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ローデン准教授の歴史への挑戦 3.幕 末

(ローデンの、幕末の江戸の見物や蘭学者と娘のお慶との日々)

 次の日大家は、仕事があると言って帰って行った。
 順斎は、江戸見物の小遣いとして少しで悪いと言いながら小判を一枚手渡した。
 ローデンは、タイムスリップの時に着ていたジーンズ姿に戻っていた。カウボーイハットをかぶれば、立派なカウボーイに見えたことだろう。しかし、当時日本に来ていた外国人は、役人や商人それに軍人ぐらいだったので、そんな格好はしていなかった。
 江戸の人々には、異様に映ったことだろう。それだけではなく、町人が外国人を案内し、ローデンと肩を並べるようにして袴を履いた女性の組み合わせはやけに目立った。三人は、人目を気にも留めず歩いていた。
「お慶さん。何処まで行くんですか?」
 ローデンは、自分の体力がないことを知って尋ねた。当分歩くと言われれば、少し休みたい気分になった。
「三井の両替商に行って、両替をしてからゆっくりと見物しましょう」
 ローデンは三井の両替商と聞いて、三井住友銀行の前身だと分かった。小判は、そのままでは使えないことを思い出した。が、三井と言っても、この時代両替商が何処にあるのかも知らなかったので、「お慶さん、元気がいいな。足手まといになるのは、私のほうみたいだ」と、弱音を吐いた。
「どうしました?」
 お慶は、心配そうな顔でローデンを見た。
「いつも車に乗っているので、歩くのは苦手でね。どこかで休んでいきませんか?」
 ローデンは、自分がいつも車で行動していることを思い知らされた。そうだった。江戸時代は、歩いていたんだ。あとは、籠か馬、船ぐらいしか交通手段がなかった。まして縄文時代となると、籠や馬も期待できないだろう。
道だって、こんなまともな道はない筈だ。そんな俺が、縄文時代に行こうだなんて身の程知らずもいいとこだ。
「昨日言われていた、乗り物ですか?」
「はい。車にいつも乗っていたので、歩くのは苦手です」
 ローデンは、ハンカチで顔の汗を拭きながら答えた。
「困りましたね」
 お慶は、立ち止まって辺りを見回してみた。辺りには、茶屋はもとより、店や休めるところは見つからず、「もう少し歩かないと、無いようです」と、ローデンを気遣いながら言った。
「いいものが、ありやす」
 留吉は、そう言うなり、「カゴ屋! こっちだ!」と、たまたま通りかかったカゴ屋を呼んだ。
 カゴ屋に気が付いたお慶は、ほっと胸を撫で下ろしたが、ローデンはカゴ屋の二人の男を見てぞっとなった。一人は、ひょろ長くもう一人は、太っているものの背が低く自分を乗せられるのか心配になった。
 カゴ屋は、誰かを送った後の空カゴのようで、カゴを地面に置くと手もみをしながら、「へい。お嬢さま、どうぞ」と、嬉しそうな顔で声を掛けた。ローデンが日本人でないことに気が付くと、少し後ずさりした。
 それを見ていたお慶は、「心配いりません。横浜の知り合いから、お預かりした異人の方ですから、あなた方を食べたりしません」と、少し茶目っ気をだした。
「そうですかい?」
 背の高いやせぎすの男は、お慶と一緒にいる留吉を見て少し安心したようだ。まだ食われていない。が、怪訝そうな顔になった。それも、無理はない事だった。当時外国人が、供も付けずに女性と町人と江戸の町を歩いているのは彼らにしても信じられないことであったが、男は気を取り直して、「お嬢様どうぞ」と、お慶に言葉をかけた。
「私ではありません。こちらの、異人の方をお願いします」
 お慶の言葉に、背の高いやせぎすの男は、ローデンをまざまざと見ながら、「お嬢様ならいざ知らず、異人さんじゃなあ」と、後ろに控えている相棒に向かって言った。
「そう。そう。こんな図体のでかいお人は、ちょっと」
 背の低い相棒も、困った顔をした。もちろん、彼にしても異人が日本語を話すことは夢にも思わなかったであろう。
 ローデンは、ここで日本語を話せばまずい事になりかねないと思い、黙って成り行きを窺うことにした。もしかすると、カゴ賃を吊り上げようとしているのかも知れない。
「分かりました。カゴ賃は弾みますから」
 お慶は、納得しているのか自分からカゴ賃を上げることを申し出た。
「どうする? きょうでえ」
 背の低い男は、相棒に尋ねた。
「お困りのようだ。ようがす。乗ってってくんねえ」
 背の高いやせぎすの男は、笑顔でカゴを開けた。
 ローデンは、戸惑った顔になり、お慶の耳元で、「大丈夫ですか?」と、囁いた。
 お慶は、「心配いりません」と、囁き返した。
 ローデンは、半信半疑ながらお慶を信じることにした。

 窮屈な格好でカゴに乗ったローデンは、思った以上にしっかりとしたカゴとカゴかきの体力に驚いた。十分以上かごに揺られているのにカゴかきは、疲れた様子を見せない。ローデンは、改めて現代人の体力のなさを思い知らされた。
 ローデンは、カゴに揺られながらも江戸時代の貨幣制度の面倒くささを思い出した。
 物によって、金貨や銀貨。それに銅貨を使い分ける。外貨のように一定ではなかったはずだ。まあ。外貨を両替する店があると思えばいい。よっぽどのことがない限り小判は使えない。
 両替商に着く頃には、ローデンの足の疲れも少し良くなっていた。が、今度は、腰が痛くなってきたので、両替商に着いてカゴから出ると、腰の痛みを和らげるように背伸びをした。
「ここで両替する間、少し休ませてもらいましょう」
 お慶は、ローデンを気遣って先に暖簾を潜って両替所に入って行こうとした。
「あっしらの、カゴ賃も忘れないでくださいよ」
 背の高いやせぎすの男は、お慶の後姿に声を掛けた。
「分かっています」
 お慶は、カゴ屋に振り向いて答えた。
 お慶は、暖簾をくぐり、その後に、留吉が続いた。最後に残されたローデンは、物珍しそうにカゴを覗き込んでから、ゆっくりと暖簾をくぐった。その時に、これから手にするであろう法外なカゴ賃で、店じまいをして酒を飲もうという駕篭かきの会話が聞こえてきた。
 両替を済ませて表に出てカゴ賃を払うと、カゴかきは、ニヤニヤしながらカゴ賃を受け取って空のカゴを担いで何処かに去っていった。
「ローデン様。少しは、疲れがとれましたか?」
 お慶は、ローデンを気遣って言葉をかけた。
「はい。おかげ様で」
 ローデンは、にこやかに答えた。
「それは、良かった。でも、あまり遠くには行けそうもありませんね」
 お慶は、困った顔をして、「留吉さん。このあたりで、面白いところをご存知ありませんか?」と、留吉に助けを求めた。
「ありやすとも。近くに、手妻(手品)の小屋が掛かってます。そこで手妻を見て、昼にうなぎを食って、お寺にお参りするってのはどうです?」
 留吉の提案にお慶は、「いいわね。でも、何でうなぎなのですか?」と、戸惑った顔になった。
「こんな事でもなきゃ、鰻なんか食えねえでしょう。それに、お銚子の一本もあれば文句なしだ」
「正直なお方。私も、ご無沙汰しているから」
 お慶もまんざらでない顔をして、「ローデン様は、うなぎはお食べになりますか?」
 お慶は、ローデンに向き直って尋ねた。
「何なら、料亭でもいいですよ」
 留吉は、奢りで食べられるとあって能天気に尋ねた。
「あんまり、気を使わないで下さい」
 ローデンは、そう言ってから、「うなぎは好きです」と、答えた。
「じゃあ、決まりですね」
 お慶は、笑顔になって、「そうですね。お二人のために、お銚子も付けましょう」と、付け加えた。
「そうこなくっちゃ。じゃ、おいらが案内しやすんで、先ずは、手妻から」
 留吉は、嬉しそうな顔で先頭に立って歩き始めた。お慶とローデンは、互いに見合わせて笑った後に留吉の後について歩き始めた。小屋は、十分ほど歩いた小さな寺の境内にあった。

