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修身教授録 森信三著

第1講 学年始めの挨拶
今日からいよいよ先生の講義が始まるというので、極度に緊張して待っていた。すると先生は、鐘が鳴ってしばらくすると静かにドアを開け、後ろを向いてドアを閉められた後、おもむろに教壇に上がって丁寧に我々に礼をされた。そして時計と万年筆と教卓の上に置かれて、ゆっくりと出席簿の名前を呼ばれたが、すべてが実に静かである。

師弟関係

色々な人と人との関係においても特に師弟関係というものは一種独特の関係であってそこには何ら利害の打算というものがない訳です。実際世に師弟の関係ほどある意味で純粋な間柄はないとも言えましょう。
仮に叱ったり叱られたりした場合でもそれは全然利害打算の観念を離れたものです。否、利害打算の観念を離れていればこそ、叱るべき時にはよく叱ることができ、また褒めるにも心から褒めることができる訳です。また叱られる方としても、それを最もとして受け取ることができ、また褒められたとしても、心からそれを嬉しく感じる訳であります。

現実の必然

ところが、我々はここに、縁あってこれから一年間を共に学ぶことになったわけですが、これはもちろん、諸君らの希望のによるところでもなければ、また私の方から申し出たことでもなく、すべては学校という一つの大きな組織の上から決まった事柄であります。
ですから、これを裏から言えば、学校全体の上から見て、こうなるのが、一番都合が良いというので、かくは決められたわけです。すなわちこれを一言にして「現実の必然」によるものと言ってよいでしょう。

われわれ人間というものは、すべて自分に対して必然的に与えられた事柄については、そこに好悪の感情交えないで、素直にこれを受け入れるところに、心の根本態度が確立すると思うのであります。否、われわれは、かく自己に対して必然的に与えられた事柄については、ひとり好悪の感情をもって対しえないのみか、さらに一歩を進めて、これを「天命」として謹んでお受けをするということが大切だと思うのです。同時に、かくして初めてわれわれは、真に絶対的態度に立つことができると思うのです。

たとえば親が病気になったとか、あるいは家が破産して願望の上級学校へ行けなくなったとか、あるいはまた親が亡くなって、本校を終えることさえ困難になったとか、その外いかなる場合においても、おおよそ我が身にふりかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けをするということが、我々にとっては最善の人生態度と思うわけです。ですからこの根本の一点に心腰が座らない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。したがってここにわれわれの修養の根本目標があると共に、また、真の人間生活は、ここからして出発すると考えているのです。

S君は「先生は僕らの組を受け持つことは、天の命だと思うと言われましたが、僕にはどうもそういうふうには信じられませんが」といった。すると先生はニコリとせられて「それはそうでしょうよ。諸君らは若くてまだ人生の苦労というものをしていないんですからネ。私がああ言ったのは、主として私自身の気持ちを申したのですから、若い諸君たちにそう信じられなくたってかまわんですよ。ただネ、そう信じられる人と、信じられない人との人生の生き方が、将来どう違ってくるかということだけは考えてみてください」と言われて、先生微笑みのまま礼をして、静かに教室から出ていかれた。


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