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野球競技人生の振り返り

先週の初投稿をしたところ、100人以上の人が見てくださったようでありがたい限りです。
さて、今回からは自己紹介であげたキーワードをさらに深掘りをしていきたいと思います。前回もお話しした通り、僕の人生と切っても切れないものが「野球」。
振り返り始めたら長くなる気がしますが、良い機会なので振り返ってみようと思います。
追記:記事を書いてみたらとてつもなく長くなったのでまずは中学校までのお話です。笑

ー 北田純の球歴 ー
《羽合東小学校》 スポーツ少年団野球クラブ
《北溟中学校》 軟式野球部
《鳥取県立倉吉東高校》 硬式野球部
《明治大学》 硬式野球部
《JFE西日本》野球部

こうして振り返ると高校から大学の間で何があったんだと言うような感じですが、、、笑 幸せな野球人生を歩ませていただきました。

野球を始めるきっかけ

僕が野球を好きになったきっかけは、ありきたりですが小さい頃に行われていた野球中継でした。僕の小さい頃はまだ鳥取県でも日テレ系で巨人戦、サンテレビで阪神戦が毎日のように流れていました。北田家ではおじいちゃんとお父さんが阪神ファンという環境でした。小さい頃からおじいちゃん子でよく大相撲からのタイガース中継を見ていたのを覚えています。
ただ子供の僕には日テレ系でよくやる巨人戦での巨人の強さとかっこよさが衝撃的でした。松井選手や上原選手、高橋由伸選手などといった名選手たちが同じチームで躍動していて、かっこよく見え野球を始めようと思ったのだと思います。小学校1、2年の頃は毎日のように友達と近所の公園で三角ベースをやって楽しんでいたのを覚えています。

【原点である少年野球時代】

純粋に野球が楽しかった
僕が通っていた小学校では、スポーツ少年団の野球クラブに入るには小学校4年生からという条件があり、小学校4年生になったときに野球クラブに入部しました。初めてのポジションはライト。ただすぐにセカンドのレギュラーだった上級生が怪我をしてしまい。5月の試合ではセカンドで出場しました。その後はいろんなポジションを守りながら4年生の間は過ごしました。

ピッチャーのきっかけとなった体育館での練習
小学校5年生になり、周りの子と比べると方が強かったという理由でキャッチャーをすることになりました。その頃はまだポジションにこだわりもなく、「試合に出れるからいいや」という気持ちで過ごしていました。ピッチャーを始めたきっかけは体育館での練習。羽合東(はわいひがし)小学校では、雨の日には体育館を貸し切って練習をすることが多く、その日も体育館での練習でした。ピッチング練習を終えて、やることがなくなった僕は同級生の子とピッチングの練習スペースでキャッチボールをしていました。そのときに監督が「純、あと10分で練習終わりだからキャッチャー座らせて投げてもいいよ!」と言ってくださり、上原選手のモノマネをしながら遊び半分で投球練習をしていました。そうすると思いのほかコントロールが良くストライクばかり投げていることに気づいたコーチが「今度の練習試合で投げてみるか!」と話してくれました。

せっかちなピッチングスタイル
初めての登板ではリリーフで投げさせていただき、無失点に抑えました。自分ではそれなりに普通にこなせたかなと思っていましたが、後々聞くと投げてはマウンドから降りてホームの方向に歩み寄り、ボールを受け取り戻っては投げてという行動を繰り返していたらしく。試合を見ていた親御さんたちからは「純くんはせっかちみたい」との声が出ていたようです。笑
この後、社会人野球までやることになりましたが、僕の「ちぎっては投げて」ピッチャーのリズムに引きずり込むというスタイルはこの頃から無意識になっていたのかもしれません。。。

