見出し画像

正解・不正解なんて誰が決めた

こんばんは。
榊原潤です。
大学のビジネスサークルの代表としてサークル運営をしたり、様々なイベント運営に関わらせていただいています。



さて、、、
お久しぶりです。最後に書いたのが7/8なんでほぼ1ヶ月ぶりか。
毎週更新が途絶えっちゃって萎えたとか言ってた人間が1ヶ月ぶりの更新となってしまいました。まあ色々あって、その後に試験もあって。
言い訳でしかないですね。
またこっから頑張って書いていければと思うんで、また読んでくれたら嬉しいです。




本題に入る前に1つ告知を。
告知もあんまりできてなかったんよね。
もうあと数日です。
8/6(日)に、スナックじゅんじゅんを開催させていただいきます!
バーカンの向こう側に自分がいて、来てくれた人と色んな話をするってイベントです。
色んな人と話せるイベントにしたいので、ご都合の合う方は来ていただけると嬉しいです。






では本題の方へ移っていきますか。



“正解”
“不正解”

このことばって色んなところで耳にします。
でも本当にそれって正解・不正解なんでしょうか。



確かに、数学みたいに確実な答えがあるものもあります。
でも、結構そんな明確な答えなんてないものが多いんじゃないかって思うんです。
しかもそんな明確な答えがないものを人から言われる。



価値判断の基準を押し付けんなって話なんです。



例えば、誰かにそれは違うんじゃない、と言われた時。
まあ確かにその場では納得することもありますよ。
でも、なんでそれが間違いだってわかるのか。
結局その人の価値判断の基準の中では間違いなのであって、本当に間違っているのかなんて誰にもわかんないんです。
その人の価値判断の基準が自分とは違うってだけなんです。


その言ってきた人がどれだけ経験豊富な人だったとしても、その指摘したことを実際にやったわけじゃないんです。もし仮に似たような経験があったとしても、それは今自分が直面している場面とは違うし、そもそも直面している人が違うから、全く同じ経験ってのはあり得ません。だから、経験からの否定ってのは正確ではないんです。



ここでちょっと、誤解を招きそうなんで。
もちろんね、先人からのアドバイスって大事です。その分野において色んな経験をしてきたし、色んな知識もある。自分みたいな20年くらいしか生きていないような奴より遥に優れていたりします。だから、先人からの意見に耳をふさげ、っていいたいんじゃなくて、1つの意見として捉えるのがいいんじゃないってくらいの感覚。そんな自分だけでやっていけるほど甘くないしさ。アドバイスをもらうことってすごい大事なんで。



色々言ってるけど、こうやって言っている発言だって正しいかどうかわかりません。
でも、ひとつだけ言えるのは、自分の直面している状況は自分だけのものであり、正解かどうかは自分自身で決めるものです。なにかに挑戦している時に違うんじゃないって言われても、受け止めつつそれはあなたの基準では違うのかもね、くらいに捉えていないと何もできなくなる。誰かの価値判断の基準の型に当てはめられた人間なんてつまんないじゃん?
だから、自分らしくってのが結局大事なんだろうね。

自分が直面してることへの対応として、
正解かどうかは自分にしか決められない。
自分が正解だって思うなら突き進めばいいし、間違いだって思うなら修正すればいい。
信用できるのは自分自身。


あ、でも盲目になるのは違うからね。
気付けない程にまで自分を信じすぎるのもよくないから。


誰かに抑圧されることなく、自分らしさを前面に出しましょうよって話でした。
強引な着地だし、急に保身的な主張になっちゃったね。





今日はこんなところで。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
では。









































































いやー、1ヶ月ぶりに書くと変な感じ。
今までどんな感じで書いてたのか忘れたし、テンション感もわかんない。
まあでも思うのは、自分が意見を出しやすいのは多分文面。
音として届けることばも気に入ってはいるけど、やっぱりこっちの方が性に合ってるんだろうね。
とか言って全然書かんかったけど。
また頑張ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?