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まっさらな世界の地図

雑誌をめくりながら、路線図が描かれた日本地図のページで手を止める。何を考えるでもなく、しばらくそのまま眺めている。

平野に、河に、海岸線に、まだら色の山脈に、島に、あちこち脈絡なく視線を飛ばす。とくに何が知りたいわけでもない。ただ、目にするひとつひとつから、ベルが鳴るようにささやかな喜びがわいてくる。

新幹線の車内放送が、途中の駅に着いたことを告げる。外はすっかり暗い。黒い車窓に写る自分の横顔を斜めうしろの視界の片すみに入れながら、窓のシミをぼんやり眺める。

となりから、母が大きく息をつく音が聞こえてきた。目を覚ました母は、夕飯の駅弁を食べると言った。

静かだなと思う。私の心を映し出すようにゆっくりと時間が流れている。

私はまだお腹はすいていなかったが、なんとなく一緒に弁当を取り出した。ひさびさに食べる大好物のおこわを、じんわりと味わってにんまりする。

どうでもいいおしゃべりをする集中力がある。昨日までとはえらい違いだ。思いつめていた心配ごとが軽くなった爽快さをかみしめる。

悩みがなくなったわけではない。状況は何も変わってはいない。でも、モヤモヤしていることも含めてそれでいいと思えた。

ずっと閉じ込められていた自分という檻から、とにかく自由になりたかった。「自分のことしか考えてない」と自分の身勝手さを責めていたが、どうも違ったみたいだ。私の目は、ずっと世界の中の誰かを見ていた。ときどきそれを忘れてしまうだけで、視野が狭くなって見失ってしまうだけで、私はいつも誰かのことを思っていると気づかされたのだった。

新幹線に乗る前に、仲間たちと交わした会話を思い出す。集まりに参加するかどうか悩んでいた。でも、あそこで自分だけの世界に閉じこもらなくて本当によかったと、まだ少し高揚した胸の中の感触を確かめながら思う。

きのうの夜、埠頭で買ったペットボトルのジュースが4分の1ほど残っていて、手元に重さとして存在しているのを感じる。あんなに泣いたのに、もう目元にはなんの重さも残っていない。

今、東京湾にはザトウクジラがいる。「ちょうど2年前に南の島で一緒に泳いだクジラが、私に会いに来てくれたんじゃないか」なんて勝手な妄想をしながら海を眺めていた。

ボロボロ涙があふれてきた。自分の大切な「好き」が、踏みにじられるように感じたのが何よりも辛かった。おそるおそる芽ばえた、ちいさくてかよわい双葉のような、なによりもいとおしい宝物を、いつくしみ守ってあげなくてはならない。そう思うと、びっくりするくらいの量の涙が出てきて、それほどまでに溜まっていた感情があったことに驚いた。

クジラの気配と東京の夜景に抱きしめられるように、わんわん声をあげて泣いた。ひとしきり泣いたらザトウクジラの身の安全を祈り、家に帰ってシャワーを浴びながら、残りの感情もすべて出しきるかのように再び涙を流した。

「水の力ってすごいな」
「あれ、私なんの話を書いてたんだっけ」

まあいいやと思い、おこわ弁当で満たされたお腹を感じながら、車窓から夜の景色を眺めた。

仲間たちとの会話の余韻と、となりでまた寝ている母の存在を、あれこれ深読みしたり疑ったりせず、ただそのまま「そういうもんだ」と素直に受け止めている。世界とは本来まっさらで、なんの色も重さも偏りもないのかもしれない。

「よかった、1人じゃないな。人や世界を信頼するって、こんな感じなんだろうか」
「ここからまた真新しい気持ちで、世界のひとつひとつに出会う旅がはじまる」

そんなことを思う旧正月の前夜だった。

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