 留吉とお慶の二人は、子供のようにはしゃいで、手妻と呼ばれる昔の手品を見ていた。内容は、ローデンにも解るような子供だましから、素朴だがローデンが驚くような手品まであって、久しぶりにローデンは楽しむことができた。ローデンも知らないうちに子供のようにはしゃぎだした。
「どうです? お楽しみいただけましたか?」
 お慶は、手妻が終わってから、心配になったのかローデンに尋ねた。
「はい。いつもは、忙しくて生を見るのは久しぶりです」
「なま? どういう意味でしょうか?」
「つまり、未来は、劇場。いや、芝居小屋に行かなくても、家で芝居を見ることができるのです」
 ローデンは、お慶たちに分かるようにつっかえながら言葉を変えてテレビのことを知ってもらおうと思った。
「まあ。お家で!」
 お慶は、目を丸くして驚いた。
「すげえ。それじゃ、芝居小屋は、あがったりだ」
 留吉も驚いていた。
「もちろん、ただじゃなくて、芝居小屋にお金が入りますから」
 ローデンは、留吉のために簡単に説明したが、実物を見ても理解できるとは限らない。言葉だけでは、本当のことは理解してもらえないだろうという想いもあった。
「さっきカゴに乗る前に言っていた、くるまって、昨日の夜言われていた…」
 お慶は、さっきのことを思い出して尋ねた。
「はい。説明は難しいですが、大八車のようなものだと思っていただければいいと思います。それが、人や馬に引かれなくても、ガソリンというもので動くんです」
「まあ。人も馬もなしで動くんですか?」
 お慶は、驚いた。が、車の形を想像しているようだった。
「あっしには、信じられねえ」
 留吉は、想像も出来ないようだ。
「留吉さんも、長生きすれば車を見れるようになりますよ」
 ローデンは、車が始めて輸入された年は分からなかったものの、彼が二十世紀まで生きていれば新聞や雑誌で見ることができるだろうと思った。
「長生き?」
「はい。長生きしていれば大変なことも多いが、色々と新しいものも見ることが出来るでしょう」
「異国の、新しいものを見てみてえ」
 留吉は、淡い期待を持った。

 留吉が連れて行ったうなぎ屋は、うなぎ屋と言うより高給料亭に近かった。ローデンは、高そうだと辞退したが、お慶も一度はこんな所に入ってみたいと乗り気になって、入ることになった。

 お慶は、約束どおり酒をつけてくれた。
 ローデンは、昼間からと戸惑ったが、「たまにはいいじゃありやせんか」と言った留吉に押し切られる格好になった。
「これは、うまい。こんなうまいうなぎを食べるのは、初めてかも知れない」
 ローデンは、嬉しくなった。「それに、養殖じゃなくて天然だ」と、この時代に養殖うなぎがなかったことを感謝した。
「ようしょく? てんねん?」
 お慶は、初めて聞く言葉に戸惑って鸚鵡返しに尋ねた。
「はい。私たちの時代では、うなぎや魚は捕るだけでなく、育てることもしています」
 ローデンは、そこで言葉を切ってお慶を見た。お慶は、面食らったような顔をした。留吉は、「すげえ」と、単純に驚いた。
「嵐になっても海が荒れても、食べることが出来ます。海で泳いでいるのとは訳が違い、味は落ちますが…」
 ローデンは、いい事ずくめではないことも知ってもらいたいと思った。
「食べ物の話のついでですが、異人さんは牛や豚を食べるそうですが、私たちの子孫も牛や豚を食べているのですか?」
 お慶は、ローデンがいる間に出来るだけ多くのことを知りたいと思った。
「もちろん食べています。それに豚は、ハムやソーセージに加工して、保存食にしています」
 ローデンは、保存食で意味が通じるのか少し不安になって、「ハムは、豚の塩漬け。ソーセージは、豚のかまぼこだと思っていただければいいと思います」と、付け加えた。
「はむ? そーせーじ? が、豚のかまぼこ?」
 お慶は、目をパチクリさせながらハムやソーセージを思い浮かべようとした。
 留吉は、「こちとらには、学がねえからわからねえ」と唸って酒を飲んだ。
「そんなことは、ありません。私だって、見たことも聞いたこともないんですから考え付きません」
 お慶は、留吉に気を使ったのだろう。ローデンは、そんなお慶に親しみを感じた。
「そうだ、忘れていた」
 ローデンは、自分が持ってきた食料のことを思い出した。
 お慶と留吉は、ローデンが何を忘れていたのか気になったようだ。
ローデンは、二人の態度に気が付いて、「実は、こんなご馳走が食べられるとは思っていなかったので、ハムとソーセージを持ってきたんです。私の荷物の中に入っていますから、今夜食べてみますか?」
「まあ。豚の肉を!?」
 お慶は、驚いて、目を白黒させた。
「ローデンさん。あっしにも、少し分けてもらえやすか? 異人の食いもんを死ぬまで一度ぐらい食いてえ」
 留吉は、遠慮しながら言った。
「昨日のお礼にはならないでしょうが、喜んであげますよ。今の私に出来るお礼と言ったらこんなことしかない。しかし、あと十年もしたら、誰でも食べられる世の中になります。もっとも、相当高かったらしいですが」
 ローデンは、昔習った日本史のことを思い出していた。アメリカが日本にやってきてから、十年ぐらいで明治維新になったはずだ。
 お慶は、笑った。
「どうかしましたか?」
 ローデンは、何故お慶が笑ったか理解できなかった。
「ローデン様は、おもしろい方。これから先のことを、昔のように話すんですもの」
 お慶は、目は笑ったままで答えた。が、「そうでした。あなたは、ずっと先の世から来たのでしたね」と、ローデンが次の日には帰ってしまうことを想って、少し顔を曇らせた。
「で、この先どうなるんです? あっしには、てんで分からねえ」
 留吉は、真剣な顔になった。
 ローデンは、無理もないと思った。
 自分が、攘夷の浪人たちに追われていたと勘違いした留吉だ。細かい内容は知らないながら、これから始まる変革を、肌で感じているようだ。
 一般に鎖国というと、海外の情報は何も入ってこなかったと思っている人が多いだろう。海外の情報は、幕府が握っていたのは事実だ。が、蘭学者や欄方医などを通して、当時幕府のお膝元で世界一の大都市だった江戸の町には、様々な情報が断片的ではあるものの入ってきていた。

