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JUNK NOVEL PROJECT vol.2 「ギャンブル」

このプロジェクトは、映画監督二宮健が、毎回出されたお題をタイトルとして、短編小説に挑戦する企画です。今回のお題は「ギャンブル」。

お題については、Radio JUNK LOUNGE vol.2で話しております。

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「ギャンブル」


 気づけば、窓から朝陽が差し込んでいる。シンジの体は微妙に汗ばみ、シャツと肌の粘着が緩やかに進行している。判断力は鈍っているのだろうが、それを冷静に自覚するための判断力すら今の彼には残っていない。しかも、目は霞みはじめていて、夜を跨いで凝視し続けているトランプカード、札束、テーブル、そしてサカキの鬼のような顔面の4点セットは、シンジに映る世界の中で均衡を保っている意味が分からなくなっている。視界のゲシュタルト崩壊をせき止めることで精一杯だったのに、差し込んできた朝陽の眩しさがあまりに暴力的で、平然を装い続けるには、もう限界が近い…。

 ギャンブルを勤しむ者にとって、こんな朝はざらにあるはずだが、朝が来てもまだ終わらないこの戦いが、シンジにとって、とても特別であることにはいくつかの理由があった。まずシンジは、どうしてもサカキに勝ちたかった。サカキという言わずと知れたポーカープレイヤーの大物に勝利することは、シンジが自分に誇りを持って生きていける寿命を十分に延長させることを意味していた。来週二十代と決別するシンジにとって、自分が存在している実感、効力、それらを充足させるのは必須科目で、これを逃すといよいよ人生の迷子になる。この荒んだ気持ちで生活を繰り返すことへの忍耐は、もう心の財布に残っていない。自分はこの街に憑いた亡霊などではないはずだ。だから、それを確かめたい。

 シンジは思い耽る。勝利した暁には、その大金をポケットいっぱいに詰め込んで、その足で、加奈子に会いに行こう。俺はもう大丈夫だよ、ってきざに煙草をふかしてやろう。余裕ぶった言動で粋に決める自分に、加奈子は今でも惚れ込んでいるはず。俺に足りなかったのは、余裕そのものだけだ。シンジが借金を作る度に、加奈子が売り払った洋服と小物の数々。あのお気に入りだったスパンコールの化粧ポーチだけでも絶対見つけ出して、彼女に贈りたい。

 しかし、この戦いの勝敗がその逆となれば、目も当てられない事態になることを、シンジは分かっていた。取り囲むギャラリーたちは、この戦いをこう結論付けるだろう。高飛車な若造が大物に食って掛かり、当然の如くボコボコにされた、それだけ。月が顔を出す度、地球のどこかで起こっている、ごくありふれた詩情豊かな点景だ。その夜の彼らの酒のアテにはなるが、同じ曜日が再訪するころには綺麗さっぱり忘れられる。誰の悪意もないのに歴史から抹消される、これ以上に無力なことがあるだろうか。その時は、今この瞬間もコインロッカーに入れて死守している五千円札を握りしめ、一番安い夜行バスに乗って田舎に帰ろう。一目散で逃げ去ってやるんだ。未練に苛まれる前に。加奈子に格好悪い姿を見せたままこの街から退場するのは悔いが残るが、田舎に帰れば連絡したい女の顔も二、三人思い浮かんでいる。

 試合を熱心に見入っていたギャラリーの男が気を利かして、カーテンを閉める。抜群の遮光性が、またシンジの世界を夜に戻した。これで明けない夜が始まり、勝負が終わる頃には、矛盾を抱えた時差ボケのようなものに体当たりすることが確定する。しかし、新たな夜の出現により、シンジは、襲われ続けていた睡魔に打ち勝ち、峠を一度越えたような万能感を手に入れた。目が冴え始める。人は、便意の峠を三度乗り越えることが出来るらしいが、睡魔の峠は何度越えることが出来るのだろう。こんな邪念が頭に過るのも、元気が戻った証拠だ。

 人生の開始を告げるゴングを事あるごとに鳴らしては、その記憶を消してきたシンジの今の見解は、「記憶から消えてしまうゴングなど、ただの誤作動だ」ということ。しかし今こそ、誤作動ではない、本当のゴングを鳴らしてもいい時ではないだろうか。シンジに疲れが溜まっているということは、シンジの三倍近く消息した跡が見受けられる目の前のサカキは、もっと疲労しているはず。“百戦錬磨”がサカキの切り札なら、シンジにはサカキには太刀打ち出来ない“若さ”というカードがある。

 そう、シンジは知っていた。運命を司る勝利の女神の大好物は、根拠のない自信だということを。歴史を作ってきたのは、若者の無謀な挑戦の数々だ。この一戦も決して例外ではない。思考の調子を取り戻してきたシンジは、ついでにお得意の大いなる自信の取り寄せにも成功していた。シンジの心のマップで、無数のUber mental(ウーバーメンタル)が、健気にチャリンコを爆走させている。メキメキと循環する血流が与えてくれる活力! 何をしたって表情を変えないサカキは、まさに真のポーカーフェイスとして語り継がれており、シンジも例に漏れずこの瞬間まで彼を恐れていたが、よく考えればそんなのは、その辺の地蔵と同じようなものではないか。今、サカキが自信満々だろうが、究極にビビっていようが、その表情は結局変わらない。なら、シンジは自問自答するしかない。「俺は大丈夫か?」無数のウーバーメンタルが、揺るぎない答えを秒速で配達してくれる。

“シンジ、お前は大丈夫だ!”

