ダビデのアイデンティティ

きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
サムエル記上 17:46

ダビデの勝利宣言です。イスラエルを脅かすために敵がちらつかせていたもので戦いに終止符を打たなければならないという預言的な洞察をダビデは得ていました。ゴリアテに向かって走り出す前に、ダビデはまずゴリアテが放った否定的な預言的な言葉に対抗して反対意見を宣言する必要がありました。

神の言葉を宣言する時、領域の雰囲気がシフトし、悪魔の力が押し返され、その状況に天の軍勢を迎え入れます。ダビデは、ゴリアテが叫んだことの一つ一つのポイントに反撃して宣言しました。敵と実戦に臨む前に、私たちは言葉の戦いに勝利しなければなりません。戦う前にまず結果を宣言しなければなりません。神は「後のことを初めから告げる方(イザヤ46:10)」です。私たちはそこに学ばなければなりません。

ダビデはイスラエルとペリシテ人がイスラエルの神がおられることを忘れてしまっていると気づきました。ダビデは石投げが得意でしたが、小石を命中させたのは神です。ダビデは、主の勝利を宣言することで不信仰と恐れの霊を砕きました。ダビデは、軍全体のフォーカスを主へと向けさせたのでした。ダビデはゴリアテに宣言することをスタートにして、ペリシテ人も敗北の運命にあることを告げました。ダビデはゴリアテを倒す前からゴリアテを超えた次の勝利を見据えていたのでした。

宣言したことが実際に成し遂げられるのを見るまで彼らは皆、ダビデが言ったことを実行できるとは信じていませんでした。ゴリアテが地に倒れた時、イスラエルは信仰で奮い立ち、ペリシテ人は恐れて逃げ出しました。恐れはイスラエルから立ち去り、彼らはペリシテ陣に攻め入りました。一つの大きな勝利が両サイドの考えを変えてしまうことができるのです。

ダビデが言った最後の言葉に注目してください。「この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」ダビデは、彼の宣言でイスラエル全体を勝利のムードへと変えました。ダビデは、イスラエル軍が戦いに出ていけるよう、信仰の場所を造りました。私たちの大きな勝利は、恐れて隠れていた他の人々を信仰の戦いへと回復させるのです。

ゴリアテは「叫ぶ者」という意味があります。不信仰は私たちに叫びます。もし自信のなさがダビデの心に居座っていたなら、不信仰の叫びが彼の恐れとくっついてダビデは途中で任務を放棄してしまったことでしょう。ゴリアテはダビデを忌み嫌っていました。ゴリアテは、杖を持った少年が彼の対戦相手として選ばれたことに憤慨しました。「おれは犬か?」プライドと激情がゴリアテを簡単に罠に落としめてしまいました。

ゴリアテは、まさか次期イスラエルの王と対面しているとは知りませんでした。ダビデは動かされない信仰を持っていました。ダビデがゴリアテの侮辱に返答しなかったのは、ダビデのアイデンティティーは神のうちに確立されていたからです。自分の能力を証明しなければと感じているなら、それはまだ自分を知る旅路の途中です。

不信仰はいつでも勝利の直前に一番大きな声で叫びます。不信仰の声は、私たち自身と自分の力に焦点を当てさせ、最も否定的な側面を見せてきます。その声は、問題がいかに途方もなく大きいかを叫びます。不信仰は人生に対して肉的な見解を持っていて、ともすると聞こえの良い助言のようで、道理にかなっているようにさえ聞こえます。

不信仰は欺くものです。真理が嘘を砕きます。啓示(聖霊によって油注がれた真理)によって欺き(悪霊によって油注がれた嘘)が解体されます。欺きは嘘によるのですが、嘘とは性質は違います。嘘をつくのは、単に真理を語らないことです。欺きは嘘を真理だと信じることです。欺かれていると自分では気づきません。嘘をついているならば、真理を隠していることは自分で認識できています。

ゴリアテに宣告を下し、地上での天の勝利に関する彼の理解を表現していた時、ダビデのうちで何かがシフトしました。「今日、主はおまえを私の手に渡される」神の御手はダビデをゴリアテから解放してくださるとダビデは知っていましたが、同時に神はゴリアテをダビデの手の中に渡されることも知っていました。つまり、神はダビデを通して事を成してくださる事を、彼は理解していたのでした。

私たちの内に住んでおられるキリストが、すべての栄光の希望であり、この地上で私たちが経験するすべての勝利の源です。神は私たちを通して働かれ、また私たちを助けて下さることを理解しなければなりません。

ダビデのアイデンティティーは、神と境目がないかのようにつながっていました。私たちのアイデンティティーも、神が私たちを通して働かれるのを見ていくために、父のアイデンティティーにさらに近づいていかなければなのません。ダビデは神が勝利の源であることを何度も何度も強調しました。そして最後に、自分自身とイスラエル軍について語りました。私たちのアイデンティティーを取り戻すためには、不信の霊を克服しなければなりません。アイデンティティーについての戦いに比べれば、ゴリアテは小さい者です。

神を求めることが私たちの人生の最高の願いであるなら、神が私たちに用意している供給と影響の好意は、神のタイミングで必ずやってきます。自分の領域で、私たちの人生にある神の召しを成し遂げる為に必要なものはすべて備えられます。私たちが受けた物ゆえに感謝しているだけならまだ神の子として生きているとは言えません。自信の無さに囚われて生きている一人の孤児のように、誰を持っているかではなくて何を持っているかで自分の価値を証明しようとしています。

わたしたちの心が神に完全に向けられている時は、所有物、特権、プライドの世界にはなかなか引きずり込まれません。しかし私たちが祝福を長いこと見つめ過ぎていると、それらが簡単に偶像に変わってしまいます。敵は神の最善を盗もうとするので私たちの心をしっかりと見張っていなければなりません。

ダビデは、イスラエルの王として彼のアイデンティティーが立された後に、罪を犯してしまいました。路の中で立ちはだかる敵より、成功の方が舵取りするのが難しいのです。力の特権がむ官能的な状況での高潔さを試す一つのテストにダビデは合格できませんでした。

ゴリアテの方がバテシェバの戦いより簡単でした。しかしダビデは神の心について他のほとんどの人が理解できないあることを理解していました。それはダビデが神に赦されたいとう以上に神はダビデを赦したいと思っていたことです。ナタンに詰め寄られた時、ダビデは自ら悔い改めに転機しました。ダビデは確かに神の心に叶う者でした。

「自分で問題に対処できる」と自信を持ちすぎると、私たちの独立独歩が神の目から見て問題になり得ます。そのような状況では、神の知恵を求めていないし、神に語ってくださいと願ってもいません。誰に頼らなくても自分で全て賄えるようになることはプライドと反抗の実です。神の声を聞くことはどんな時でも神が必要だと認識していることになり、人生のすべての場面で神が関わって下さることを個人的に理解していることになります。自分でできると思ったとしても語って下さる主を待ち望むことは、神に大きな喜びをもたらします。この点でサウル王はすべてを失ってしまったのでした。

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