「あの異人さん。箸を器用に使ってる」
 料理を運んだ女中は、調理場に戻ってくると一人残っていた他の女中に話した。
「万次郎様のお知り合いじゃないの?」
 その女中は、別段驚くこともなく、「きっと、万次郎様に教えてもらったのよ」と、勝手に決め付けていた。
 万次郎とは、ジョン万次郎のことである。万次郎は、何回か異人を連れてこのうなぎ屋に来ていた。その時に、異人に箸の使い方を教えていたのを見ていたからそんな言い方になった。
「じゃあ、あの異人さんは、万次郎様のお知り合い?」
「他に、考えられないじゃない」
「でも、町人が一緒よ。それも、職人みたいな町人と、学者風の若い女。なんだかおかしい取り合わせ」
 料理を運んだ女中は、納得いかない顔をした。
「万次郎様は、気さくなお方だからきっとお知り合いに違いないのよ。紹介されて、いらしたのよ」
 もう一人の女中は、そう言って取り合ってくれなかった。

 ローデンたちがうなぎ屋を出たのは、夕方近くなってしまった。ローデンは、念のため時計を見た。時計は、四時十七分を指していた。
「さあ。帰りやしょう」
 留吉は、そう言って先に歩き出した。
「お参りは、どうするのですか?」
 お慶は、気になって尋ねた。
「お参り…?」
 留吉は、立ち止まって少し考えていたが、うなぎを食べてからお寺にお参りすると言ったことを思い出して、「忘れてやした」とばつの悪そうな顔になった。
「もう、酔ったのですか」
 お慶は、酒をつけたことを少し後悔した。
「そんなこたあ…」
 留吉は、お慶に顔を向けて否定したが、顔は赤かった。「もうそろそろ、七つ(午後四時ごろ)になりやす。お参りしちゃ暮れ六つ(日没)まで帰えれねえ。遅くなりやす」留吉は、別の理由を持ち出した。
「もうそんな刻限ですか?」
 お慶は、うなぎ屋での楽しいひと時を短く感じていたので、達吉に告げられて少し驚いた。
「へい。お天道様を見れば分かりやす」
 留吉は、太陽の方向を顎で指してから言った。
「仕方がありませんね」
 お慶は、呆れた顔になった。が、「ローデン様の、帰りのカゴを探さないと」と言って、辺りを見回した。
 ローデンは、お慶の心遣いが嬉しかった。が、「何とか歩けそうですが」と、声を掛けた。安くないカゴ賃だけでなく、大の男がカゴに乗って女性を歩かせるのは忍びなかったからだ。
 二十一世紀に戻ったら、山本に言ってもう一度この時代に来たいと思った。その時に足手まといにならないためには、今から歩いていた方がいい。
 お慶は、驚いた顔でローデンを見て、「そんな。大事なお客様を、歩かせるなんて」と、言った。が、ローデンの気持ちが、分かるような気がした。私たちのために、気を使ってくれているのだと。
 結局ローデンは、カゴに揺られて帰る事になった。その途中に鐘がなった。留吉に聞くと、「あれが、七つの鐘でさあ」と答えた。ローデンは、太陽の動きで、ある程度時刻を理解している留吉に驚きを感じた。

 松山順斎の家の近くまで戻って来ると、大勢の人間が順斎の家の前に集まっているのが見えた。
「何でい?」
 留吉は、一瞬呆気に取られたが、「まさか…」と呟いて、ローデンの乗っているカゴをチラッと見た。
 お慶も、異様な光景を目にして戸惑った。
「あっしが、様子を見てきやす。お二人は、ここにいてください」
 留吉は、そう言ってから駆け出した。
「まさか…。ローデン様?」
 お慶は、困惑した顔のままローデンを見てローデンと目が合った。

 留吉は、群衆の端まで小走りに駆けてくると一人の男に、「何でい。捕り物でもあるのか」と、惚けて尋ねた。
 一人の男は留吉を振り返って、「捕り物?」と、面食らった顔をして、「何だ、おめえさん。知らねえのか」と、馬鹿にしたような顔で答えた。
「知らねえから、聞いているんじゃねえか」
 留吉は、わざとじれったそうな顔をした。
「異人さんを見に来たんだ」
 男は、迷惑そうな顔で答えた。
「異人さんは、いなさるのか?」
「まだのようだ。出掛けたまま、まだ帰えっていないようだ」
 留吉は、どうしようか考えた。このままローデンが戻ってきたら面倒なことになる。もしかして、役人に目をつけられたらそれこそ大事(おおごと)になる。
 留吉は、あることを考え付いて、群衆を掻き分けて順斎の家の玄関先までようやく辿り着いた。改めて群集を見回すと、数十人が細い道に詰め掛けていることが分かった。
 ざっと数えて五十人はいるだろう。大名行列が娯楽の一つだった時代に、異人が現れた。それを知った町人たちが黙っているはずはなかった。
 留吉は、深呼吸をしてから、「やいやい! てめえたちは、往来で何をしてやがる。迷惑だ。帰えってくれ」と、群集に向かって大声を張り上げた。
「異人さんを見に来ただけでい」
 一人の若者が怒鳴り返した。
「そうだ異人さんだ」
 群衆が、口々に叫びだした。
留吉は、やっぱりなと思ったが、「おいらは、異人さんの御付の者だ」と、声を張り上げた。
「嘘だ!」
 さっきの若者が、怒鳴り返した。
「留吉さん。外が少し騒々しいようですが」
 玄関から、順斎が出てきて留吉に声をかけた。順斎は、大勢の人が玄関前にいることを気にも留めていないようだった。順斎の後ろには、一人の学者風の若い男が付き添っていた。
「順斎先生。お知り合いですか?」
 近所の、おかみさんが順斎に声をかけた。
「はい。異人さんのお供をお願いしたお方です」
「じゃあ。御付の人って…」
 おかみさんは、留吉を見直したような顔で見た。
「どうでい。嘘は言ってねえ」
 留吉は、胸を張って見せた。
「じゃあ、異人さんは近くにいる?」
 おかみさんの一言で、群衆は騒ぎ出した。
「静かにしねえ」
 留吉は、大声を張り上げた。
 留吉の言葉に、群衆は嘘のように静かになった。留吉は、順斎の言葉で自分がローデンいや異人の御付だと分かってからの群衆の態度の変化に驚いた。
「仕方ねえ。そんなに異人が拝みたいなら、拝ましてやってもいい」
 留吉は、あることを考え付いて、「一人、十文だ。たった十文で異人が拝めるんだ」と、群集に向かって言った。
 群衆から、ざわめきが起こった。
「留吉さん」
 後ろから、順斎の呆れた声が聞こえてきた。
「何です?」
 留吉は、後ろを振り向いて順斎に尋ねた。が、やりすぎたと後悔した。怒られるだろうと思った。
「ローデンさんは、見世物じゃないでしょう」
 順斎は、咎める顔というより、困った顔になった。
「すいやせん」
 留吉は、ばつの悪い顔になって順斎に頭を下げた。順斎は、何も言わずに少し笑っただけだった。
「冗談でい。これから、異人さんが戻ってくるから、道を広く開けてくんねえ」
 留吉は、気を取り直してもう一度群集に向かって大声を張り上げると、「ここを、通りなさる」と、言いながら群衆の中に割って入って道を開けさせた。群衆は、留吉に素直に従ってローデンのために道を広く開けた。
 ローデンたちは、何の混乱もなく順斎の家に戻ることが出来た。その途中に、群衆から奇異の目で見られたことは言うまでもない。
 馬ではなく、辻カゴに乗って現れたのも奇異に映ったようだ。役人のお供ではなく、町人がお供だということも驚きに違いなかった。
 順斎は、お忍びだからそっとして置いてくださいと言って群衆に頭を下げた。
 ローデンは、この時代の人の気持ちが分かるような気がした。鎖国という制度のおかげで、外国人に接する機会がなかった。そんな時に、自分が現れた。無理もないと思った。彼らにとっては、娯楽の一つかもしれない。

