見出し画像

「ありたい自分」が己を創る。

junki

はじめに

初めまして!junkiといいます。note初投稿です:)
関西在住社会人3年目の26歳、これからの人生をどう生きたいかについて考える中で、少し立ち止まって自分の人生を振り返ってみました。

内容の大部分は、唯の自分史/自分語りなのですが、それを通して伝えたいメッセージを、魂を込めて書いた僕の”生き様”です。

周りからはよく「明るくて元気」って言って貰えることも多いしそれも多分本当の自分だけど、同時に実はどこか弱い部分とかを人に見せるのがものすごく苦手な臆病者だったりもします。人前に出るのが好きなのに、人に見られるのがこわくて、SNSとかも正直苦手。でもそれってなんか、勿体ないなって。人って自分でも気づかないほど色んな”面”があって、自分を知れるとすごく生きやすくなるし、嫌な部分ですら愛おしく感じられる。

「人生全力で生き切りたい!」ただそれだけで、ここ数ヶ月間本気で”自分”と誠実に向き合う時間をつくりました。自分と向き合うのほんっまに体力使うししんどかったけどこれ本当にオススメです!これについてはまた今度書けたらと思ってます。

世間に公開するのは正直勇気がいるし、まだ知り合いとかには見せてはいないけど、選手宣誓としてこの場で自分をさらけ出してみることにします。
でも「これが正解の生き方だ!」なんて誰かに押し付けるとかじゃなくて、あくまでもこれが、今僕自身が納得できる生き方ですってのを共有してみる。

この文章を読んで、「ふーんこんなヤツおるんやぁ」「僕は私は違う生き方だな〜」とかももちろん全然いいし(むしろ興味ある)、

でももし、これを読んでどんな形であれ「俺も私も頑張ろかな」って少しでも思うきっかけになれたら本当に本当に嬉しいです!


俺は、この生き様を通して

「ありたい自分」の溢れる世界 が創りたい。


【幼少期】

①  田舎育ちの人懐っこい末っ子

大阪の田舎の家族に、3人姉兄弟の末っ子として生まれる。
10歳上の姉、8歳上の兄はよくお世話して可愛がってくれた。家に来る兄姉の友達にもよく遊んで貰い、小さな頃から色々な世代の人と話すことが多かったのもあってか、自然と誰とでも躊躇なく話す人懐っこい子供に育った。

母親によると、少し目を離すとすぐに道端で歩くおじさんおばさんに声をかけ、手をつないで歩いてもらうほど人懐っこい坊やだったらしい。同級生の家に遊びに行っては、やたらとそのお父さんお母さんとも仲良くなった。

保育園ではマーチング行事でドラムを担当したりもした。もちろんやったことないけど、とにかくお母さんや先生の期待に応えたい、喜ばせたい。の一心で引き受けた気がする。

画像11


【小学生時代】

②  生徒会長替え歌演説

後に芸人を目指すほど、面白かった兄の教育を受け、全てにおいて先頭・表舞台に立つことに徹した。もちろん生徒会長にも立候補し、舞台は体育館での選挙演説。数百人の全校生徒を前に一本のマイクで語り掛ける。周囲からの期待と重圧で想像もしない緊張感が襲ってきたが、”周りの期待に応えたい、目の前のみんなを喜ばせたい”の一心で話し始めた。公約を述べた最後には、SMAP「夜空ノムコウ」の選挙用自作替え歌を歌い、結果的には二位のダブルスコアで会長になれた。

大きなモンスターに見えた目の前の大衆が、自分がしたことで笑顔になり、替え歌サビで「会長の欄には~山本じゅんきをよろしく~♪」と歌う頃には、皆が両手を挙げて左右にウェーブをしていた。当時一番怖かった体育の先生も喜んでビデオを撮っていた。

得意なことで、目の前の大勢の人に楽しんでもらうのってこんなに嬉しいんやと、初めて知った。

画像9

*小5の時パソコン授業で作った自己紹介カード。"第1条"だけ明朝体になってる詰めの甘さと、あり得ない重ね着をしているファッションセンス以外は何やら気の良さそうな坊やだったようだ。

③  父親の死

小学校6年生の秋、父親がガンで死んだ。

父親は厳しかった。礼儀などに問題があると物凄い怒号で叱られた。テレビアニメ『ポケモン』に入り込み過ぎて、父親の帰宅に気づかず挨拶が遅れると、正座でお叱りを受け、夜ベランダに数時間締め出された記憶がある。この頃から、大人や周りの期待に添わないと何か恐ろしいことが起こると本能的に思うようになっていた。(それが今も続く自分の”人の目や感情を敏感に気にする?察知する?”部分のいわゆる原体験なのかね?)

