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菅公、内裏に雷を落とすこと 弐の章

これまでのあらすじ

醍醐帝への謀反の疑いをかけられた右大臣・菅原道真。
道真は左遷された太宰府の地で困窮し病となり、まさに死を迎えようとしていた。
その時現れた雷神の使い・黒鉄によって道真は生きてもいない、死んでもいないという陰陽体になったと告げられる。
黒鉄は「都で見せたいものがある」と言うと、黒丸という黒狼の背に道真を乗せると、半ば強引に都へ連れて行った。
都では妻・宜来子は心労から体調を崩し臥せっており、息子たちは道真と同様に職を解かれ左遷されていた。
再び内裏で会うと「明日、迎えをやる。」とだけ告げ黒鉄は去っていった。
ちょうどその頃、醍醐帝は道真の死の報告を受けていた。
醍醐帝は若い時から父・宇多上皇、菅原道真、藤原時平によって行われていた政の執務に不満を感じており、道真左遷後は自身の手によって政を行おうと目論んでいたが…

菅原道真 すがわらのみちざね
文章博士、右大臣
宇多帝そして醍醐帝に仕えていたが、謀反の嫌疑によって太宰府に左遷となってしまう
死の目前で陰陽体となり死ねない体に突然なってしまった

黒鉄 くろがね
雷(いかづち)の神の使い
死を迎えようとしていた道真の元に行き、陰陽体となった道真を強引に都へ連れて行く

醍醐帝 だいごてい
道真が仕えていた帝
謀反の嫌疑が掛かった道真を太宰府へ流刑に処す
父・宇多上皇の信頼が厚い道真に頼りつつも、
政を自身の手で行いたいと考えていた

黒丸 くろまる
黒鉄が連れている神獣の黒狼



早朝、邸に来たのは黒丸だった。
この黒い狼は黒鉄を背に乗せるときは大きく、
また小さくもなり変幻自在に体を変えることができるようだ。
だが小さくなるといっても牛車を引く牛よりも大きくみえる。
道真は軽く身支度を整えると、おとなしく待っていた黒丸に近づいた。
「背に乗ってもよいのかな?」
黒丸は道真に背を向けて身体を伏せた。
おずおずと背に跨ると、初めは静かにそして滑るように黒丸は宙を駆け出して行った。
黒丸はどんどん速度を上げていく。
その度に顔を向けてくる。
「おい、落ちるなよ。」
と言われているようで、道真は必死に黒丸の毛を掴んだ。

随分と都から離れてきたものだ。
黒丸はついに歩きを止めたので、道真はその背から降りた。
緩やかな斜面から、山道を望むことができた。
草木が茂り、鳥の鳴き声があちこちから聞こえてくる。
数日前まで激しい雨が降り続いていたが、
昨夜は月も出ていたので今日は良い天気になるのだろう。
このような山の中に連れてこられた訳を黒丸に聞くこともできず、道真は草木の間を数歩進んだ。すると大きな木の脇から黒鉄が現れた。
相変わらず黒く光る皮ふと、大きな体躯。
白いと思っていた髪はなんと白銀色であった。
「さて通るぞ。」
と黒鉄は言うや、視線を眼下の山道に向けた。
つられて道真も山道を見ると、鷹を連れた一行が現れた。
数日前の激しい雨の後のため、ところどころに黒く濡れた土が顔を出しているが、天気も良いので鷹狩にきたのであろう。
よく見れば知った顔もある。
騎乗のひと、殿上人・源光である。

道真は内裏に事あるごとに通っていたため、幾人かの殿上人の姿を見かけることも珍しいことではなかった。
彼らを見かけるたびに道真の心は揺れ動いた。
道真の耳にも藤原時平や源光が帝に讒言を用いたのだという話が届いていたからだ。
道真にとってはありえない陰謀を作り上げた人物たちとそれを手伝った人々。
しかし源光に会ったとして何ができるわけでもなく、一方的に見ているだけなのだ。
そもそも何の力も道真は持っていないのだから仕方ない。
黒鉄はなぜ自分をここへ連れてきたのであろう。黒鉄の横顔を覗き見ながら道真はぼんやりと考えていた。
鷹狩り一行を黒鉄とともに見送っていたところ、一瞬馬の嘶きが聞こえた後、一行が騒がしくなった。
「殿!」
「光殿!」
「光様をお助けするのじゃ!」
「早う何をしておる!」
「殿、これをお掴みください!」
人々は大騒ぎである。
どうやら馬が沼に脚を取られて、乗っていた源光ごと落ちてしまったようだ。数日前の激しい雨のせいで元々塹壕があったが沼水を貯めていたらしい。
大雨で落ちた草木にさえぎられて、足元が分からなくなっていたので気がつかなかったのも無理はない。
泥まみれになった光は声も出せずもがき続けるが、返ってずぶずぶと深みにはまっていった。
「殿、こちらをお掴みくだされっ」
何かを掴み取ろうとした手も顔も泥にまみれ、バタバタともがく重い音だけがあたりに響いたが、一瞬頭が上がったように見えた後、声も出せず泥沼の中に源光は消えていった。
泥沼の表面は波紋一つ残さず、何事もなかったように元に戻っていた。
すべては一瞬の出来事であった。
鷹狩の一行は、青白くなったお互いの顔を見、また沼を見つめた。
皆無言で今起きた出来事を理解しようとしていたが、
「道真の祟りじゃ。」
一行からそんな言葉が聞こえてきた。