 ローデンは、順斎の家に入ってからさらに驚くことになった。昨日順斎と初めて会った部屋には、五人の男たちが待ち構えていた。顔や姿を見た限りでは、順斎と同じ学者風に見えた。
 その中の三人は、刀の大小を座布団の横に置いていたので武士だと一目で分かった。手前に、刀だけ置かれてある席が見えた。男たちの前には、昨日のように箱膳が置かれており、酒の徳利と肴があった。箱膳は、人数より五膳多かった。
 さっき、順斎と表に出ていた学者風の若い男は、順斎に従って少し後ろにいた。
「このお方たちは?」
 ローデンは、驚いて日本語で順斎に尋ねてしまった。
「しゃべった」
「日本語だ!」
 男たちは、驚きの声を上げて互いを見詰め合った。ローデンは、しまったと後悔したがどうしようもない。この時代、日本人で英語を話す人間はいたが、逆の人間はいなかったはずだ。
「あなたは、日本語が話せるのですか」
 順斎に従っていた若い男は、驚きながらも尋ねた。
「はい。少々」
 ローデンは、観念した。もう、嘘はつけない。
「私は、斉藤。斉藤与一と申します」
 若い男は、名前を名乗って頭を下げた。
 ローデンは仕方なく、「ジミー・ローデンと申します」と言って、頭を下げた。
「斉藤! そんなとこに突っ立ってないで、早く座れ」
 一人の男が、痺れを切らして声をかけた。「ローデンさん。あなたも、座ってください」と、ローデンに向かって声を掛けた。男は、少し酔っているようだ。
 斉藤は、刀だけ置かれた場所の座布団に座った。ローデンは、斉藤に隣の席を勧められて隣の座布団に座った。お慶は、自然にローデンの隣に座った。順斎が、自分の席に座ると、留吉だけ残された格好になった。
「留吉さん、どうされました? さあ、座ってください」
 順斎は、留吉に優しく声を掛けた。
「あっしなんかが、いいんですかい?」
 留吉は、一同を見回して困惑した。順斎先生の同門や、弟子の学者仲間に違いないと思った。自分は、そんな席に入っていいのだろうか?
「あなたがいなかったら、ローデンさんと会うことが出来なかった。我々は、礼が言いたいのです。遠慮せずに、どうぞ」
 斉藤は、留吉の気持ちを察して声を掛けた。
「いいんですかい?」
「もちろんです」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 留吉は、観念して空いている座布団に座った。
 ローデンは、斉藤の気さくな態度に好感を持った。斉藤の姿からして、武士のようだが偉ぶったところがない。
「あなたが、留吉さんですね」
 もう一人の男が、気さくに声をかけた。
「へい。大工の、留吉と申しやす」
 留吉は、そう言って頭を下げた。
「私は、蘭方医の中川幸次郎です」
 留吉に声をかけた男は、名前を名乗った。
「私は、さっきローデンさんに名乗りました、斉藤与一です。蘭学者の端くれです。よろしく」
 次に斉藤が改めて名乗った。
「私は、山田、山田孝三郎です。蘭学をかじってます」
 先ほど斉藤に、早く座れと言った男が名乗った。
「私は、島田吉之助です。同じく、蘭学者です」
「工藤儀介です。私は、蘭方医です」
「古川一馬です。順斎先生の弟子です」
 他の者たちも、ローデンと留吉に自己紹介を始めた。が、誰も留吉が町人だということを、気にかけている様子もなかった。が、留吉は、緊張して一々自己紹介の後で頭を下げていた。
 無理もない。留吉の立場では、これだけ多くの学者たちと言葉を交わすことすら考えられないのだろう。ローデンは、そう理解した。
「有り合わせで、悪いのですが、ローデンさん留吉さん。遠慮なく、やって下さい」
 順斎は、ローデンと留吉にそういって酒を勧めた。
「こいつが、ローデン殿を今朝方玄関先で見かけたので、こういうことになりました」
 山田は、言い訳のような言い方をして笑った。
「そんな…。私は、みんなに知らせた方がいいと思っただけだ」
 斉藤は、不本意だという顔になり、「こんな機会は、ないだろう。もしかしたら、一生ないかも知れないじゃないか」と、反論した。
「分かった。分かった。おまえのおかげだ。礼を言う」
 山田は、わざと恭しく頭を下げた。
 留吉以外は、山田のしぐさを見て笑った。
 留吉は、恐縮したまま座っていた。
「それを言うなら、留吉さんのおかげじゃないか」
 斉藤は、話題を留吉に向けた。
「聞きましたよ。武勇伝」
 古川は、留吉に顔を向けて頼もしそうに留吉を見た。古川は、学者仲間で一番若そうだった。
 全員の視線が、留吉に集まった。
「そんな…」
 留吉は、困惑して、「ただあっしは、勝手に勘違いして、かくまっただけなんで…」と言ったが、慌てて口を押さえたい気持ちになった。余計なことを言って、ローデンの正体を知られたら…。とんでもない事になるかも知れない。
「ローデン殿が、道に迷われていたのを、追っ手に追われていたと勘違いしたのですよね」
 順斎は、留吉に自分が斉藤たちに言った言い訳を覚えてもらいたいと口に出した。
「へえ。面目ねえ」
 留吉は、順斎の言葉に救われた想いでばつの悪そうな顔になった。
「そんな事ありませんよ。私は、下手に日本語を使わないほうがいいと思っただけです」
 ローデンは、留吉を気遣った。古川の言ったとおりだ。留吉がいなかったら、大げさになって今頃どうなっているかわからない。心の中で留吉に、頭を下げた。
「勘違いでも、異人さんを匿おうとしたなんて驚きです」
 中川は、本心から驚いているようだった。
「ところで、ローデンさんは、どちらで、日本語を覚えられたのか?」
 斉藤は、ローデンの日本語に興味をもって尋ねた。どうしたら、こんな流暢に日本語が話せるのだろうか?
 ローデンは、一瞬答えに窮した。まさか、日本生まれだと、答える訳にはいかない。
 順斎は、恐れていたことが現実になったと嘆いた。適当な理由をつけて、ことわっておけば良かったと後悔した。しかし、こんな機会は彼らにはない。と、思ってローデンを紹介するつもりになった。が、どうしたものか…。
 留吉は、驚いて斉藤に顔を向けてしまった。まずい。が、どう答えればいいのか…。
「万次郎様に、教えていただいたんでしょう」
 お慶は、咄嗟に答えていた。
 ローデンは、考えてもいないことをお慶が言ったので驚いてお慶を見た。万次郎というのは、ジョン万次郎のことだろう。と、漠然と思った。彼なら、アメリカに長期間滞在していたし、様々な人物と交流を持っていたはずだ。幕末なら、日本に戻っていることも考えられる。
 留吉は、うまい言い訳だと思った。が、万次郎という人物は、何者かは知らなかった。
 順斎も、驚いた。お慶の浅はかな言葉に、これからの事を考えなければならないと思った。ここで下手に違うと言えば、本当のことを言わなければ彼らは納得しないだろう。
「万次郎様って、中浜万次郎様ですか?」
 斉藤は、驚いて尋ねた。
 お慶は、知り合いではないかと思って、「お知り合いですの?」と、動揺を隠して斉藤に尋ねた。
「いえ。お会いした事はありませんが、驚いたものですから」
 斉藤は、申し訳なさそうな顔をした。中浜万次郎と名前が分かっているなら、再会できればいいと漠然と思った。お二人に、喜んでもらえるとも思った。が、一面識もない自分には、何も出来ないことを恥じた。お慶の言葉を信じた斉藤は、「ローデンさんは、どうして日本語を学ぼうとされたんですか?」と、もう一つの疑問を尋ねた。
「そうです。何故我々の言葉を?」
 山田も、興味あるような顔で尋ねた。
 ローデンが万次郎から日本語を教わったことについて、斉藤たちは誰も疑わなかった。
 ローデンは、自分が万次郎に日本語を教わったことが既定の事実として斉藤たちに受け入れられてしまった事に戸惑った。が、話題は、次に移ってしまっている。どう答えていいのか迷った後に、「日本に興味を持ったからです。日本に行くなら、現地の言葉で現地の人と話がしたかった。それだけです」と、自分が日本語を話せなかったらしたであろう事を言う事にした。
 ローデンさんは、斉藤さんの話にうまくあわせている。留吉は、さすがだと舌を巻いた。
 順斎は、斉藤たちの思い込みを今さら否定できないと悟った。お慶に、厳しい視線を向けた。
 お慶は、厳しい順斎の目に、目だけで謝った。自分の一言で取り返しのつかないことになったかもしれない。と、後悔したが、斉藤たちに話しを合わせる事にした。父上もそう思ったから、何も言わなかったのだろう。
「素晴らしい方だ。頭が下がります」
 古川は、ローデンを絶賛した。
「そんなことは、ありません」
 ローデンは、困惑した。自分は、日本で生まれたのだ。教育も親の方針で、ほとんど日本の学校に行った。自分は、当然だと思っている。自分が日本に興味を持ったのも、日本を好きになったのも自分一人の力ではない。多くの友人や、日本の文化それに自然が好きになったからだ。古川に、賞賛されるような人間ではない。
「あなたが、古い日本のことを研究されたいと思ったのも関係があるのですか?」
 斉藤は、ローデンに関心を持ったようだ。
 ローデンが、驚いて斉藤を見ると、「順斎殿から、あなたが学者だと教えていただいたものですから」と、悪いことを尋ねたのかと後悔した。
「はい。日本の古い時代のことを、研究したいと思いました」
 ローデンは、正直に答えた。それが元で、みんなに迷惑をかけている。と、考えた。自分さえ幕末に来なければ、迷惑をかけることはなかったはずだ。
「もう難しい話は、やめよう。せっかくの酒だ」
 順斎は、いつもの議論好きが始まるのを恐れた。この顔ぶれなら、このまま一日でも議論を続けるだろう。これ以上続けたら、留吉にも悪いと思った。それに、ローデンの正体が知られるかもしれない。
「そうでした。申し訳ありません」
 斉藤は、順斎の気持ちを察してローデンに酒を勧めた。ローデンは杯を一気に空けた。
「いい呑みっぷりですね。どうです? 日本の酒は」
「とてもおいしいです」
 ローデンは、正直に答えた。
「留吉さんも、どうぞ」
 斉藤は、留吉にも酒を勧めた。
「へい。あっしのような者に…」
 留吉は、恐縮した。
「そんな事は、ありません」
 斉藤は、そう言ってから、「なあ、みんな」と、他の者たちに向かって同意を求めた。
「そうだ。遠慮することはない」
 山田は、留吉に言ってから、「こいつは、貧乏旗本の次男坊だ。気にするな」と、付け加えた。
「貧乏旗本の、次男坊で悪かったな」
 斉藤も、負けてはいなかった。
「すいやせん。あっしのために…」
 留吉は、さらに恐縮した。が、杯を恐る恐る差し出した。
「どうぞ」
「どうも…」
 留吉は、恐縮しながらも一気に杯を空けた。
「うめえ! こんなうめえ酒は初めてだ」
 留吉は、思わず言ってしまって、「すいやせん」と、謝った。
「そうでしょう。ローデンさんと、あなたのために奮発したんですから」
 斉藤は、そう言って笑った。
「あっしのため?」
 留吉は、戸惑ってしまった。
「私だって、ローデンさんと初めて会ったら、留吉さんみたいに助けることが出来なかったでしょう」
「そんな…」
「そうだ。おまえだったら、腰を抜かすだろう」
 山田が、また茶茶を入れた
 座は、それから和やかになった。最初は恐縮していた留吉も、次第に慣れていった。

