周りを幸せにする人だから

大人になってからも、私は好奇心のおもむくままに、ゼロから新しい環境に飛び込む人生を送ってきた。

うまくいくことも、失敗することもあった。そういう経験をする中で、少なくとも心と体の健康を損なわないぐらいのペース配分が守れていれば、その先は「何をするか」よりも「どこにいるか」「誰といるか」のほうが重要だと思うようになってきた。

どういうときにうまくいくのか、自分が心地よくいられて幸せを感じられて、よいパフォーマンスを発揮できるのか。それをずっと考え続けていたら、あるとき「コミット」という言葉が浮かんだ。

私の探求の道のりは「自分がその場に所属している一員であることを強く自覚する」というスタートラインに気づくところから始まった。ごく普通のことだが「自分がそこにいることに100パーセント納得して腹をくくる」必要があると、遅ればせながら理解した。

その意識をもっていれば、そのときどきの状況で何をするのがベストか、まわりにいるそれぞれの人たちにどう接すればいいのかが、自然に見えてくる。

その答えを自分で考え、自分から行動を起こしながら「そのような思いをもってここに関わっていると表明する」「仲間に愛と尊敬を伝える」ことが本当に重要だと思った。自分にとってのあたりまえが、他の人にとっては全くあたりまえではない。思いや考えは意識して言葉や態度で表現しないと理解されないのだと、痛いほど思い知らされてきた。つまり、コミットとは「表明する」「伝える」という行動をめげずに焦らずに続けることだ、という結論に至った。

ずっとぼんやり考え続けてはいたが、ここまでせっぱ詰まって答えを模索せざるを得なかったのは、人から「そのままではあなたはひとりぼっちになる」とキツイ言葉を投げかけられて苦しんでいたからだ。もっともな指摘だと感じた。でも、こういうときは身近なところから、少しずつ変われるように努力をしていくしかない。

私はまず、そのときの唯一の居場所だった、アルバイト先の飲食店への向き合い方を見直そうと決めた。

その店には、よいところも微妙なところもあった。でも、それまでの自分にはないさまざまな発想を教えてくれたことは間違いなかった。

たとえば、以前に働いていたチェーンの飲食店にはものすごくキッチリしたマニュアルがあり、一律の完璧なクオリティでサービスを提供するために、すべてが厳しく管理されていた。それと比べると、はじめは個人経営のその店のオペレーションのすべてが「ゆるい=ダメ」と勝手にジャッジしていた。しかし、ギチギチに決められた堅苦しさのない、スタッフのおおらかな雰囲気が生み出す「居心地のいいカジュアルさ」というのも、お客様にとっても働く私たちにとっても、素敵な価値のひとつだと次第に感じるようになっていった。

欠点を見て否定するのではなく、そういうリスペクトできるところを大切にしようと決めた。けっして飲食店のスタッフとして優秀とは言えない私を快く受け入れてくれていることに、感謝しようと思った。

もっと正直に言うと「自分はこんなところで、ただのアルバイトで働くような人間ではない」という上から目線の勘違いをしていることに気づいてしまった。本当に心を入れ替えようと誓った。

一緒に働く仲間は、もともと私が新人のころからやさしくしてくれた先輩ばかりだった。一人ひとり「ステキだなぁ、大好きだなぁ」と思っていた。まだ自分だけなじめていないと辛くなることもあったが、そう感じたとしても、もう「どうせ自分なんて」と卑屈にならないようにした。この人たちだけは、何があっても自分から愛し抜くと覚悟を決めた。

あれからしばらく経ち、アルバイト先の仲間たちとももうすぐ3年の付き合いになる。

相変わらず仕事ができるとは言えないが、できないなりに、最初よりはずいぶん慣れてきて余裕がもてるようになってきた。「あきらめなければ変わるものだな」と思う。でもそれは間違いなく、おおらかな目で私を見守ってくれたその店のやさしさのおかげなのだ。

困ったときに頼らせてもらって、誰かに嫌な顔をされたことが一度もない。なにかあれば絶対に助けてくれる。オーナーにも仕事仲間にも、どんなに感謝しても足りないぐらいお世話になっている。

まさか自分が作ったクリームソーダを、若い女の子が「かわいい〜!!」と大喜びでInstagramにアップする日がくるなんて、夢にも思わなかった。本当に人生はおもしろいと思う。

そして、仲間たちとの仲がぐんと深まり、職場でみんなに会えるのが今の私にとって最高の楽しみになっている。これまで誰にもしなかった趣味の話もするようになり、一対一で、ときには全員で食事をしたり遊びに行ったりすることもある。「みんな大好きー!!」といつでも全力で叫べる。

ありがたいことに、仲間たちからは「あなたが来てくれたおかげで、店のメンバーの仲が深まって一層楽しくなった」と言ってもらえる。一人ひとりが私に向ける目が「こんなに愛をもらっていいのか?」とドギマギしてしまうほど、あたたかくて優しいのを感じている。

もちろん、相変わらず私の至らないところはあるだろう。「もっとああすればよかった」と反省することはたくさんあるし、余裕がなくてどうにもならないこともある。

でも、このアルバイト先だけではなく、家族や、他の仕事や、習い事などのコミュニティーでも、できるだけコミットを伝えられるようにと意識するようになった。そのおかげで、やっていることは特に変わっていなくても、明らかに今、数年前よりも健康で幸せに生きられていると思う。

昨年の終わりごろ、先輩のとある女性と、私の「推し」のアーティストについて話をしていた。私の話をニコニコと聞きながら彼女は、

「純子さん、本を書けばいいのに! その人ぜったい喜ぶよ!」

と明るく軽やかに、何でもないことのように言った。

「えー! 本は無理でも、ブログとかはまあ、書こうと思えばすぐできちゃいますよね。でも、彼は韓国人で日本語は読めないし……」

「そんなの、誰かが訳してくれるかもしれないし、何が起こるかわかんないから!!!」

「たしかにそうだよなぁ、何か書いてみようかなぁ」とそのときは軽く思った。でも、ひとりになって、いざ何をどう書こうか考え始めると、そもそも私の「好き」は無償の愛ではないのではと自信がもてなくなり、すさまじい不安がおそってきた。

そこで、次に会ったとき、彼女に聞いてみたのだ。

「このあいだ、私の推しの方について書いたら本人も喜ぶと思うって言ってくれたじゃないですか。それって、愛されていることがうれしいからですか? それとも、こんな見方で好きになってくれる人もいるのが新鮮だからですか?」

彼女は「うーん」と少し考えて、また明るく軽やかに、私が思いもしなかった答えをポンと手品のように取り出した。

「純子さんは、周りを幸せにする人だから」

びっくりした。

こんなに愛にあふれた言葉があるだろうか?

「それって、推しの方も私に会うほうがいいってこと?」としばらく照れたあと、彼女が私に贈ってくれたこの上ない愛がじわじわと沁みわたってきた。私は息がつまって、うまく返事ができなくなった。

たしかに、自分なりにみんなを愛そうと努力はしてきた。それが、こんな不意打ちのような形でお返しがくるなんて、まったく予想していなかった。

何ごとも永遠に続くものはない。執着してしまうのも、よいことではないとわかっている。でも、うれしい。この言葉があれば、ちょっとやそっとの辛いことは乗り越えられると思った。

全力で生き抜いていたら、2022年の最後にこんなに大きなギフトが待っていた。

2023年は、さらにその先の景色を見に行こうと思う。自分もみんなも幸せでいられるように、私にできることをやっていきたい。

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