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おもしろきこともなき世をおもしろく

ちょっと真面目なお話。。

先日友人のつながりで、「外国にルーツのある児童」を支援している方とオンラインをし、1時間半ほどセッションした。

興味深い話ばかりで、あっという間に時間が過ぎてしまった。

元々教育研究者をされていたその方は、今はJICA横浜と共に、「外国にルーツのある児童に対してどのように対応していくか」を喫緊の課題として、取り組んでいる。

なぜ、喫緊の課題であるのか。

今、外国人労働者が増えている。それに伴い外国にルーツのある児童も増えている。

実は、その子供達の高校進学率は低く、行けても定時制で、やめてしまうことも多いという。
そういった子たちは、やはりきちんとした仕事につけていないことも多い。
そうすると、どうなるか。
集団で不法行為を行ったり、薬物など、
反社会的、非社会的行為を行う可能性が高まっているというのだ。
確かに私も、最近日本にいる外国人が、暴力行為や、不法行為を行ったというニュースをカンボジアにいながらも耳にする。
そういった人たちの背景にはこういったことが関係しているのかもしれない・・・。

そのため、日本にいる外国にルーツのある子供たちの対応は喫緊だという。

特に彼が問題視しているのは、
日本人にいる外国人が「日本人化」を強いられていることである。
確かに、日本では、何かとルールが多く「集団に合わせる」ことが大事であるという雰囲気がある。。それはそれで、日本で生きていくのには必要なスキルであると思う。

しかし彼は、
「大切なことは、その外国人がその国のアイデンティティを失わないこと」
であると言っていた。
日本に住んでいても、自国に誇りを持てるような社会が必要だと。
そのために、彼らを認め、その人がその人らしく生きていけるように、手助けする必要があるとも。

そして、その時に力になりうるのは、JICAの現職派遣の先生たちだという。

実は彼はJICAの帰国者面談の面接官の経験もある。
(JICA海外協力隊の帰国者は帰国時に、集団と個人の面接を受ける)

教育に関わらず、様々な職種の協力隊帰国者と面談をして、感じたことの一つに、

「寛容になれる」「ま、いっか」
と思えることがあるという。

つまりは、自分のもっている枠組みをその場に応じて自由に変えられる術を身に着けるという。
確かに、私もカンボジアに来て、9か月。文化や感覚の違いで様々なギャップを感じた。初めは驚いていたが、今は「へー。そんなもんか」と受け入れることができている。

また、
伝わらない語学の辛さの経験や、逆にそこから、「伝えようとする力」が身に付いた、という人も多いという。

また、ある隊員は、
思っていた要請と全く違って、最初は戸惑ったが、そこから新しい仕事を見つける力を身に着けたという。つまり、「開発する力」である。

「共感」でき、「開発」する力を身に着け、帰ってくる。
しかし、元協力隊の先生の多くは、そういう力を持っていながら、日本の現場に戻ると、その力が生かされていないことが多い。

帰国時の面談で、彼はいつもこう言うという。

「あなたたちは派遣前の日本人ではない。日本人の顔をしたインベーダーなので(笑)…。職場に戻ると、以前のような働き方をせず『なんかあの人変わったよね』とか、思われる可能性がある」と。
分かってもらえない場合もあるし、これっておかしくない・??と思っても、ヘタをすると、つぶされる。。
現に帰国した多くの現職隊員が職場を離れる(辞めてしまう)こともある。

その先生達を、どのように生かしていくか。。

今、新たな取り組みとして彼が進めているのは、
「国際教育コーディネーター」という役割の先生を学校に置くことである。

学校には現在
「特別支援コーディネーター」という役割がある。発達などで特別な支援がいる児童に対し、学校の中での理解促進はもちろん、外の関係機関と、その保護者や子供を繋げる役割である。

その、外国児童バージョンと考えてもらえばよいだろう。
日本語がうまく話せない児童に学校内だけでなく、学校の外の機関と連携をとり、支援を進めていく。また、その子が自分の国の誇りを持ち続けられるように。同時に周りの児童への理解を進めることも重要である。

今後その役割を、元協力隊の先生が担うことができれば。
その先生にとっても自分の経験を十分に生かすことができるのではと
彼は考えている。

※※※

私は「ボランティア」や「支援」について常々思うことがある。

支援とは、「双方向なモノである」ということである。
一見、支援される側とする側という風に捉えられがちだが、
実は常にされる側も時にする側になったり、する側もされる側になったりするのである。

私も現在カンボジアに来ているが、学校で音楽や体育を教えつつも、
買い物や、食事など、生きていくために必要な事をカンボジア人に助けてもらいっぱなしである。。そもそも彼らがいなければ、教育技術の伝達は成り立たないと良く思う。

特別支援学級をしていた時もそう。。
例えば、彼らに静かにしてほしい時には「しずかにしなさい!」などという当たり前の指導は通じないことが多い。
絵を見せたり、口を閉じさせるような活動をしたり、紙に書いて知らせたり。様々な指導が求められる。それは同時に、教師としての引き出しも作られている、といつも思っていた。

今回の話も、同じ。
外国にルーツのある児童を支援しつつ、元協力隊の先生が活躍の場も支援している、と思った。

彼は他にもカンボジアでのプロジェクトも進めており、
「なにごとも面白がってやることが大事ですから」
とも言っていた。物事を面白くするも、悪くするも全ては心も持ちようである。

私は、支援やボランティアはどちらも「する」と「される」がいつもある。
だからこそ、ボランティアは面白い!といつも思う。


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