「そう言えば、明日帰られるのですね」
 斉藤は、名残惜しそうに尋ねた。
「はい」
「残念です。もっと、お近づきになりたかった。色々と、教えていただきたかった」
 斉藤は、残念そうな顔をした。
「また来ます」
 ローデンは、気安く答えた。
「え!?」
 お慶は、驚いてローデンを見た。
 順斎は、ローデンの真意が分からず一瞬固まってしまった。留吉は、杯を落としそうになった。
「有難い。その時は、教えを請うことが出来ます」
 斉藤は、そう言うとほっとした顔をした。
「私などの知識は、さほど役に立たないと思いますが。出来ることなら、喜んで」
「よろしくお願いします」
 斉藤たちは、一斉に頭を下げた。
「そんな約束して、よろしいのですか?」
 お慶は、複雑な顔でローデンの耳元に囁いた。
「はい。また来ます。その時は、また泊めてもらえますか?」
「もちろんです。ねえ父上」
 お慶は、喜んで順斎に念を押すように尋ねた。
「喜んで、泊まって頂きます。が、よろしいのですか? あなたには、他に行く所があるのではないですか」
 順斎は、ローデンが時代を間違えた事を気にかけた。
「いつでも、行ける所です。それより、江戸時代…。いや、江戸の町が気に入りました。またご厄介になります」
 ローデンは、順斎に深々と頭を下げた。
「良いのですね」
 順斎は、複雑な気持ちになった。
「はい」
 ローデンは、答えてから、縄文時代が逃げるわけではないと思って、昼にお慶と留吉にハムとソーセージをあげると約束したことを思い出した。「そうだ。折角だから、今食べますか?」と、お慶に尋ねた。
「食べるって? お昼に言われていた。は…。は…」
 お慶は、初めて聞いたハムを思い出せなかった。
「ハムとソーセージです」
「今…。ですか?」
 お慶は、一瞬驚いて動けなくなった。
「はい。皆さんもいることだし、食べてみませんか」
 ローデンは、いい機会だと思って提案して、「あの。私の荷物を、持ってきてくれませんか」と、お慶に頼んだ。
「あっしが、行ってきやす」
 留吉は、そう言うと使用人の所まで千鳥足で行った。暫くしてローデンの風呂敷包みを持って戻ってきた。
 ローデンは、礼を言って留吉から荷物を受け取ると、風呂敷包みを開けてリュックの中から、ハムとソーセージそれに、フランスパンを取り出した。
 全員が、ローデンが取り出したものを不思議そうに眺めた。
「何です? これは…」
 斉藤は、隣から覗き込んで尋ねた。
「これは、食べ物です」
「これが?」
 斉藤は、初めて見る食べ物を不思議そうな顔で見た。
「これは、ハムといって豚の肉を塩漬けにした食べ物です」
 ローデンは、ハムを斉藤に手渡した。
「豚の肉?」
 斉藤は、ローデンから受け取ったハムを睨み付けるようにして見た。
「おいしいですよ」
 ローデンは、やりすぎたかと思った。が、折角持ってきたハムやソーセージを、無駄にしたくなかった。
「これを、食すのですか…」
 斉藤は、ハムを裏返したり遠めに見たりして困惑した顔になって「美味なのですか?」と、信じられない顔をローデンに向けた。
「おぬし、怖いのか?」
 山田は、他人事のように茶茶を入れた。
「なら、山田。食ってみろ」
「どうやって、食するのですか?」
 山田は、食べ方が分からずローデンに尋ねた。
 ローデンは、リュックからナイフを取り出して、「貸してください」と、斉藤からハムを受け取った。
「お皿ありますか?」
「少しお待ちください」
 お慶は、そう言ってから、「儀助。大きいお皿を持ってきて」と、使用人を呼んだ。
 儀助は、大きな皿を持ってすぐに現れた。
「あなたも、食べますか?」
 ローデンは、ハムの皮を剥いてから小さく切り分けて、皿に並べながら儀助に尋ねた。
「まさか…。豚の肉を…?」
 儀助は、驚いて、腰を抜かした。
 ローデンは、一切れ口に入れて、「こんなにおいしいのに」と儀助に笑って見せた。
「そのまま、食すのですか?」
 斉藤の問いに、ローデンは、「焼いて食べてもおいしいですが、このままでも食べられます」と、答えた。
「美味なんですね」
 山田は、そう言ったが、少ししり込みをしているようだった。他の男たちも、複雑な顔をしながらハムの乗っている皿を見ていた。順斎も例外ではなかった。
「何です? 男のくせにだらしない」
 お慶は、全員を見回してから、ハムの一切れを箸で摘まんで口に入れ、味を確かめるようにハムを噛んだ。
「どうです? 美味でしょうか?」
 斉藤は、お慶の顔を窺った。他の男たちも興味津々という顔でお慶を見ていた。
「おいしいかも知れません」
 お慶は、変な言い方をした。男たちは、困惑した顔になり互いに顔を見合わせ始めた。
「おいしいかも知れない? とは、どういう意味だ?」
「美味ではないのか?」
「しかし、お慶殿は不味そうな顔をしておられない」
 男たちは、勝手に話し始めた。
「あっしにも」
 留吉は、手でハムの小さい一切れを取って、「昨日も、あっしの寿司をでりいしゃすと言って食いなすった。今日の昼だって、うなぎをおいしいと言いなすった。このハムだってうまいに違えねえ」と自分に納得させてから口の中に入れた。
「どうです? おいしいかも知れないでしょ」
 お慶は、気になり留吉に尋ねた。
「へい。うまいようで、不味いようで初めての味で分からねえです」
 留吉は、困惑した顔をした。
「じれったい」
 山田は、痺れを切らして、「不味そうではないようなので、私も頂こうとしよう」と言ってローデンの方に歩み寄った。ローデンの前に正座すると、一瞬たじろいだが少し大きめのハムを手に取った。
 他の男たちは、山田が手に取ったハムを固唾を呑んで見守った。
「ローデン殿が、美味だと言われたのだ。不味いはずはない」
 山田は、一堂を見回してから一気に口に入れた。彼は、少しかみ締めるように口を動かしていた。
「どうだ? 美味なのか?」
 斉藤は、気になった。山田は、おかしな顔や嫌な顔をしていない。ということは、不味くはなさそうだ。
「不味くはない。が、美味かどうか良く分からぬ」