考える野球の原点
ただ僕たちの少年野球クラブはそこまで強くはなく。地区大会に出たことがないレベルでした。ただやるからには勝ちたいと思っており、練習も頑張り試合終了後には父に送ってもらう車の中で今日の試合はどこが良くてどこがダメだったというようなミニ反省会をしながら家に帰っていました。父は中学こそは野球でしたが、高校はサッカー部で野球の専門知識は持っていませんでしたが、僕はこの経験を通してスポーツや日々の生活から自分で考えて行動することの習慣がついたと思っており、密かに感謝しています。結果的に県大会に行くことはできませんでしたが、少年野球は原点となった大切な場所でした。僕らの卒業後、羽合東少年野球クラブは人数減少で近隣の学校と合同チームになり、名前も変え人数も増えたことによって強くなりましたが、今でも大切な原点の一つです。

【モノマネで身体の動きを覚えていった中学校時代】

1段階レベルアップした野球
中学校に入るとボーイズなどの硬式は選ばず、中学校の軟式野球部を選択。父と進学の際に話し合い、身体もできてないし学校の活動として全力で取り組むことを約束する。周りの友達は硬式に進んだ子もいたが結果的には僕は良かったと思っている。野球では上下関係もこの頃から学び(厳しくはない)中学3年生の大きな身体でホームランも飛び出る野球を見て、とても胸が高鳴ったのを覚えている。マシンでの練習や他の部活動と同じ時間でやる感覚は今までになくテンションが上がっていたことを思い出す。

悔しかったベンチ外
中学校では投手志望として入部し、隣町のチームのエースと切磋琢磨することに。その投手は小学校の頃から110キロぐらい投げていて、僕よりもはるかに球が速く1年生の頃から目をかけられていた。僕はそれに比べ対して運動神経もなく、普通の存在として入部した。夏の総体予選(3年生最後の大会)になる頃には練習試合でも投げさせてもらえており、先のピッチャーよりも良い結果を出していたのでベンチに入れるのではないかと思っていた。ところが、結果はベンチ外。ベンチを外れた理由は「準備や片付けの時の動きの遅さ。」何が関係あるんだろうと思っていたが、県大会では絶対にベンチに入りたいと思い、その日から練習以外のところにも目を配るようになった。

ピッチングの力加減を覚えることに
2年生になり、その頃には同級生の投手に負けてたまるかと練習してきた結果120キロ近い球速が出るようになり、エースとして投げさせてもらうことが多くなった。3年生の頃には4番も打たせてもらいキャプテンで4番でエースとしてチームを引っ張っていくことに。その頃から、軟式だったこともあり普段は7割程度で投球してもヒットはあまり出ず、ピンチになってもその時に全力で投げることによって打者が降り遅れると言う感じで抑えれることに気がつき始め、意図的に投げ分けをするように。打者の雰囲気を見極め投げるようになったのもこの頃から。

高校野球を意識するように
2年生の夏、高校野球を意識してみるようになり鳥取県大会が倉吉で行われており(鳥取県では地区で開催持ち回り制)決勝に進んだのが県立で進学校としてもそれなりの倉吉東と私立で関西から野球留学も多い倉吉北。僕は地元のチームを応援したくて倉吉東を応援していました。試合結果は4-10で倉吉北が勝利。優勝できなかった倉吉東高校を見て、ものチームで倉吉北に勝って甲子園に行きたいと思うようになり倉吉東に進学を目指すきっかけになりました。


甲子園のスターを真似する
中学3年生の時、甲子園に2人のスターが出てきました。斎藤佑樹選手と田中将大選手。甲子園はよく見てたけど、この2人は衝撃的でした。まるでマンガの主人公の2人。早稲田実業を応援してたけど、甲子園が終わった後こんな投手になりたいと感じてマネを始めたのは田中将大選手。周りの中学の部員たちからはマー君そっくりじゃんと言われてたけど、その通りでヒップファーストとかの感覚はここから得たと思ってる。←こじつけ

中学校までを振り返ったけど、ただの感想文です。笑
こんな時代もあったなぁと思いつつ書き進めてます。
次回は高校生以降について。高校はほんとに人生が変わった時期。いろんなことがあったからこそ今の自分がある。そう思います。
今回はここまで。また書きます。

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