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絵画の楽しみ方教えます。 その4-3

webより
革命的な絵とは、世の中の無理解と抵抗に出会うものです。「聖母被昇天」も、完成した1518年には、注文したフランチェスコ修道会が受け取りを拒否しかけて、カール大帝のオーストリア大使が、代わりにこの絵を買収しようとした経緯さえあります。幸い最終的には、注文主のフランチェスコ修道会が絵を引き取り、現在もサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラリ教会の主祭壇画として、元のまま置いてあります。
という逸話です。逸話というか何か歴史的文献資料として残っている史実なのでしょう。こんな素晴らしい絵を何故依頼主は受け取りを拒否したのでしょうか?

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私は案外単純な理由だと思うのです。
 この時点で(たぶん今もそうでしょう。)教会側がユダを聖人にしていなかったと思うのです。あくまでも裏切り者であったはずなので、教会側がこの分かりにくい3人を見つけた場合、この絵は受け入れられなかったと考えられないでしょうか。誰が見てもこんな素晴らしい絵を受け入れないなんて、何か些細でありながら教会側としては許しがたい、受け入れられない理由があったから、受け入れを拒否されたのではないでしょうか。我々には些細な事でも教会側にとっては重大なことだったことが理由ではないでしょうか。
 たぶん左の人物を衣服だということで、あるいはもっと人間とは判別できない程度までカモフラージュし、折り合いをつけたような気がします。私の妄想かもしれません。
 いかがでしたか?案外面白いですよね。この様に見る側の人によって人物に見えたり、あるいは風景に見えたり、衣服に見えたり、曖昧に描くことで、ある意味、何か必至に自分というものを表現しよとしている気がします。9人か11人か12人か、ある意味皮肉も込めてティチアーノは表現したのではないかと思います。この様な解釈は偉い美術史家の先生は一切受けつけないと思います。たぶん負け惜しみです(笑)だって自分が空きメクラということが露呈してしまいますからね。(露呈なんて難しい言葉を。)
今気が付いたのですが、先ほどの目頭を押さえて泣くような人物は、私の「絵画の楽しみ方教えます。その1」で紹介したジュール・ブルトンの「落穂ひろいの招集」の隠れていた少女に似ています。たぶんブルトンはティチアーノをパクリましたね(笑)

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