 山田は、そう答えたが、「どれ。もう一切れ頂こう」と言って、ハムをもう一切れ摘まんで口に入れた。
「まさか。おまえ。美味だから、独り占めしようとしているのではあるまいな」
「ばか言え。私は、そんな小さな男ではない」
 山田は、ハムを噛んで呑み込んだ後に、斉藤に顔を向けたが、「食べなれると、美味に感じるかもしれない。初めて食するものだからな」と言って、又ハムに手を伸ばした。
 ローデンは、にこやかな顔で彼らを見ていた。新しいものに対する人の感情とはこうなのだろう。それが、文化や科学だけではなく食べ物にしても同じことだと。
 縄文時代にこだわっていた自分が、愚かに思えてきた。時代は関係ない。縄文時代にタイムスリップして、縄文人たちと交流する羽目になったら同じ光景を見ることだろう。
 その結果が、人類の歴史にどれだけ影響するか…。幕末の比ではないだろう。取り返しのつかない結果をもたらすことになったら…? ローデンは、幕末にタイムスリップしたことも何かの使命ではないか? と感じた。
「何だか、美味のような気がしてきた」
 山田は、困惑した顔で斉藤を見た。
 山田の声が聞こえて、ローデンは思考を中断した。気を取り直して、「私たちは、酒の肴でも食べます」と、食べ方を教えた。
 ハムは、全員に配られた。ソーセージも、全員に配られた。
 最初は、恐る恐るハムを眺めていた男たちも、ハムを一口食べてから態度が変わった。
「美味のような気がします。いや、美味です」
「始めていただきますが、思ったより美味です」
「おかしな味だが、不味くはない」
 中川は、酒を飲みながらハムを口に入れて笑った。
 結局最後に食べたのは、儀助だった。儀助は、最後まで怖気づいていたが、全員が食べだしたのを見て食べたくなったようだ。儀助も、宴の一員に加わった。
 知らないうちに、ハムやソーセージは殆んどなくなっていた。最後に残ったフランスパンは、酔いも手伝ってかすぐに無くなってしまった。
 話題も、ローデンのことから他の話題に代わっていた。学問のことや、世の中の出来事など様々なことを話し始めた。
 座は盛り上がり、知らないうちに夜も更けてきた。
 お開きのときに、「ローデンさん。何かお土産にほしいものはありませんか」と、斉藤が呂律が回らない言葉で尋ねた。
「そんな…。お気遣いだけで十分です」
「いやあ。異人さんのあなたに気に入っていただける物があるとは思えませんが、用意できるものなら何なりと」
「そうです。遠慮は無用です」
 山田も、呂律が回らなくなっていた。
「そうですか」
 ローデンは、少し考えて、「頂いたお酒を、少し土産にしたいと思います。酒好きの友人がいますので」と、答えた。
「そんなこと、お安い御用…」
 斉藤は、そう言って周りを見回して、「酒がない」と、慌てだした。
「先ほど、無くなったではありませんか」
 お慶は、呆れた顔をした。
 ローデンもそこで初めて酒がないことを思い出して、「私も、酔ったようです。」と答えた。
「そうでした。これは、失礼。明日朝お持ちいたします」
 斉藤は、完全に酔っていた。
 それを合図にしたように斉藤たちは、謝辞の挨拶をして帰って行った。
 全員が帰って行ったのを確かめるとお慶は、「ローデン様。いよいよ明日ですね」と、伏目がちに尋ねた。
「ゆっくりしたいのですが、私にも仕事があります」
 ローデンは、名残惜しそうな顔になった。
「お仕事?」
 単なる学者だと思っていたお慶は、どんな仕事だろうと思った。弟子がいるのだろう。「お弟子さんに学問を教えるのですか?」
「弟子?」
「はい。お弟子さんが、いっぱいいらっしゃるのですね」
「まあ、そんなところです。私は、城南大学という学校で、考古学を教えています。それから、昔のことも研究しています」
「学校? 学問所のようなところですか?」
「少し違うかも知れませんが、そう思っていただいて結構です」
「仕方ありませんね。お弟子さんを、放っておく訳にはいきませんものね」
「はい。それに友人も、私が幕末に来ていることを知らないんです。約束は、明日の…」
 ローデンは、午後二時は何刻になるか考えたが分からず、「お昼過ぎです」と、答えるしかなかった。
「そうですか…」
 お慶は、少し目を伏せたが、「また、おいでになるのですね」と、念を押すようにローデンを見つめた。
 ローデンは、お慶の顔を見てドキッとしたが、「また来ます。八月は、大学が休みになるので、一ヶ月ほど時間が取れます」と、言った。
「まだ、ふたつきも先ですの?」
 お慶は、少しがっかりしたような顔になった。
「え、来月のはずですが…」
 ローデンはそこまで言って、幕末が旧暦だということを思い出して、「今は、六月なのですね」と尋ねた。
「はい。六月四日です」
「で、何年になります」
 ローデンは、年号を聞いていなかったことに気が付いた。幕末といっても、十年以上あったはずだ。今は、いつ頃なのだろうか?
「安政六年です」
 お慶は、咄嗟に答えた。
 ローデンは、自分のいた時代が今日は、七月三日になる。新暦と旧暦が一ヶ月ほど違うと考えれば、日付は変わっていないかも知れない。と思った。そうだとすると、百数十年前の同じ日にやって来たことになる。
 ローデンは、「日にちは約束できませんが、ひと月後ぐらいには来ることができます」と、答えるしかなかった。帰ってから三十日後に戻ってくればいい事だ。どうせ、夏休みだ。と、細かい事を、考えないことにした。
「本当に、よろしいのですか? ご迷惑ではありませんか?」
 順斎は、ローデンに無理強いをしたのではないかと少し不安になった。
「そんな事はありません。斉藤さんたちとも約束していることですし、今度はゆっくりと江戸の町を見たいと思っております」
 ローデンは、本心から言った。何故か、幕末に興味を覚えた自分にも驚いていた。
「そうですか…。そこまで仰っていただいて、私も嬉しい。たいしたもてなしは出来ませんが、ごゆっくりしていってください」
「ありがとうございます」
 ローデンは、順斎に深々と頭を下げた。