そんな父は、酒と煙草が祟ってか、54歳でこの世を後にした。末期を迎え、食事も制限されていた父が最期に食べたいと望んだのは好物の梨だったそうだ。看護師さんが用意する間少し睡眠を取り、起きたら食べようということになっていたが、そのまま息を引き取ったという。この話を聞いて安らかに眠る父を見た僕はこの時初めて人生について考えた。人間の命は限られてる。いつ目の前の食事が最後になるのかなんてわからない。限られた命・時間・食事を少しでも悔いなく味わうことの大切さを学んだ。そして生きている時間のうち、少しでも機嫌良〜くして、健康で、ただ調子よく過ごすことの重要さを学んだ。(そして食べるのがどうしようもなく遅くなりいつも友達におこられる笑 食べるって、味わうってほんま最高!笑)

小学生だった自分は当時、父親が職業で何をしているのかよく知らなかった。父は独学で英語・スペイン語を学び、貿易商の会社を立ち上げ、よく南米へ数か月間出張に行っていた。ここにきて初めて父親の人生に興味を持った自分は、海外への憧れを持ち始めた。お父さんが見てきた世界の景色を見てみたい。もうひとつ、父はビートルズの世代で、よくピアノ・ギターを弾き語っていた。その頃から自分も音楽に興味を持ち始めた。

とまあ良いことばっかり言うてるけど、晩年は別居してたしまあ色々あった。でも感謝はしてるし、今一緒に飲めたら話したいこと一杯あるなぁ。(あ、瑛人の『ハッピーになれよ』って曲めちゃくちゃおすすめ!)

【中学生時代】

④  中学を3ヶ月で中退

「入学すれば受験なく大学まで上がれる」というだけで、母親を安心させたい一心で中学受験に挑戦、大学付属の名門私立中学校に進学した。ところがいざ入ってみると、異常に厳しい髪型の風紀・電車など世間の人前に出る際は必ずブレザーと革靴の正装でいなければならない・どの行事も先生の決めた枠内でのみ行う、など「過保護な」雰囲気(と勝手に感じてしまっていたもの)が自分には合わなかった。自由に自分を表現できて、個性あふれる仲間と人生一度しかない学生生活、青春を全力で駆け抜けたいと本気で思っていた自分にとって、このギャップには相当苦しんだ。

なぜならそこを中退することは、それまで支えてくれた家族の期待を裏切ることになるからだ。莫大な入学金・学費・制服、教材費へのとてつもない後ろめたさや、学歴を重視する祖父・祖母の強い反対など、挙げだしたらキリがなかった。

気が付くと中学入学して数か月間、毎日ため息をついていた。今思うと間違いなく鬱状態になりかけていた。

だが中1の夏休みに入る頃、母親の「自分のしたいようにしたらいいんじゃない」という一言で直感的にこう思った。お金は返すことはできても、過ぎ去った時間はお金では返ってこない。一度しかない学生生活を絶対に後悔したくない。そのためには、敷かれて整備されたレールを歩くんじゃなくて、自分で道をつくって楽しみ方を見出せるところが良い。田舎の地元の環境がまさにそれだった。

そこで決心のついた自分は、祖父祖母に自分が送りたい理想の学生生活を語り、「学費は将来働いて返す」と約束し、苦労して入学した名門私立中学校を3ヵ月で中退し、ブレザーをジャージの体操服に着替え、2クラスしかない地元の田舎の小さい公立中学校に転入した。
人生で初めて自分の意志で自分の人生の舵を切った。今思うとその後の人生は全てこの決断から始まってて、この時勇気を出して行動した自分をここは本気で褒めてやりたい。よーやった。

⑤  選んだ道を"正解"にする

そうして転入した地元の中学校は、隣接する二つの地域の小学校の生徒が一つに合流して形成されていた。自分の学年は最初、各小学校出身の生徒同士の対立があったらしい。喧嘩やいざこざも少なくなく、雰囲気も少し殺伐としていたと聞く。まあそんなことは全く気にせず、転入生の挨拶の際にはクラスの前でショートコント(すべった)をし、早速クラスの輪に入った。

友達関係・学校行事・部活・勉強すべてにおいて一切の妥協をしないことに決めていた。自分で下した大きな決断には、選んだ道を正解にする覚悟と責任があった。

全ての学校行事で先頭に立った。体育祭のクラス対抗「創作ダンス」、スキー合宿のレクリエーションの一環で流した、テレビドラマ『花より男子』の中学生版パロディドラマの脚本・監督・撮影・主演など、とにかく全てに全力を尽くした。集団をまとめるとか難しかったけど、ノリの良い皆のおかげで楽しくできた。

そうして次第に学年のいざこざもなくなり、次第に本当の意味でひとつになっていく感覚があった。気が付いたら先輩や後輩も羨む、良い学年になってた。「あいつなら何とかしてくれるやろ」的な信頼と協力を得た。他学年の学年集会では名指しで謎に「模範のリーダー」とも称された。その証拠に、3年生の最後の体育祭組立体操の8段ピラミッドで、明らかに小さくない体格なのに最上段を任せてもらった。あのピラミッドからの景色は多分一生忘れない。高くてめっちゃ怖かった。

所属したバスケ部では、才能はなかったけど自分なりの盛り上げポジションを見つけて努力して、副キャプテンとしてチーム悲願の地区大会優勝に貢献した。部活引退後も高校受験勉強の傍らトレーニングし、3年生冬、学内山間10kmマラソン大会で全校生徒で一位になった。

勉強は高校受験の内申に関わる3年の最後の成績は全ての科目でオール10を獲った。(1科目につき学年で2人の"10評価"の枠のうち1枠を全科目で獲ってうらまれた。わりぃな辻井くん:P!)多分この時が一番成績よかった。この時が。

ただの今は昔の自慢話やけど、一辺の後悔もない中学生活を送れた。今でも繋がる一生の仲間もできた。そこまでできたのも、中学1年生の夏にした自分の決意と覚悟があったから。自分の可能性を信じて行動すれば、不可能など存在しないことを信じて、証明した。