シンジは、覚悟を決めて、ナイフのような強い眼差しでサカキの心を突き刺し、言葉を放つ。

「レイズ!」

×  ×  ×

 1時間後。シンジは、カラスが主導権を握る早朝の繁華街に、五千円札と借用書を握りしめて立っていた。ゲームセンターの裏の路地裏で、スーパーボウルを地面に叩きつけて喜んでいるカラスを見つめ、どんな一日のはじめも、街の主役は彼らから始まっていることを、シンジは今日という日まで見落としていたことを知る。手持ちのお金で田舎に帰るには、深夜のバスまで待たなくてはいけない。想定より早く試合が終了してしまい、長い待ち時間と邂逅することになったが、何年も住み着いたこの街と別れを告げるための必要な時間かもしれないと、シンジは受け入れた。

 早朝に見る雑居ビルは、どうしてこうも情けないのだろう。どんなビルも夜になると妖艶なのは、キャッチより悪質な詐欺ではなかろうか。この落差は、同じものを見つめているにもかかわらず、書き割りの裏と表を見てしまう落胆に匹敵する。

 “勝利の女神のセンスの悪さを、再確認した” シンジの今のムードを簡潔に話すなら、こんな具合だった。過去にも同じ気持ちになったことは何度もある。最初の記憶は、中学サッカー部の県大会決勝戦の時、ディフェンスのシンジは、ゴール前でボールを豪快にブロックしたら、まさかのオウンゴールを決めてしまい、それが敗北の決め手になってしまった。しかし、高校に入学し、友達に連れられ、初めて行ったスロットで、皆が驚くほど壮快なビギナーズラックを決め、女神を赦す寛大な心も学んだ。シンジは、初めて自分が受け入れられたような気がした。

 そしてそれから十五年経った二十代最後の月曜日の朝、再び彼女に失望することになった。彼女は、加奈子より気まぐれで、加奈子より要求が多くて、加奈子より意地が悪い。ただ、ある一点に関しては、加奈子に勝っていた。彼女は、加奈子より色気があったのだ。とはいえ、自分はその魅力のためだけに、大切なものを精査する眼差しの方角を誤ったのかもしれない。こんな自問自答は嫌いなはずなのに、今朝はその行為を、抗えない自分の責務として捉えていた。加奈子と初めて出会った焼き鳥屋をついさっき通り過ぎた偶然も、理由のひとつだ。

 無我夢中で街を散策し、気づけば何時間も過ぎていた。小腹が空いたので、何度も通った立ち食いそばで、270円の出費を容認した。最後の一杯を堪能した。いつもより出汁がしょっぱかったのは、自家製栽培スパイス大粒涙が数滴、器の中に迷い込んだのが原因だろう。一枚の札に収まっていた全財産は、それぞれの形に分解され、総額は少々減ったが、それでもまだ予定していたチケットを買うことは出来る。シンジはこれ以上お金を使ってしまうことを恐れ、方角を深夜バスのチケット販売所に向けた。買ってしまえば後は夜まで耐え凌ぐだけだ。

 歩いていくうちに、自分の歩幅が小さくなっていて、スピードがどんどん落ちていることに気づいた。シンジは、何か自分の心の声に気づけていないことでもあるのかと胸に手をあて問い直す。加奈子の思い出にいくら浸っても、もうこんな姿で会いにいくつもりはないというのに。その瞬間、断片のような轟音が鳴った。シンジは足を止める。断続的な轟音と冷気がシンジに接触してくるのを感じる。馴染みの深い感覚、それは細胞に刻み込まれた宿命のような深さ。これは幻聴ではない。シンジは心の迷宮から脱出し、やっと目が覚めた。

×  ×  ×

 そう、シンジは知っていた。運命を司る勝利の女神の大好物は、決して諦めないことだ。並の人間が尻尾巻いて逃げる絶体絶命の危機にこそ、逆転ホームランのチャンスが潜伏している。一歩下がれば、崖から落ちるような状況でも決して動じず、自分を信じて挑む者にのみ、女神は微笑む。シンジは彼女を愛し足りてなかった。半端な愛情で見返りを求めてしまっていた自分の未熟さを恨んだ。でも、もう怖くない。手元にあるのは、4730円。この金額の先が、例えば12兆円に繋がっていることを、誰が完全否定出来るのだろう。シンジは、威風堂々と席に座る。持ち金は、紙幣投入口に惜しみなくプレゼントしよう。人生の開始を告げるゴングは、きっとこの光沢を帯びたハンドルだ。シンジは、ハンドルを力強く握り、ゆっくりと右へひねった。

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