 次の日斉藤は、昼前に土産の徳利を下げてローデンに会いに来た。ローデンは謝辞を述べて再会を約した。斉藤は、その時ローデンに教えを請いたいと言って頭を下げた。ローデンは、私でよかったらと快諾した。が、迂闊なことは教えられないと、珍しく慎重になった。
 お慶は、朝から落ち着かなかった。昼食も食欲はなかったが、ローデンが心配するのを気遣って無理矢理喉に流し込んだ。
 昼食が終わって少ししてから、順斎に町方の与力が面会を求めてきた。順斎は、ローデンとお慶を奥の部屋に下がらせて、一人で面会することにした。さすがに、ローデンを同席させる訳には行かない。それに、面会している最中にローデンが未来に戻ることにでもなれば面倒になると判断したからだ。

 お慶は、「本当に、このようなものでよろしいのですか?」と、わらじをローデンに差し出しながら尋ねた。
 ローデンは、そろそろ約束の時間だということで帰る準備を終えたところだった。
「はい。私のいた時代では、珍しいんです。みんなこんな靴をはいていますから」
 ローデンは、庭に立って自分の足を見ながら答えた。
「そうですか…。それなら、いいのですが。ご友人やご家族に恥ずかしいかと…」
 お慶は、本当に恥ずかしそうな顔になった。
 ローデンは、お慶の顔を見てドキッとした。これが、日本人の恥じらいなのか? お慶とさほど違わない年代の教え子たちの顔を浮かべながら、お慶との落差を感じた。ローデンは、日本人の良き習慣が消え去ったことを残念に思った。自分の時代には、本当の日本女性はいなくなったのではないかと思えてきた。
「いや。私のいた時代を理解してもらうことは難しいかも知れませんが、恥ずかしがることはありません」
「そうかも知れませんね。できれば、未来の何かをお土産に頂けませんか」
 お慶は、そう言って少し目を伏せた。
「考えておきます」
 ローデンは、言ってから、「まもなくお別れです。お別れするときに、私は光りだしてから消えます。が、驚かないで下さい」と、タイムスリップでお慶が驚かないように説明した。それでも、実際にタイムスリップを目の当たりにしたら、どうなるか不安も膨らんできた。
「まあ。お釈迦様のように?」
 お慶は、驚いてローデンを見た。恐怖ではなく、純粋に新しいテクノロジーいや未来のからくりを見たい好奇心を表に出したような顔をした。