画像2

画像11


【高校生時代】

⑥  ハモネプ出場

中学時代大大大好きなテレビ番組があった。フジテレビ系列『青春アカペラ甲子園 全国ハモネプリーグ(通称「ハモネプ」)』だ。仲間と声を合わせてハーモニーを奏で、青春をかけた一発勝負の本気の闘いに強烈に惹かれ熱狂した。兄貴とお風呂に入りながら出演グループのモノマネクイズを出し合って楽しんでいた。大学生がメインの大会だったが、「高校に入ったら自分もアカペラやってハモネプに挑戦してみたい」と思っていた。

きっかけは、中学卒業後の春休みにバスケ部の友達を誘って興味本位で受けたEXILEのVOCAL BUTTLE AUDITION (後の3代目J Soul Brothersのボーカルを決めるオーディション)で、二次審査(2万人中200人)まで残ったことだった。(結局これはここで落ちた。)(ちなみにそこで仲良くなった隣の中学の片寄涼太は今やGENERATIONSで紅白に出るなり大活躍。イケメンで頭もよくて、めっちゃいい奴やった。チッキショーーー!!!))

「何事?!」と結果に驚き、それまで歌を習ったことがなかったので、二次審査準備のため、高校入学当時とりあえず音楽室へ飛び込み、先生に事情を話して昼休みの個人レッスンをお願いした。

そこである日、音楽室で3年生の歌うま女子の先輩と偶然出会い、完全に「これだ!」と直感が働いた。入学4月の1年生男子にとって一番遠い存在の3年生女子の先輩だったがとにかく「一緒にハモネプに挑戦しませんか?」とお願いし、グループを結成した。

アカペラの知識経験は全くないけど、ただ"ハモネプオタク"だったおかげでそこに出ているイメージだけはできたので、「青春感」のある選曲やグループの売り出し方などは色々と提案していた(生意気)。
結成3ヶ月後の高校1年生の夏休み、大学受験を控えた最も大事な夏休みを返上して練習に付き合ってくれた先輩や、ボランティアで指導して下さった先生方のおかげで、憧れのハモネプ(2010年)に出場できた。結果、高校生グループ初の日本ベスト4入り(全国856組中)ということになった。憧れていた番組のスタジオ、楽屋スタイリストさんにセットしてもらう髪、初めて生で見る有名人、テープが擦り切れる程みてモノマネしてた憧れのハモネプスター達、夢にまで見た「暫定ボックス」、放送とその反響、全てが刺激的だった。そこで歌った曲『青いベンチ/サスケ』が、ハモネプ放送後オリコン100位圏外から1位に返り咲きして盛り上がり、その後テゴマスがカバーする、みたいな連鎖もあった。
予想もしていなかった展開の連続が起きたのは、経験も何もなくても、とりあえずやってみたら何かが始まるとどこか知っていたから。何事も、やってみないことには始まらない。初めの行動がその後のすべての出会い、偶然を呼び、思いもよらない結果を生み出す。方法がわからなくても「あれになりたい」という強い憧れだけが自分の行動を駆り立ててきた。

*コメントで僕の服装disられてて爆笑w  ウルセエエエエ!!!!! ファッションセンスないのは小学生からダモン!! だって店員さんが似合ってるって言ってたんダモン!! 当時は皆にカッコイイって言われたんダモン。。。(T_T) (勉強シマス...orz) (にしても髪なげぇし動きうぜぇな。)

⑦  後悔の青春

次の目標は、大阪大学のアカペラサークルに入ることだった。当時出場したハモネプで出会い、優勝したグループ(AS★KNOW)がこの大学のサークルだった。大阪大学に入りたい一心で、高校生活のすべてを勉強に向けようとした。そして大失敗した。

所属していたバスケ部を辞め、友達との遊びや交流も段々と希薄になっていった。そうして我慢を重ねるうちに自分の中にも迷いが生まれ、塾も謎に二つ掛け持ちするなど、勉強も空回りをした。結果充実した高校生活が送れなかった上、勉強でも成果が出ず、受験に失敗し浪人することになった。(おまけにイヴデート中にガラケーで伴奏をかけ歌って告白し盛大に振られるという、墓まで持っていきたい話TOP 3ぐらいのエピソードもついてきた。)

自分に嘘をつき、高校生活を充実させることをあきらめたことで、自分が最も大事にしていたはずの”仲間と青春に全力を出す”が、人生に一度しかやってこないあの高校生活で実現できなかった。見栄を張り、自分で自分に蓋をして、"一生の仲間”ができなかった。おもろいメンツいっっぱいおったのに。本気で後悔をした。
勉強・部活・友達関係・恋愛などすべてにおいて、自分に蓋をせずやりたいことをとことんやることが大事だということを痛いほど学んだ。

【浪人時代】

⑧  大学受験

高校生活を充実できなかった後悔から、浪人時代は本気で勉強に集中した。「憧れの阪大アカペラサークルでアカペラをする」ということと、「語学を学び、父が見てきた海外の世界をみる」ことを目標に、大阪大学外国語学部を第一志望に受験勉強に取り組んだ。浪人生活は辛いけど楽しかった。志望校や学部は違えど、志を同じくする仲間と一緒に勉強できた時間はとても貴重だった。ただ楽しいだけの時に一緒にいる友達よりも、苦しい時を共に乗り越えた仲間の方がより絆が深まる。今でもその繋がりを大事にしたい。

