「謝れ」って矛盾してない?

子供の頃、よく混乱していた。「謝れ」や「謝りなさい」と言われた時である。これらの言葉の、ある「矛盾」が、気になって気になって仕方なく、何をしたら良いか分からず、混乱していたのだ。

大人になった今ではそんなことはない。社会に適応する中で、ある程度の矛盾は許容できるようになったからだ。だが子供心に抱いていた矛盾感は、今でも正しいように思える。

そこまで感じる「矛盾」とは一体何なのか、書いていきたいと思う。

叱られてもなかなか謝らない子供だった。子供なりのロジックでいかに自分が悪くないか言い訳を繰り返していた。ああ言えばこう言い、非を認めようとしないのである。結果として火に油を注ぎ、怒られていた。

ここまではよくある意固地な子供の話だ。たいていの子供は、怒られれば萎縮して、謝って一応の解決をみる。だが子供の頃の私は、それでも謝らなかった。それは、プライドが高くて我が強いからではなかった。「謝れ」と言われて謝る意味がどうしても理解できなかったのだ。

「謝る」が、「申し訳なさを相手に伝えること」だとは、子供ながらに知っていた。
つまりこうだ。
「謝るとは、申し訳なさが高まり、自然に発生する行為」だと考えていたのである。楽しいから笑い、悲しいから泣くのと変わりない。

私はその観点から、「謝れ」がいかに矛盾しているか、子供心に気づいていた。「謝れ」と強制されても、「申し訳なさ」は突然発生しないのである。

人間の精神構造が、そう都合よく切り替わらないと、誰でも知っている。それなのに人々は、その瞬時的な切り替えを期待して、「謝れ」と言っているように見えた。

「楽しい話をしているんだから笑えよ」や「悲しいことがあったんだから泣けよ」と言う人はいない。相手が望み通り笑ったり泣いたりしても、それが演技だとすぐに気づくからだ。それなのに、「謝れ」=「申し訳なく思え」は普通に使われている。

例えば万引き犯がいるとする。
彼は店長に犯行現場を見られ、店の奥にしぶしぶ連れていかれた。店長は「謝らないなら警察に通報するぞ!」と言い放つ。すると万引き犯は泣きながら謝りだし、反省するからそれだけは勘弁してほしいと許しを請う。店長は「謝ったんだから許してやろう」と、見逃してあげた。

この話、おかしくないか。
万引き犯はさっきまで悪意を持ち盗みを働いていたのである。それが店長に怒られたことで、突然反省の気持ちが発生するのか? 店長もそんなことは頭では分かっているはずだ。怒られて恐怖を感じる、なら分かる。だが、怒られて申し訳なさを抱く、というメカニズムがどうも理解できない。万引き犯は、罰が怖くて必死になっただけ、と誰でも推察できるはずである。なのに、なぜか人は、このような謝罪のやりとりを素直に受け止める。

子供の頃の私を混乱させていたのは、これだった。
「あれ、相手は僕に申し訳なさを感じてほしいのに、そんな急に命令されても心が切り替わる訳がないじゃないか。そんなことは相手も分かってるはず。なのに謝罪を求めてくる。相手はいったい何が望みで『謝れ』って言ってるんだろう……演技しろ、ってことなの? え、でも演技をしたら謝罪の意味がないよな……。それでは許されるはずがない。じゃあ僕はどうしたら......」
と考えだし、まるでプログラムのバグのようにフリーズしてしまうのである。

もちろん、道徳的には、反省の気持ちのない私が悪い。だが「反省しろ」と言われて反省するのは、野球嫌いな人が「野球を好きになれ」と言われて瞬時に好きになることくらい、不可能な要求に思えたのだ。

これが私の感じていた矛盾だ。
そして、大人になった今でも感じている。

同じように感じている人は多いはずだ。
ではなぜ、そもそも、人は謝罪を求めるのだろう。
それはいずれ別の記事で書くつもりだ。

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