「異人の方がご逗留されていると聞き及び、遅まきながら御警護にと参った次第です」
 与力は、来意を告げた。
「そうですか。これは、有難い。ご配慮感謝いたします」
 順斎は、与力に頭を下げて謝辞を述べた。警護は表向きで、与力は事の真意を確かめに来たのではないか? と、考えもあったので、「折角お越しいただいたのに、先ほど横浜に戻られました」と、嘘をつくことにした。
「左様ですか」
 与力は、複雑な顔をした。が、「道中に、何事もなければ良いのですが…」と、気遣っているような口ぶりになって、遠くを見るような眼をした。
「私の知り合いを同行させましたから、問題ないかと思われます」
 順斎は、嘘を重ねるしかなかった。
「そうですか…。なら良いが」
 与力は、少しの間沈黙してから、「今の世の中、複雑になっております。何かあってからでは、取り返しがつかなくなる恐れもあります。もし、またご逗留する機会がおありになれば御警護致しますので、遠慮なくお申し付けください」と、言い残すようにして帰って行った。
 順斎は、与力を複雑な顔で見送った。与力が言葉どおりの理由で訪れたとしても、どうするものか? さすがに次にローデンが来たときには、届けた方が良さそうだと考えた。
 その時に、ローデンの素性を聞かれたらどう答えるべきか? 慎重に考えないと、別な意味でローデンが危険になる可能性もある。順斎は、その時までに何か方策を考えることにした。
「父上!」
 その時に、お慶の悲鳴に近い順斎を呼ぶ声が聞こえてきた。
 順斎は、急いで奥の部屋に向かった。
 お慶は、奥の部屋の縁側に座って裏の庭を呆然と見ていた。
「お慶。どうした? ローデン殿が帰られたのだな」
 お慶は、庭を指差して、「ローデン様が…。ローデン様が、光って…。消えました…」と、言って順斎に振り向いた。お慶は、驚きだけではなく、複雑な顔を順斎に向けた。

 山本は、数時間前からの緊張が更に高まっていることにいやな予感を感じていた。
 ローデンにローデンに何かあれば、自動的に現在に戻ることになるはずだ。と、自分に言い聞かせても、気が気ではなかった。
 タイムスリップした物体に不測の事態があれば、戻ってくることだけは何回も確認していた。それが、何故かは分からなかった。それに、生身の人間に当てはまるのか? いずれにしても、まもなく分かることだ。自分に言い聞かせると山本は、タイムスリップ装置の前のパソコンを操作し始めた。

 山本は、戻ってきたローデンの姿を見て、さっきまでの緊張は一気に吹き飛んだ。口をあんぐりと開けたまま、眼が点になった。
 ローデンは、浴衣姿でリュックを背負っていた。それだけでも驚きなのに、右手には大きな徳利を提げていた。左手には、わらじを持っていた。わらじ? って、縄文時代にあったか…? それに、徳利。ご丁寧に栓までしてある。
「ただいま」
 ローデンは、小旅行から戻ったような気安さで山本に声をかけた。
「何だ? その格好は?」
 山本は、やっとそこまで尋ねた。が、まるで、裸の大将みたいな格好をしている。
「見て分からないか? 浴衣だよ」
 ローデンは自分の姿を少し見てから、山本が自分の持っているものに興味を覚えているのに気が付いて、「これは土産だ」と、大きな徳利とわらじを山本に見せびらかすように山本の目の前に持って行った。
「そんなこと聞いてない。なぜ、出かけるときにジーンズ姿だったのに、浴衣を着ている?」
「いやあ。お慶さんが、どうしても何か持って行けというもんだから…」
ローデンは、少しはにかんだ。
「お慶さん?」
 山本は、状況がつかめず鸚鵡返しに尋ねてしまった。
「わらじも、珍しいからもらった」
 ローデンは、わらじを山本の傍らにあるパソコンデスクの空いている空間においた。「それに、斉藤さんから、酒ももらった。うまいぞ」と言って、わらじの隣に置いた。
「待ってくれ…。縄文時代に浴衣やわらじがあるはずない。俺だって、それぐらい知っている」
 山本は、一気にまくし立てると、「説明してくれるな」と、ローデンを厳しい眼で見つめた。
「それが、幕末にタイムスリップした」
 ローデンは、あっさり言った。
「幕末って、江戸時代の…?」
 山本は、驚いて目を大きく見開いた。
「何故か、幕末だった」
 ローデンは、山本の態度に少し目を伏せた。
 山本は、少し考えていたが、「俺の責任だ。悪かった」と、素直に謝った。
「いや。そのおかげで、おもしろい体験をさせてもらった」
「とにかく、詳しいことを聞かせてくれ」
 山本は、タイムスリップ装置が置かれてある部屋を出て行った。ローデンは、山本に従った。

 ローデンは、いつものソファに山本と対峙して座ると、事の経緯を掻い摘んで山本に話した。
「幕末で良かった」
 山本は、そう言ってほっと胸を撫で下ろしたが、腕を組むと、「何故だ? 探査機を送ったのは、確かに縄文時代のはずだったんだが…」と、首をかしげた。
「俺も見た。あれは、確かに縄文時代だ」
 ローデンは、探査機の映像を思い出していた。が、「重さのせいか?」と、山本に尋ねた。
「そんな事はない。あの探査機は、おまえより質量があるんだ。それに、カップラーメンは、質量が小さすぎる」
 山本は、言葉を切ってローデンに視線を移して、「おまえも見たろ。探査機が、カップラーメンを写した映像を。ということは、同じ縄文時代に、タイムスリップしたことになる」と、困惑した顔になった。
「俺には、分かるはずはない。ただ、もう縄文時代に行けそうもないことは分かった。が、それでいい」
「どういう意味だ? 今度タイムスリップしても、縄文時代に行けないんだぞ。計算しなおすにしても時間が掛かる」
 山本は、冷静なローデンの顔を不思議そうに見た。
「縄文時代に行くのは止めた」
「何故だ…?」
 山本は、驚いた。あんなに縄文時代に行きたがっていたのに、あっさりと諦めるローデンではないはずだと。
「幕末にタイムスリップして分かったんだ。幕末に行っただけでも、混乱がおきそうになった。縄文時代にタイムスリップしたところを見られたら、歴史がどうなるか…」
「神様と間違えられるかも…」
 山本は、その時の光景を思い浮かべて身震いした。が、ローデンを物珍しそうな顔で見て、「有難くない神様だがな。それに、しつこくて自分勝手だ」と言って、笑った。
「その代わり、もう一度俺が戻ってきた場所に行きたいんだ」
 ローデンは、山本に頭を下げた。
「それは、お安い御用だが、混乱がおきそうになったんだろ」
 山本は、そこまで言って、「まさか? お慶という女性を、好きになったのか?」と、複雑な顔になった。
「そんなことではない」
 ローデンは、あっさり否定したが、山本は疑っているようだ。自分でもよく分からない。と思ったものの、「約束したんだ」と、続けた。
「約束って、さっき言っていた蘭学者とか?」
「ああ。それに、順斎先生にももう一度会って、お礼を言わなければ気がすまない」
 山本は、腕を組んだまま唸って少し考えていたが、「いいだろう」と、同意した。

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2021年11月5日公開
(ひょんなことからジョン万次郎と出会うことになったローデン。
一度現在に戻ったローデンは、幕末の江戸に戻ることにする)

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