順調に成績も伸び、受験直前の大阪大学外国語学部の模擬試験では受験生全体で二位になるまでになっていた。満を持して本番の試験を受けたが、結果は不合格だった。原因は配点比重の多い英語がどうしても苦手で、全然点数が伸びなかった。「努力している自分」に酔っていただけで、課題を真摯に見つめ目的に向けて頑張りきることができなかった結果として受け止めた。そこから、自分の可能性を信じて行動しても、不可能は存在する。ということを知った。大事なのは、自分が今なにをするべきなのか、今自分はなぜこれをしているのかの”優先順位”をよく考えて行動をすることを学んだ。

【大学時代】

⑨ 【大学1~2年】必死のアカペラサークル

関西の私立大学に進学。僕の本当に一番大好きな映画『阪急電車〜片道15分の奇跡〜』(2011)に憧れて選んだ大好きな大学。学内にアカペラサークルがあったのですぐに入った。友達を大事にするほんまに素敵な場所だったが、気がつけば少し馴染めていない自分がいた。これは本当にフィットの問題で、もっとこう、ストイックな環境に惹かれる人間だったからなのかな。直感的に温度差を感じてしまった自分は、「本気の本気でアカペラをするために1年多く受験勉強をしたのだから、後悔はしたくない。」と、1か月後に大阪大学のアカペラサークルに他大生として飛び込んだ。

ところで、そもそもアカペラと聞いてあまりピンとこない方も多いと思うので、大学での一般的なアカペラ活動を含めてあくまでも自分視点で、でもできるだけ臨場感をもって説明してみる。
------------------------

アカペラとは、ギター・ベース・ドラム等の楽器を一切使わず人間の「声」のみを楽器として扱い、音楽を奏でる音楽形態の一つ。楽器を持ち運ぶ必要もなく、人が集まりさえすれば手軽に始められるところが魅力の一つ。

大学によって様々だが大きなサークルには約100〜300人程のサークル員がおり、その中で通常5、6人のメンバーが有志で誘い合って集まり、1グループを結成する。多くの人は自分のキャパに合わせてそれを2〜4グループほど掛け持ちをして活動をする。

そうしてサークル内には約20-40ものグループが存在していたが、より注目を浴びる大きなステージで演奏するためには時間等の関係上、サークル内オーディションの厳しい闘いを勝ち抜いた、ほんの5、6グループしか立つことができない。

皆がそれぞれの目標に向け、グループのコンセプトや、それに基づく選曲・楽譜編曲、各パートの個人練習、授業後のグループ練習、身振り手振りのステージング、曲の間のMC・衣装見た目を含むステージ全体の世界観作り…のように、たった10―15分の1ステージを、メンバーとともに何十時間・何百時間もの地道な試行錯誤を数か月間重ねて共創していく。

そうして鎬を削って行われる学内オーディションや学外の全国大会には、残酷にも「合格・不合格」といった明確な結果が突き落とされる。そしてそこには勿論個人レベルでも「活躍する者」と「そうでない者」がどうしても可視化され、時には嫉妬や妬み、グループ内での仲間割れもあったりもする。

本来「勝ち負け」を決めるものでないはずの芸術・「音を楽しむ」ことがいつしか苦しみのもとにもなり、中には葛藤をもってしまう子も絶えなかった。学業との両立も非常に大きな壁だ。アカペラにのめり込むあまり勉強が疎かになり、親に活動を反対されたり、留年する子も多くいた。

--------------------------

自分もその苦しみを味わった。大切にすべき仲間とも何度もぶつかり喧嘩をした。傷つけあって心がボロボロになることもあった。大学ではタスクの多いゼミでゼミ長をしていたが、結局名ばかりのゼミ長になってしまって白い目で見られていたし、学業との両立にも相当苦労した。本当に大変だった。いっそのこと辞めてしまった方が楽な大学生活が送れるのではと何度も思った。


「たかがサークル」に何故そこまで命を懸けて必死になるのか?

それは、人生で”その瞬間”にしかない青春に、仲間と呼べる存在と本気で挑みたかったから。

ただ飲み会をして遊ぶだけでない、仲間と一緒に高みを目指して全力を出す経験そのものにこそ本当の価値があると信じていた。

アカペラはよく世間からは、番組のイメージのせいか「一見なんだか仲間うちでやるただの"お気軽な"お遊び〜♪」のように思われがちだが、ここは舐めてもらっちゃ困る。みんな部活以上の熱量だった。テレビには出ないアカペラの全国大会はもっともっと熾烈で厳しく、皆命懸けでやっていた。アカペラは、音程が最も調整しにくく不安定な人間の「声」を楽器として扱い、音程・音量・リズム等の絶妙なバランスでハーモニーを作り上げる、本当に奥が深い音楽形態だ。一人の音程の微かなズレが全体のサウンドに影響し、命取りとなる。良くも悪くも、メンバー1人ひとりの努力・感情・想いがマイクを通してそのままサウンド、ステージングに増幅され現れるのだ。

”その瞬間”にしか生まれない一発勝負の極限状態で生み出されるハーモニー、ステージが、歌い手の”想い、意図”の伝わるものであったとき、筆舌に尽くしがたい美しさや感動を生む。

