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JUNK NOVEL PROJECT vol.1 「キズナ」

このプロジェクトは、映画監督二宮健が、毎回出されたお題をタイトルとして、短編小説に挑戦する企画です。初回のお題は「キズナ」。

お題については、Radio JUNK LOUNGE vol.1で話しております。

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「キズナ」

とくっ、とくっ。これは、脈の音色。

とくっ、とくっ。私の心に投影されているにも関わらず、私に心当たりがないある残像について話そうと思う。

とくっ、とくっ…
とくっ、とくっ…。

カーテンがなびく、窓の先の夕焼け空。バルコニーで、長身の美しい女性が佇んでいる、儚げな後ろ姿。
頬に涙がつたっている彼女の手先に握る写真は、すでに燃えている。もう片方の彼女の手には、青色の半透明、つまりどこにでもあるようなライターがぶら下がっている。燃やされている写真には、彼女と誰かが写っている。しかし、その誰かはすでに灰となり、一体誰なのか、私にはわからない。

そもそも、彼女が誰なのか私は知らない。


×  ×  ×

私は、先天性心疾患があり、弱い体で生まれてきた。思うように動けなかった。その反動なのか、馬と一体になり走り抜けるジョッキーの姿に胸をときめかした。もし、あのジョッキーのように走り抜けられたら、私の身体を強靭につなぎとめる、いくつもの見えざる綱から、私はどれだけ解放されるだろうか、と思い耽けていた

しかし、馬と走るにも、頑丈な身体が必要なことをほどなくして知り、私はその憧れをかなぐり捨てた。そして、馬と共に地平線を自由に駆け巡る自分の姿をただただ夢想した。私にとって想像の中は、絶対に自由が侵されない聖域で、そこが救いの場所になっていた。

時は経ち、ドナーの心臓で生きることになった私は、ときにマラソンに勤しむほど健康な身体を手に入れた。しかし、それと引き換えに飲み続けることになった免疫抑制薬の副作用は、私を細菌に感染しやすい身体にさせ、私が馬と共に走り抜く人生は、それでも始まらなかった。

 だけど、私は以前より幸せになった。身体の自由は、その時の私にとって、心の自由より鮮やかで尊いものに感じられた。大きな手術に臨むことは、簡単に下せる決断ではなかったが、この自由を手に入れた今、私は自分の決断に心から満足していた。


×  ×  ×

 写真を燃やす長身の女性。この幻影が私の心に映し出されるようになったのは、それから間もない頃だった。はじめはフラッシュバックのように過るだけで、気に留めるまでもない、僅かな違和感だった。しかし、やがてその頻度は増えていき、女性の姿が際限なく心に現れるようになった。私は、原因を探るために自問自答を繰り返したが、何も思い当たることがなく、路頭に迷ってしまった。

 「セルメモリー」この概念に私が出会うまで、そう多くの時間はかからなかった。記憶というのは脳だけではなく、細胞にも宿るのではないか、という仮説だ。過去に、10歳の男児から心臓を提供された8歳の少女が悪夢にうなされるようになり、夢の中に現れる知らない男性の似顔絵を描いたことが、男児を殺害した犯人につながったこともある。

 すなわち、写真を燃やす長身の女性の記憶は、私が移植された心臓のドナーのものかもしれない。そう思った瞬間、感じたことのないほどおぞましい寒気が、私の背中を走り抜けた。発火するほどの電流を背中に感じた。正直、私の潜在意識の不具合が作り出した幻影だったなら、まだ自分の中で処理できた。だが、完全なる他者の記憶が、私の内側に入り込み、私を侵食しようとしているなら、到底冷静ではいられない。家に他人のものが転がり込めば、窓から放り投げれば解決だろう。しかし、未知の寄生虫を体内に植え付けられた人の絶望の対処の仕方を、誰が知っているというのだろう。