一部始終を見ていた道真は、全身に力が入りわなわなと震えだした。
人の死を目にした驚きと何故か出来事の原因とされる自分。
確かに源光は道真を貶めた人物だ、自分と同じ境遇を味わわせたいと何度思ったことか。
しかし泥沼に嵌り、もがき苦しむ最期を見てしまっては言葉もない。
大宰府に左遷された当初は許しはしないとの思いが強かったが、一族のため家族のため、自分たちの将来を少しでもゆるぎないものにするために避けられない政争もあるのだと頭で理解しつつあった。
しかし、なぜ堂々と意見を戦わせなかったのかと怒りが湧いた。
呪詛のように陰に隠れるやり方ではなく、道真が望むのは公明正大に互いの論を戦わせることだ。
そんな道真が怨霊となって政敵を死に追い込むはずはない。
ましてや怨霊などと言われる筋合いはない!
「私は怨霊などではない!」
道真は怒りを込めた声でそう叫んでいた。
「そうさ、道真殿は怨霊になろうはずがない。」
低く優しい声音が聞こえて、彼は背後を振り返った。
美しい二頭の白い鹿を連れた大きな白い鬼が黒鉄と一緒にいた。黒鉄と同じように雷の神の使いなのだろうか。
「我は晴嵐じゃ。
会いたかったぞ、道真殿。」
その体の色は光が集まったような白色で容貌は黒鉄とよく似ていた。
「確かに道真殿は怨霊ではない。
しかし黒鉄とこの晴嵐がここにおる。
あの者たちを跡形もなく消し去ることは、我らにできぬわけではない。
道真殿を怨霊などと二度と言えないように消してしまおうか。」
声は優しいが、ギラギラと光る目で晴嵐は道真の表情の変化ひとつも逃さんばかりに見つめた。
先ほど源光殿が亡くなったばかりだというのに、また次の神の使いが現れ、道真は大いに混乱した。
「貴方たちがどのような力を持っているか私はわからぬが、もしも呪えば私を都から追いやった者たちと同じになってしまう。
…そんなことはしたくないのだ。」
「なるほどな。道真殿ならそう考えよう。
しかしこれからも何か起これば、道真殿の怨霊と恐れられるであろう。
覚悟はよいのじゃな。」
「私には関わりのないことてす。
光殿は憐れと思えど、これは偶然でしかありませぬ。」
2頭の白鹿が急に飛んで行ったので何かと思えば、黒丸が林の奥から現れた。
「さて殿上人たちはそう思うかな。」
黒丸をなでながら黒鉄はつぶやいた。

その後は2人の神の使いと一緒に邸に帰ってきたが、突然の源光の死によって道真の心はあの沼の前に置いてきてしまったように気力が湧いてこなかった。
陽は傾き、空に朱色がにじみ始めている。
邸のはずれに古くからある小さな祠があり、祖父や父の代から事あるごとに酒や飯を奉じていた。
今日は風もないのに、祠の扉がカタカタと揺れていた。
邸の廊下に晴嵐が腰掛けると、2匹の美しい白鹿がその傍に立った。
道真はもう驚くこともなかった。
「今日は挨拶が遅れた詫びとこれが必要かと思ってやって来たぞ。」
そう言って晴嵐は酒の入った器を持ち上げた。
この風変わりな者たちとの酒の席で晴嵐は風神の使いだと名乗った。
なぜ風神雷神の使いが自分の前に現れたのだろうと道真は考えたが、今は疲れ切ってしまい自分から尋ねることはなかった。
今夜はこのまま眠ることができそうにないのだから酒を飲むしか仕方ない。
三人で廊下に座り、酒を飲み始めた。