それがたまらなく好きだった。そのためならどんなことでも耐えられた。
尊敬する仲間が多くいる環境で活動する中で「こうなりたい」という想いが日に日に強く、毎日授業終わりに必死で練習をしていた——

⑩ 【大学2-3年】もうひとつの夢ーアメリカ留学

大学2年の春、自分には大学でどうしても実現したいことがもう一つあった。小学生の頃から憧れを抱いていた、海外への留学だ。

ただそこには葛藤があった。1年間の留学は、日本でのアカペラサークルでの活動の中断を意味する。国内で徐々に知名度を上げ、全国大会で結果を出すにはそれ相応の試行錯誤の活動と経験・時間が必要だった。「脂の乗ってくる」2~3年生での1年間の活動中断は、国内の大会で結果を出したり、他大学の友達も増えて充実した大学アカペラ生活を過ごすのに致命傷だった。それは自分だけの問題だけでなく、自分と一緒にグループを組んで力を注いでくれているメンバーの活動にも影響してしまう。正直かなり悩んだが、こう考えた。「日本での活動だけをして結果を出した先輩は沢山いる。でも1年留学もしてアカペラでも現役で結果を出した先輩はあまり聞いたことがなかったし、それが一番かっこいい。」
一度しかない大学生活、やりたいことは全部やると決めていた。方法は後から考える。
(と格好をつけているけれど、こんな身勝手な自分の選択を受け入れてくれたメンバーには感謝しきれない。本当にありがとう。)

