公共図書館に立てこもります。図書館のスーパーバイザーを務める主人公のスチュアートは彼らのために尽力します。なぜならば彼もまたかつてはホームレスであり、図書館に救われた過去を持つからです。こうして、ホームレスと主人公ら図書館員と警察とののっぴきならない対立が巻き起こります。
図書館とホームレスは世界中で問われる問題です。日本ならば図書館職員は「図書館の自由に関する宣言」を常に胸に刻んで仕事をしているため、こうした話はとても共感を呼ぶはずです。「図書館の自由に関する宣言」には次のように書かれています。
「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である」
「すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない」
このように図書館は原則的にホームレスを差別しません。しかし、映画にも描かれますが、現実には他の利用者からの苦情があれば、図書館はそれに対応しなければならず、葛藤を余儀なくされます。アメリカでもホームレスの公共図書館利用に対する消極派と積極派が存在します。また、実際にホームレスが利用を断られたため訴訟を起こした事件もあります。1990年に一人のホームレスが警察と図書館を提訴したクライマー事件が有名です。この裁判は和解となり、ホームレスのクライマーは多額の賠償金を得ています。
日本の場合も問題は同様です。あからさまにホームレスを排除はしませんが、例えば「酒気を帯びた方、異臭を放つ方、及び著しく汚れたり、濡れたりした方の入館はお断りします」といった規則を設けているところもあるようです。
文科省は「図書館におけるリスク・マネージメンント・ガイドブック」をオンラインで公開していますが、悪臭の強い「ホームレス風利用者」に対しては、消臭などの臭い対策や信頼関係の構築に努めながら問題を解決する方法をアドバイスしています。そして他の利用者からの苦情に対しては、図書館の方針を説明し、そうした苦情に対応できない旨を伝えると書かれています。
図書館が利用者の平等原則を貫こうとするのは、まさに図書館が公共の施設だからです。では公共とは何でしょうか。この映画の原題が「the public」であることは、公共図書館で起こった出来事の本質がまさに「公共」とは何か、その意味を問う映画だと考えることができます。そして、決して図書館関係者だけではなく、多くの人が見て考えるべき問題なのです。
2019年10月、台東区の避難所がホームレスの被災者を拒否した事件がありました。台東区は住所がないことを理由にホームレスが避難所に入ることを拒否したのです。この問題は、この映画で描かれた問題と本質は同じだと言えます。
この映画の中では映画の冒頭にスチュアートがホームレスを追い出したとして問い詰められるシーンがあります。そしてライブラリアンのマイラが「どっちの正義を守るべきかって難しい問題よ。お菓子のバザーで解決できれば楽だけど」とスチュアートに話しかけます。そのとき彼女が持っている本がスタインベックの『怒りの葡萄」です。この本が後で大きな役目を果たすことになります。彼女は文芸セクションに異動を希望しており、スチュアートはそれを認めます。
ちなみに、公共図書館図書館は必ずしも公立とは限りません。実際のシンシナティ公共図書館は会員制有料図書館を土台として、1853年に公共図書館になりました。自治体が設立運営しているのではなく、独立した理事会が運営しています。そして図書館の運営は州からの助成や税金、寄付などの資金によってまかなわれています。この映画の中でも寄付を呼びかけるアナウンスが流れるシーンがあります。
公共=パブリックだからこそ、憲法の理念のもとに、いかなる差別もしてはならないし、権力の圧力に屈せず、表現の自由、情報の自由と民主主義のためにたたかわなければならない。その結果、国家権力とたたかう場合もあります。映画にも出ていましたが、個人情報をめぐってFBIや警察と裁判になることがありますし、同じことは日本でも起こりました。なぜ国とたたかってまでも公共図書館はプライバシーを守ろうとするのか、その根元に「パブリック」の理念があります。だからこそ、ライブラリアンという言葉には専門職としての誇りがあります。この映画にはこの視点があるのです。
また、メディアの問題が問われている点もとても興味深い点でした。話題のフェイクニュースの問題も含まれていました。テレビのレポーターは図書館でのホームレスの立てこもりは主人公のスチュアートがリーダーとなって引き起こした暴力的なものだと報道しようとします。しかし、リポーターの同僚は内部からソーシャル・メディアに流された映像を見て、どうやら実際はそうではないと気がつくのですが、それでもレポーターはメディアに都合の良い放送をしようとします。
さて、テレビレポーターが図書館の中にいるスチュアートに電話取材するシーンがこの映画最大の見どころです。レポーターは彼に立てこもりにはどんな「文脈」があるのかと聞きます。スチュアートは「文脈」と聞かれて、手元にあったスタインベックの『怒りの葡萄』の一節を読むのです。それはマイラが持っていた本でした。
「腐敗のにおいが、この土地に満ちわたる。」
「告発してなお足りない犯罪が、ここではおこなわれている。泣くことでは表現できぬ悲しみが、ここにはある。われわれのすべての成功をふいにする失敗がある。」
「人々の目には失望の色があり、腹を減らした人たちの目には湧きあがる怒りがある。人々の魂のなかに怒りの葡萄が実りはじめ、それがしだいに大きくなってゆく―収穫のときを待ちつつ、それはしだいに大きくなって行く。」
レポーターはこの言葉の意味がわかりません。そのレポーターに対して、そばにいたマイラが「十代の必読書よ」と教えるシーンは図書館員や文学好きの人なら誰でも大喜びするでしょう。
また、映画中に上司のアンダーソンが「ここは民主主義の最後の砦だ」というセリフがあります。英語ではちゃんと「公共図書館は民主主義の最後の砦だ」といっています。アンダーソンは最初はお堅い上司の雰囲気を醸し出していますが、途中で自らホームレスの立てこもりに参加します。ホームレスにとっての公共図書館の意味を理解しているからこそできた行動だと思います。
さて、シンシナティ公共図書館のブログにこの映画のプレミア上映と座談会を行った話が掲載されていました。そこで話題になったのは青少年のホームレス化を未然に防ぐ方策についてです。そして次のように述べられています。
「エステベスの映画はフィクションですが、現実世界の問題にもとづいています。シンシナティ図書館は、決してホームレスを経験した可能性のある利用者に対して、サービスを提供している唯一の施設ではありません。しかし、私たちは、それが他の施設の近くにあり、規模が大きく、良い評判を得ている中心となる施設であり、多くの人々にサービスを提供しているという認識があります。年齢、人種、宗教、自宅の有無や他の要因に関係なく、すべての住民のために歓迎されうる空間を提供することは、公的資金を提供される機関としての私たちの義務です。」
公共図書館は、ホームレスの問題と無縁ではありませんが、ホームレスの受け入れをどうするかという問題がすべてではないのです。このような社会的課題に対して図書館としてどのようなサービスが可能なのか、絶えず問われているのだと言えます。そして現実のシンシナティ公共図書館はそれを実行しているのです。
映画の最後に利用者のリクエストが音声で流れます。この映画の冒頭にこのようなシーンがありますが、これはリファレンス・サービスです。ライブラリアンの専門性をもっとも発揮するシーンだとも言えます。エステベス監督はこうした図書館の仕事をよく理解して作っていると思いました。だからこの映画は一般市民はもちろんですが、とりわけ図書館関係者に見てほしいと思います。
ところで、この映画の冒頭に図書館の開館をいろいろな人々が待っているシーンがあります。その中に「何見てる」と言っている青年が出てきます。この青年は映画の中でとても重要な役目を果たします。見逃さないように、ぜひ覚えておいてください。
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