誰も話そうとしない。
月が一段と傾き始めた頃、晴嵐が話し始めた。
「黒鉄は自分の手柄のように道真殿を褒めるが、最初に道真殿の詩と出会ったのは我なのだぞ。」
気配を感じて振り向くと、いつのまにか若い女人が後ろに控えていた。
気持ちが幾分落ち着いてきて酒を飲むだけに飽きていた道真は、晴嵐の顔を見つめた。
「齢十一。我らから見れば、人間の十一歳など赤子と変わらぬ。
その頃から道真殿は詩を詠み始めた。
我らは人のように哀しいとか、嬉しいとか感情はない。
しかし感情がない、と言っても理解できぬわけではないぞ。
人が感情に動かされた時、我らと交錯することがある。
天の意思に近づく唯一の瞬間なのであろう。
道真殿が月夜に"梅花をみる"と詠った時、庭に咲いていた梅の花が身をよじらんばかりに打ち震えて喜んだのさ。その時花びらが風に乗り、我の元までやってきた。
我はふと惹かれて、その花びらを追って来てみたら道真殿に出会ったというわけだ。
天の配剤には我らとて逆らえぬということさ。」
月を見上げたまま、晴嵐は語った。
「何より不思議なのは、たびたび人が天の理を飛び越えてくることだ。」
ずっと黙っていた黒鉄がそう続けた。
「黒鉄は道真殿に感化されすぎじゃ。
感情に飲まれるようになってしまったぞ。」
晴嵐は笑ったが黒鉄は不満そうである。
酒が空になったかと思ったころ、道真たちの後ろに控えていた美しい女が酒を運び、ふたりの使いと道真に酒を注ぐとまた後ろに座った。
「この白玉殿とて、道真殿に詠われたとあって姿を現したのだ。」
晴嵐は女を見ながらそう言った。
「この女人を歌った?そのような覚えはありませぬが…」
女が初めて口を開いた。
「私は道真様が太宰府に赴く際、"匂ひおこせよ梅の花"と歌われたあの梅の木でございます。」
女はまっすぐ庭に植っている梅の木をみつめていた。
道真が太宰府に左遷される時に残した詩が確かにあった。

東風吹かば 
匂ひおこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ

都を去らなければならない、二度と戻ってくることはないと覚悟して詠んだのだ。正確に言うと覚悟はしたが、理性と感情は別物で離れ難くすがってでも都に残りたい気持ちを込めたのだった。
愛した梅の木に、私がここにいなくなっても春を忘れず私と家族をいつまでも慰めてほしいと願い詠ったのだ。
「梅の花をことのほか愛された道真様に呼応して、私はこうして人の姿を持つようになったのでございます。」
女の注いだ酒はほのかに梅の香を思い起こさせた。
「主が去った都から、恋しさのあまり白玉殿は太宰府まで追いかけて行きたいと切に願ってなあ。
あまりの切実さに木花咲耶姫がいたく憐れと思召されて、一夜のうちに白玉殿を大宰府に連れていかれよと命じられたのさ。
その時にこの晴嵐が、白玉殿を風に乗せて運んで行ったというわけよ。」
「我らは三人はいつ何時も道真殿が新しい詩を作らぬかと待ちわびていた。」
「素晴らしいものは誰でも好むであろう。」
顎を上げて、少し得意げに黒鉄は言った。
「我らは道真殿の詩を待っていた。
お主はどんなに宮中が忙しくても、太宰府に流されても詩を創り続けた。
十一の時から周りでなにが起ころうとも、詩を創り続けた。
人は忘れてしまうからの。
己が何を掴んで生まれた来たかを。
人は道真殿を秀才というだろう。
当代一の文章博士だと思うだろう。
我らから見れば、自らの心に従い詩を創り続けたという道真殿の道程にこそ価値があるというものだ。」
道真の目に涙が滲んだ。
源光があのような死を迎えた今日、人を呪うなど考えたことがない自分の仕業と決めつけられた。
陰陽体になっても特別なことなどできないのに、人々は自分の何を恐れているのだろう。
「道真殿が思うているよりも、宮中にいる時から道真殿の能力を恐れていたのであろうな。」
と黒鉄は続け、
「人は怯えるものよ。だからこそ生き残ってきたとも言えるがな。
そして相手の力を大きく見積もるほど恐れが大きくなる訳さ。
自分が育てたものを自ら刈り取るのだ。」
今日はこの風変わりな神の使い達が、側にいてくれてよかったのかもしれないと道真は思った。
目元が熱くなった道真に向かって、
「道真殿は酒に弱いのう。」
晴嵐が軽い口調で言った。
邸の祠には白玉が用意したのか酒が奉じられており、カタカタと震えていた扉もいつの間にか元通り静かになっていた。

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