1年間の交換留学の切符を勝ち取るためにアカペラ活動の傍ら、大学単位取得・TOEICの勉強をした。大学入学時のTOEICのスコアは580点、決して英語が得意と言えるものでなかった。そこから必死で勉強し、何とか切符を勝ち取り、大学2年の秋からアメリカでの交換留学が決定した。

~~~

そうして始まった初めての海外生活。
舞台は、冬マイナス20°にもなりトウモロコシ畑の広がる超ど田舎アイオワ州ドレイク大学。

全てが刺激的で学びの濃い時間だった。文化・人種・言語の違いに沢山ぶち当たった。特に人種の壁は想像以上に厚い。もちろん例外はあったが、基本的に仲良くなるグループはなんとなく白人・黒人・アジア人に分かれていた。

正直いじめにもあった。自分の学生寮には欧米出身の留学生や現地の学生が大多数だった。"身体も一回り小さく英語もまともに話せないアジア人"であった僕は周りから裏で小ばかにされているのを感じていた。ある深夜2時、自分の部屋のドアを外から「バン!」と叩き、くすくすとした笑い声と共に走り去る複数の足音で目覚め、扉を開けると誰もいない暗闇の廊下が続いていた。物凄く惨めだった。本当に悔しかった。涙が止まらなかった。見返したかった。

「遥々ここまできたんだから、白人・黒人のコミュニティにも入らねば意味がない。」何か機会を探していた。「共有できるものがあれば仲良くなれるのでは?」そこでキャンパスのアカペラクラブに入部するための年間オーディションを見つけ、挑んだ。そして一次審査で落ちた。世界の壁は厚かったが「日本から遥々来て、このまま帰るわけにはいかねえ。」と、最終審査の場所と時間の情報を友達から聞きつけ、呼ばれてもいないのにその場へ現れ、「日本からきて、どうしても受けたい」とお願いする(←ヤバいヤツ笑)と、さすがアメリカ人そこはオープンで、快く最終審査を受けさせてもらい、そして合格した。そのおかげで、一年間そのコミュニティでの活動を通して、一気に人脈が広がり、同じ時間でも、そこにいなければ出会うはずのなかった様々な人や価値観に触れることができた。
最初自分に興味を持たなかった人たちも、周りに集まってきた。素直にこう思った。「結果を出すと自然と人が集まってくるんだなぁ...」。

英語もろくに話せないのに、生まれて初めて人種も国籍も違う友達に囲まれて一緒に歌った時間は、まじでなんだか「音楽は世界をつなぐ」って感じ。
レストランでのグループランチ中「今からここで歌おうぜ」って店内で突然歌いだしたら店員さんも指笛と拍手~みたいな、「まじで海外ドラマかよ」って異世界やった(笑)↓その時の動画はFBにあげてます。
https://www.facebook.com/100009930516373/videos/166861083654908/
https://www.facebook.com/100009930516373/videos/170002833340733/

あとは、海外の大学生めっちゃ勉強しよる。「週末うちのシェアハウスでパーティするからおいでよ♬」みたいな子たちも平日夜中まで図書館で勉強してる。授業の課題鬼多いしあと教科書高すぎ。食堂まずい。みんな家族めっちゃ大事にする。映画館の中でも拍手とか歓声とかあの"皆で観てる"感じ。全部ぜんぶが見たことなくて新鮮で、楽しくて苦しくて、本当に充実していた。

この1年間での出会い、経験、学びは自分の視野を広げる本当に充実したものであり、一生の宝だ。

画像4

画像5

*ちなみにアメリカではずっとこのキャップ被ってた。目立ちにくい日本人の僕を覚えてもらうため。"That grean cap guy"的な。効果は抜群だった。おしゃれかどうかの話は受け付けません♡

⑪ 【大学3~4年】就職活動

大学3年生夏、交換留学を終えて日本へ帰国すると、同じころにヨーロッパへ留学に行っていたサークルの親友SくんがP&Gジャパンの内定をもらってきたとのことで、話を聞く中でP&Gという会社にとても興味をもった。ウェブサイトを調べると人事職の説明会ワークショップを見つけ、すぐに応募した。そこで出会った社員の、外国人の社員と英語で仕事をしている姿がとてつもなく格好良く見えた。ワークショップの内容も面白く、「あの社員さんのようになりたい」という想いで選考に応募した。3週間のインターンシップと、とても厳しい選考だったが、内定ももらうことができた。強い憧れが自分を奮い立たせ、行動が結果につながった。

⑫ 【大学3~4年】アカペラ全国大会日本一

大学3年生秋、さて日本でのアカペラ活動を再開した。留学で1年間離れている間に、同期や先輩、後輩がどんどんと個人・グループとして力をつけ、活躍していて焦った。自分も活動を再開するも、やっぱりすぐには結果が出なかった。大会でも惜しい所で敗退し、別のグループを組む同期や後輩が勝ち残っていった。やっぱり悔しかった。
残り1年で結果を出すために、いったん目標を『全国大会で日本一になる』とおいてみた。当時全国レベルで活躍するには時間が全然足りず、今からだと無謀だと思われていたかもしれない。だがそんなことは気にならなかった。これまで「こうなりたい」という強い意志をもとに行動を続けて結果を出してきた自分には、根拠のない自信があった。

大学3年生冬、新しくグループ活動を始めることになったが、活動期間が1年で、大会のスケジュールも決まっているので実際はとにかく期間が短い。莫大な経験と時間・仲間の労力を要するオリジナルの編曲を歌うのではなく、海外のプロアカペラグループの編曲をコピーして歌うコピーバンドという戦略を選んだ、というか自分には楽譜を書く能力と経験がなく(というよりその努力を怠ってきたので)それしかなかった。自分が留学中に直接会ったグループだ。アメリカで本家のパフォーマンスを目の当たりにしていたので、ステージの構成イメージはすぐに立てられた。ただそれだけだと、誰でも同じ編曲の演奏ができる上、演奏のクオリティが自分たちよりも遥かに優れている競合グループが全国に五万といたので、それ以上の差別化が必要だった。そこで、”カントリーっぽい洋楽”という珍しいジャンルの曲を選び、アイオワ州仕込みの”田舎っぽい力の抜けた”コンセプトで、メンバーの個性・良さが全面に出るプロモーションビデオを作成した。当時まだPVをつくったりするグループはほとんどなく、この ジャンルxコンセプトxメンバーの個性 の掛け合わせたPV動画が反響を呼び、グループが一機に有名になった。