 出てくるな、出てくるな、そう思えば、彼女は必ず出てくる。それは、眠れ、眠れ、と案じるほど、その理性が心を覚醒させるストレスに近い。しかし、それはいつか明ける夜と違って、永遠に続く。私は、彼女の幻影を恐れ、嫌悪した。そして、嫌悪すれば嫌悪するほど、その存在は肥大化していく。どうしようもないことは、そうと判明すれば永遠に前進しない。彼女の幻影は他人の記憶であり、それは永遠に私から取り出すことが出来ない。その事実はもう変わらない。得体の知れない恐怖が、私の心を確実に蝕んでいく…。

「何かに恐怖しているなら、その何かを刮目し、知り尽くし、正体を暴くしかない。そうすれば、その恐怖は消えてなくなるはずだ。それしかない」

 幻影の恐怖に衰弱し、すっかり顔色が悪くなった私を心配した数少ない友人のひとりが、必死に私にそう語りかけた。彼は、つまるところドナーのことを知ることが解決に繋がると言った。しかし、プライバシー保護のため、ドナー個人を特定する情報は一切教えてもらえないことを私は知っていた。それでも解決策はあるのかと私は彼に期待したが、八方塞がりだと感じた途端、彼は得意げな顔を封印し、「そうか。だったら、今の状況を受け入れるしかないな…」と、当事者の苦しみに一切寄り添わない常套句を吐き捨て、私から撤退した。


×  ×  ×

「お探しの人が見つかりました」

 私が雇った探偵が、大きな茶封筒を持ちながら、私にそう告げたのは、それからしばらく後の話だった。探偵は、私が心臓移植の手術を受けた当時の状況、その時の死亡者のデータなど、調べられる限りの情報を頼りに調査をしたと言う。最終的には、私の心を蝕む女性の幻影を描いた絵が決め手になった。その人の死亡当時住んでいた家の間取り、窓越しの夕焼けも一致した。

「その人の顔を見せてください」

 突発的にそう言った自分に、私は驚いた。私には、ずっとこの記憶の持ち主の顔が見たいという潜在的な欲望があったらしい

「顔…ですか?」
「はい、お願いします」

 探偵は、茶封筒から一枚の写真を取り出し、私に見せた。

 そこに写っていたのは、不器量な顔をした男だった。私は写真を見た瞬間、心が激しく揺れるのを感じた。はっきりと自分でも感じるほど大きな揺さぶりだった。しかし、それは不器量な彼の顔の造形に感じたものではない。その彼の笑顔から滲み出る素朴さと、隠しきれない何かへの切実さが、大きな波動になって、私の心に迫ってきたのだ。

意外だった。私は、とても端正な容姿の人間を、勝手に想像していたのだ。不覚にも、彼の印象を、勝手に決めつけていた。それは、写真を燃やす女性の幻影が、私の視座では到底描き出せないほど、あまりに洗練されていたからかもしれない。

 一枚の写真から、彼について断定できることなど何もないはずだ。だからそれは、ここに至っても尚、私の中で勝手に決めつけてしまった感動だった。しかしその時すでに、私の中で膨大に積み上げられた嫌悪が融解し始めているのを感じた。嫌悪を通り越し、彼から譲り受けたその光景に、強烈な愛着すら感じ始めていた。

「彼についてですが…」

探偵が説明を続けようとしたところ、私は制止した。

「もう大丈夫です」
「え?」
「すいません、でももう満足しました」

私はそう言い、手際よく事務所を後にした。

帰りの道中、写真を燃やす長身の女性の姿を心に浮かべながら、彼女を見つめていた彼のことを考えた。彼女の姿は、あの不器量な男の細胞に残るほど、大きな記憶になった。彼は悲しかったのか、切なかったのか、愛くるしかったのか。涙を浮かべ、写真を燃やす彼女の美しさに、不覚にも惚れ直してしまったのか。そして、彼は最期のとき、彼の抱える切実さから脱却出来たのか、それとも切実さに埋もれてしまったのか。それは、私には分からないし、彼の身に起きたいくつもの可能性を思い浮かべても、それ以上詮索する気はもうなかった。いずれにしても、写真を燃やす長身の女性の光景は、ずっと同じだが、窓の先の夕焼け空は、これまでで一番鮮やかに感じられた。


とくっ、とくっ…。

私の脈の音色と共に、彼の情景は私の中で生き続ける。

これからも…。

とくっ、とくっ…。

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