春音あいらはなぜ「ぎゃふん!」と叫ぶのか
キンプリを見る前にこの作品の感想も書いておかねばなるまい
ここからは感想そのものの記録であり、日記と同じだと思って欲しい
レインボーライブの前作ということでオーロラドリームを見た
比べる訳では無いが
レインボーライブは他者へ向かう感情をより複雑に物語へ昇華した
オーロラドリームではむしろその点を恋や愛などの名前をつけてサクッと流し、もっと違う問いを作ろうとしていたように思う
語りたいことと話数の釣り合いが取り切れなかったのが悔しいところだった
ー本題ー
「ぎゃふん!」
彼女がぎゃふんと言うとき、その顔は地につき、両脚は天を向く
何故あいらは「ぎゃふん!」と鳴くのか
そこにどんな意味が込められているのか
そう疑問に思わずにはいられない
言葉には必ず意味がある
村上春樹の主人公で言うところの「やれやれ」と同じだ(余談だが実際にはイメージほどやれやれは出てこない)
今回はこの視点からオーロラドリームを読んでいきたい
さて、すでにみなさんご存知のようにこの作品の中で繰り返し語られるのは「間違った道を進んだとしてもまたやり直す」ことの大切さだ
阿世知もこんな言葉を残している「たとえ何度倒れても立ち上がり続ける大切さ」
最もよく現れているのは、りずむと家族の物語だろう。彼女たちはバラバラになりかけたが、仲間たちとプリズムショーが、愛がそれを繋ぎ止めた
カレー屋の頑固親父も印象的だ。みおんの働きかけで、彼はまた客と向き合うことができるようになった
人間関係や仕事だけではない、感情もまた「やり直し」できる
思い通りにならない悔しい気持ち、それはより美しく、より鮮やかになるためのキッカケに過ぎない
全ては「やり直し」の積極的な肯定だ
あいらはこの「やり直し」に「プリティーリメイク」という名前を与えている
破れた服たちは、彼女の手によって以前よりずっと素敵にデザインされるチャンスを得る
破壊されたモノゴトはそれと同時に再生の権利をも手に入れているのだ(不死鳥よ!)
もうお判りだろう
「ぎゃふん!」彼女は倒れるたびに立ち上がる
「ぎゃふん!」万事は思い通りにいかないのだ
「ぎゃふん!」彼女はすぐに前を向く
彼女が地に頬ずりするとき、彼女の成長のキッカケが萌芽するのだ
こころ、充電!
スイッチオン!
そして、「ぎゃふん!」なのである
と、ここまでは賢明な皆さまであれば既にお気づきのことだっただろう
だが、本当にそれだけだろうか
たしかにここまで見てきたように「ぎゃふん!」は作品のひとつのテーマを表しているとさえ言える重大な言葉だ
だが、それ故に、これほどたやすく解釈されてしまってよいのだろうか?
さらに議論を深めるために、もう一つのテーマについて考えていこう。オーロラライジングについてだ
最終話付近に至りて、この作品はその物語の質を急速に高めた これは万人が認めるところだろう
オーロラライジングの正体を巡り、彼女たちは奔走する
かなめとりずむが跳び、みおんは別のジャンプを見つけた
そして、その最後
舞台上、夢と希望の集まる場所となったあいらは、あいらのオーロラライジングを跳ぶ
世界はオーロラに包まれる
彼女がつくったオーロラの中ですべての人はオーロラライジングを自由に跳べるようになったのだ
それは革命だった
プリズムジャンプさえ跳べない素人ですら、オーロラライジングを跳べるのだ
これが意味することはオーロラライジングはもはや採点に値しない「ありきたりなジャンプ」だということ
(※もちろん、採点に値しないことがオーロラライジングそのものの価値を決めるわけではない。それ自体は人間に夢が続く限り輝き続ける最高のジャンプだ)
これは価値の「破壊」であり、「創造」であった彼女は、基準さえもプリティーリメイクしたのだ
もはやオーロラライジングは得点のためのジャンプでは無くなった
この革命、誰もが気がつけたわけでない
事実、後にレインボーライブの時代になっても得点主義は蔓延っていたのだ
たぶん、この事実に気がついていたのはケイコーチただ一人だろう
「世界」の正位置は完全や成功を表す
このとき、得点主義は既に死んでいたのだ
あいらが殺したのだ
そう考えると、みおんはまた一つ先に行っていたことに気がつくだろう
誰もができるオーロラライジングではない、彼女にしかできないジャンプを成功させている
常に先頭を歩くリーダーの姿を最後まで崩さなかった。これからもずっとそうなのだろう
プリズムジャンプは心の飛躍
みおんにはみおんのジャンプがあった
では、あいらには?
作品は、知ってか知らずかその答えを出している
「ぎゃふん!」躓くとき
彼女は宙に放り出される
それは小さな飛躍である
「ぎゃふん!」
それは春音あいらにしか飛べないプリズムジャンプだ
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