名前だけが有名になるスピードと上がる周囲の期待値に、グループとしての活動経験・実力が全然間に合わず、本当に有難いと思うと同時に毎日焦っていた。いつもの"期待に応えたい"精神のあまり、「より良いステージのために」を大義名分に、何度も曲を試しては変えを繰り返してメンバーの負担も大きく、今当時を振り返ればブラックベンチャー社長のようだったと思う笑(ほんとごめんねありがとう)。仲間の大きな協力と、頂いたライブ機会での試行錯誤を何度も何度も愚直に重ねた結果、大学4年生の秋、グループ結成8ヵ月でアカペラ全国大会日本一ということになった。

画像6

*このグループでは、特にステージ全体や曲間のMCでメンバーの個性を引き出すのと、聴衆との関係性づくりにとてもとても(とても)拘っていたので、見て頂ける方がもしいらっしゃれば、上の動画内の 3:05~, 8:35~のMCも合わせて是非観て欲しいです!

大学時代はほぼ全てをアカペラに捧げた。正直、ちょっと捧げすぎた。やりたいことは他にも沢山あった。日本一周、世界一周、多種類のバイト経験、、、

それでも、自分が「夢中」になれるものを見つけて取り組めたこの大学生活には悔いはなかった。アカペラをしていなければ出会うことのなかった仲間・友達もたくさんできた。

大会などで結果を出せたのは、記録としては大事だ。だけど何より、何度もぶつかり時にはふざけ、良い時も悪い時も全力で目標に向かって切磋琢磨することでできた、一生の仲間は人生の宝だ。

(そして、同じように先輩の活動に憧れてアカペラを始めた後輩たちが、今の社会状況で思うように活動ができないのが本当に心苦しい。改めて、それまで当たり前にあったものが、どれだけ有難いものだったのかをこうして思い知らされる。苦しい時を一緒に過ごした仲間はそれだけ価値があるから、どうかその大切な関係を続けてまた集まってほしいと願うばかり。)

【社会人】

⑬  【社会人1~3年目】 

充実の学生生活を終え、P&Gジャパン株式会社に人事として入社した。
当時漠然と「グローバルな環境で働きたい」というだけで、将来やりたいことがまだ明確になかった当時、「英語を使って一流の社員と仕事がしてみたい」「やってみないとわからないけど、組織を創る人事の仕事に興味はある」「不安しかないけどとにかく必死に頑張ろう」「社員の成長を重んじる会社だからここにいて間違いはないだろう」などと色々な想いで進路を決めた。
入ってみると、上司はドイツ人、会議やメールは全て英語、憧れの海外出張など、"グローバル企業感"に本当にワクワクした。未知の領域が本当に楽しかった。
わからないことだらけ、しかもその説明をきいても英語がまず速すぎてわからん、でめちゃくちゃきつかったけど、優しくも厳しい先輩のおかげで少しずつ、少しずつできることが増えていった。一年目から役員会議を英語でまとめて提案とかできるようになるとか、学生の時は想像もしていなかった自分になれた。最高のチームと超絶優秀なメンバーに恵まれて、人事組織や担当組織内でも、”CEO(Chief Entertainment Officer)"などと呼ばれ盛り上げキャラのポジションを確立していた。一見とてもうまくいっているようだった。

画像10

*ほんまに好きな写真。皆良い笑顔すぎ。

でも待てよ、何かが物足りない。いつしか求められるものを求められるだけ出していくような仕事をしてしまって日々を過ごすうちに、仕事が面白いと感じられなくなってしまった。仕事には慣れ、できることが増えていく一方で、何かこう、そこに魂が宿らなかった。どう頑張っても情熱が入らなかった。

苦しいことがなく楽をして仕事がしたいわけではない。寧ろ、コツコツとストイックに努力するのが好きだ。問題は、「大変なことがあっても、”これ”のためなら頑張れる。」という"これ"、心の底からワクワクするものが見出せていなかった。

よくよく考えるともしかしたら、今はビジネスにおけるフィールドでプレイヤーとして、チームと共にボールを蹴りシュートを決めて活躍したいと思っている自分にとっての「ありたい姿」と、チームの監督補佐としての役割を担う(と自分が感じてしまっている)組織担当人事のポジションにおいて「期待される自分」にズレがあったのかな。そんな仕事の仕方をしながら持つ葛藤や狭間の中で次第に自分に”ブレ”が出始めた。

でも認めたくなかった。「諦めずにこのまま続ければ、絶対にやりがいを見出せるはずだ」と手を止めなかった。会社に内緒で休日も働いた。それでも心が動かなかった。「自分」をさらけ出す勇気が出ず、小さな「嘘」が重なった。上司がどうだの、環境がどうだの、しょうもないことにばかり目を向け、現状に・自分に言い訳をして正当化しようとしていた。迷いとか、弱い部分を人に見せることがうまくできなくて、いつしか人前に出るのが怖くて、自分から殻を作って塞ぎ込み、コロナも合間って少し鬱っぽく家に閉じこもっていた。振り返ればこの時もっと自分から周りに相談していたら良かったな。

(いやあの、手前味噌ですけどP&Gはほんっっまにいい会社です!!笑 まじで。そりゃあもう大変やけど人を育てられる強い組織で、人格も能力も尊敬できる大好きな同期や同僚が沢山いておまけに待遇も良くて、正直こんないい会社中々ないし興味ある人いたら全力で勧める。これはもう、女優さんとなら誰でも付き合ってうまくいくって訳じゃないのと似てて、本当にフィットなんですよね...石原さとみと付き合いたい...)

「このままじゃだめだ。」そう思っていたときにふと見つけたのが、AKIO BLOGというYoutubeチャンネル。興味をもって動画を観てみると、本業・副業・筋トレ全てを全力でやり、毎日を本気で楽しんで生きている。そんな姿に惹かれ、「自分ももっと全力で日々を生きれるはずだ。こんなもんじゃねぇ」と思った。

そしてコーチングと出会った。コーチとの対話を通して、今までにないほど自分自身と向き合った。これまでの人生でしてきた決断とその裏にある価値観、自分の良い面・変えたい面に本気で対峙した。そして、「本当にやりたいことなの?」コーチの質問で確信した。心のどこかにあるけれど、どこか認めたくなくて、自分を胡麻化して目を背けていたことに真正面から向き合うこの誠実な場を通して、自分は今の仕事に「心の奥底が動いていない」ことを認めることができた

同時に直近で心が動いたことを片っ端から始めてみた。筋トレ・英語学習・やったこともないウクレレ・・・。体重は5か月で6キロ増え、英語は2ヵ月でTOEIC900点相当まで伸び、ウクレレも3ヵ月で人前で演奏できるレベルになった。

画像7

いま

コーチングを通して自分が短期間でみるみる変化していくのをみて、自分が本当にやりたいことが少しずつ見えてきた。

仲間と呼べる存在と共に全力で、

「ありたい自分」の溢れる世界 が創りたい。

