朝顔事件

入学してまだ間もない小学1年生のころ、朝顔を植えて育てる授業があった。それぞれが自分の鉢をもち、種をまいて花が咲くまで世話をしていく。しばらくして、何本か出てきた朝顔の芽を「間引き」する日がやってきた。

担任の先生が、いちばん大きな芽だけ残してあとは抜くようにと説明する。

とても真面目で、いわゆる「いい子」でいようとしていた当時の私は、このときももちろん一生懸命に話を聞いていた。

ところが、間引きの意味を知らないひよっこは、どこで何を勘違いしたのか、生えている芽をひとつ残らず抜いてしまったのだ。

「あーーーー! ぜんぶ抜いちゃった!」
「いけないんだーーー!」

他の子どもたちの手加減のない大声が、体じゅうにグサグサと突き刺さる。またたく間に、騒ぎは教室の隅々にまで広がっていった。

生まれてこのかた、そんなふうにまわりの人から激しく間違いを責められた経験のなかった私は、ものすごくビックリした。どうしてこんなことになったのか、まるでわからない。ざわつく空気に圧倒され、目をシパシパさせながら、何も言えず、動くこともできずにいた。

抜いてしまった芽たちは、しんなりと弱々しく土の上に横たわっている。私は自分のあやまちを理解した。「朝顔を死なせてしまった」という事実がひしひしと感じられ、悲しくて申し訳なくて、胸がはりさけそうだった。

そこでハッと「私は先生の話を聞いていない子になってしまったんじゃないか」と気がついて、不安が押し寄せてきた。悪い子だと思われたのではないか、先生に嫌われたのではないかと想像するだけで、とても恐くなった。

さらに心配ごとは続いた。

「これからも朝顔の授業は続くのに、育てる芽がひとつもない私はどうしたらいいの? 校庭にはみんなの鉢がずらっと並んでいるのに、私だけ朝顔がないんだ……」

そう気づいたあとは、何が起こったか記憶にない。

その日から、私は自分の世界からこの出来事を完全に消そうとした。最初から自分の朝顔なんてなくて、私は何の失敗もしていないかのように振る舞った。朝顔が並ぶ場所には、絶対に近づかなかった。

親にも、このことは絶対にバレないようにした。いまの私に味方してくれる人なんて、ひとりもいないと思っていた。本当に誰にも、何も言わなかった。

胸の奥に詰まりを感じてどんよりと暮らしていたある日、担任の先生に言われて、みんなが朝顔のもとへ続々と向かう。私はいつものように「自分には関係ない……」と一瞬シュンとして気配を消していた。そのとき、頭の上から先生の軽やかな声が聞こえた。

「行かないの?」
「だって、私の朝顔、ないから……」
「え?見に行ってみてごらんよ。」

「朝顔ないのにどうしたらいいんだろう……」と、なんども心の中で繰り返しながら、しぶしぶみんなのあとについていった。

私は少し離れたところから、これまでずっと「ないこと」にしてきた朝顔におそるおそる目をやった。すると、私の鉢から、かわいい緑の双葉がちょこんと伸びているのだ。ほかの人のよりは小さくて頼りないけど、たしかに育っている。

「どうして……???」

先生は、私が抜いてしまった芽を捨てずに、本当は間引きで残すはずだった「いちばん大きいもの」を選んで植え直してくれていた。それだけでなく、すっかり気落ちしてこの授業から逃げていた私の代わりに、熱心に水や肥料を与えて、死にかけた朝顔を救い出してくれていたのだ。私はそれをまったく知らなかった。

さらに、大人になってから知った真相もある。

親も、この事件のことを知っていた。担任の先生から「ショックを受けている」と連絡があったのだそうだ。しかも「話を聞いていろいろ考えすぎてしまったのだと思います」と、私の失敗をフォローしてくれていたという。「悪い子だと思われたのではないか」なんて、完全に私の思いこみだった。


予想外のことが次々と起こって驚くばかりで、まったく余裕がなかった当時の私は、この出来事を「はずかしい失敗談」として記憶の奥深くにしまい込んだ。でも、そういう記憶ほど、かえって忘れられない。

そして大人になってようやく、これがただの黒歴史ではないことに気がついたのだった。

知らないところで、見守られている。知らないところで、許されている。自分の殻にかたく閉じこもった幼い子どもを、あたたかくやさしく、世界へと連れ戻してくれた大人たちがいた。この出来事を思い出すたびに、いつも目頭がじんわりと熱くなる。

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