今いる自分は、これまでの自分の積み重ねの結果。どの学校を選び、どの会社を選び、どんな友達と仲良くなり、どんな人を好きになり、今日どの服を着てどの道を通り、どの席に座ってどのランチを注文し、、大なり小なり、人生はすべて決断と選択の連続。その選択の結果として起こる出会いや偶然が生まれ、そうやってまた進んでいく。
誰かに決められた”運命”などのようなものはない。出会いや偶然は、そうやって人々がしてきた選択と選択の重なりであって、予定調和のようなものではない。人との出会いひとつとっても、これは一見偶然出会っているように見えて実は、「わたしたちは、自分で選んで出会っているんだよ。」(この台詞はだいぶ前にみた映画『君の膵臓を食べたい』で浜辺美波が言ってたのがなぜか頭に残ってた。可愛かった。)

今いる自分も、自分で選んで創っている。

重要なのは、その選択の連続の中で、どれだけ自分が本当になりたい自分・ありたい自分に従えるか、自分に正直になれるかだ。

「どうせ自分には~」「あの人のせいで~」と可能性に蓋をする選択をするのも自分の自由。でも、本当にそんな自分でいたいんか?

その自分の中の蓋を外してありたい自分の姿を強く認識し、これから起こる決断と選択の連続の中で、周りに流されず自分の意志に基づいて進んでいくことで、「その人にとって本当になりたい自分」に近づけると信じている。その近づいてる感覚にこそ充実感がある。

それは俺の人生が証明してる。

周りからみて一見無謀な・何の脈絡もない、「何でそんなことするの?」「バカじゃないの?」と思われるような行動を続けてきた。

中学を3ヵ月で中退した時も、高校入学後見ず知らずの先輩に声をかけてハモネプ目指した時も、違う大学のサークルに飛び込んだ時も、留学先で一度落ちたオーディションの最終審査に乗り込んだ時も、無謀と思われていた全国優勝を目指した時も…。周りにはきっと「ばかな」「無茶な」行動に見えていただろう。

でも周りが何と言おうと、直感的に心が動いたから・なんとなくワクワクしたから行動に移してきた。そうすると、扉を開いた先にこんな偶然の出会いがあって、思ってもみなかったような展開が生まれ、自分にしかないオリジナルの体験・経験をしてきた。そうやって人生を切り開いてきた。

「努力は必ず報われる!」という根性論を言うつもりはない。もちろん何事も、社会を取り巻くダイナミクスのなかでのトレンドや運はある。大事なのは、「ありたい自分」にどれだけ妥協せずにいられるか。これに従って選んだ道なら、その結果を受け入れて、また進んでいける。「失敗」などは存在しない。挑戦の先にあるのは成功か学び。唯一あるとすれば、失敗は挑戦しないこと。

「人間にとっての成功とはいったい何だろう。自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それで爽やかだ。(『自分の中に毒を持て』 / 岡本太郎)」

「良い人生 悪い人生 俺以外Judgeする権利はねえ(『Good Life』 / 清水翔太)」


「運命」は自分次第で変えられる。

心が変われば行動が変わる。行動が変われば現実が変わる。

これを、これからも自分の人生・挑戦を通して証明し、その生き様を通して世の中の人にも行動・挑戦をする一歩を踏み出す影響を与えていきたい。

この物語はまだ途中。

画像8


おわりに


最後までお読みいただきありがとうございました。多分良いことも悪いこともまだ正しく表現できてる自信はないです。自分の頭の整理のために書き始めたけど、世間に公開するのなら表現に責任が生まれるので、注意を研ぎ澄まして、でも正直に、を念頭に書いてみたつもりです。が、もし読んで不快になられた方がいたらすみません。

何か若造が偉そうに人生を語っておりましたが、自分もまだ何も成し遂げていない未熟者で、この先の人生わからないことだらけです。ここまで考えても結局じゃあ具体レベルで"人生で何がしたいのか"まだ見えてません。。迷うよね、選択肢あればあるほど。そもそも正直、ここまでお話してきたことって、単に今振り返ってみて都合よく"解釈"したものをそれっぽく書いてるだけで、当時はそんな悠々と生きていなかったです。「どうなるかわからんけどとにかく直感が動いたことを必死でやってみる」、それでいいんじゃないかと思います。昨日の自分と今日の自分は違うように人は刻一刻と考え方も感じ方も変わるもの。結局あんまり難しいこと考えずに、その時々にもった直感に妥協せずに生きてられればられるだけ、結果はどうあれ”納得感”をもって進んでいけるのかな?と思ってたりしてます。

直感は人生の集大成。"勝ち"を確定しないと動けない人生はもったいない。これからもたくさん「バカな」挑戦をして"失敗"して恥かいて、を続けていこうと思っています。僕はそんな人を応援したいしされたい。『恥は一瞬、後悔は一生。』喜びも楽しみも苦しみも悲しみも全部ひっくるめて、"豊かな人生"を味いたい。一度しかない人生、最高に苦しくて楽しいよね。

生きよう。

そして何より、ここまで育ててくれた家族・友人・先生・先輩後輩・関わってくれた全ての皆さんのお陰で今の自分がいます。本当に全ての皆さんです。相性がよくなかったり関係がうまくいかなかった人も含めて。普段マイペースでへらへらしてて自分大好きマンで、でもやたらとこだわり強くて死ぬほどストイックで時々それを人にも求めてしまうこともあって、、何かとご迷惑おかけしているかと思いますが、そんな僕と関わってくれて本当にありがとうございます。そしてまだ関われてないひと!関わりましょう!!僕はネット上のどこにでもいますたぶん!これからもこの生き様を通して皆さんにパワーでお返しできたらと思っているので、ひきつづき宜しくお願いします!!明日も天気が良いらしい、さいこ☆


【junkiの応援の仕方/パワーの受け取り方】
①YouTube (挑戦の様子をあげていきたいと思っているので、チャンネル登録お願いします!👇)②SNSのフォローお願いします!

Twitter: https://twitter.com/junkitty0427
Instagram: https://www.instagram.com/junki.y_0427/?hl=ja
Facebook: https://www.facebook.com/junki.yamamoto.739/

画像9





この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
junki
関西在住の歌うま筋トレサラリーマン26歳。『恥は一瞬、後悔は一生』を胸に全力で挑戦を続ける姿を発信します!【仕事】P&G Japan HR【歌】フジテレビ系列番組『青春アカペラ甲子園全国ハモネプリーグ11』全国ベスト4, アカペラ全国大会『JAM2017』にて日本一