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白い世界

 今年(2022年)2月末、New Mexico|ニュー メキシコに行ってきました。

 「ニュー メキシコってどこ?」きっとほとんど地理もピンとはこないだろうと思いますが、Texas|テキサスの左隣にある州だと言えば大体は想像いただけるでしょうか。California|カリフォルニアSan Jose|サンノゼ市から東の方にフライトで3時間ほどでしょうか、乗り換えがあったり時差があったりで実際はもっと掛かっているのですが、それくらいの距離だと思います。

 この旅行は友人ご夫婦と連れ立っての旅、国立公園を巡りながらハイキングを楽しもうというものでした。カリフォルニアも豊かな自然を楽しむ場所には事欠かないのですが、テキサスやニュー メキシコはまたそれとは全然違って荒涼とした大自然、そこを車でひたすら移動しながらの旅です。

 

 その旅の初日はカリフォルニアからの移動で終わり、真夜中を迎える前に就寝。

 そして深く眠り、暗いうちに夢で目が覚めたら4時になっていました。怖い夢でした。

 広く膨れあがった大洋に向かって桟橋が長く続き、そこを僕は一人で海に向けて歩いていました。両側には黒い海は静かに横たわっていました。前方の海も何も変わることはなく広大な黒い海。そしてふと後ろを振り返ると、黒い海は全体が大きく盛り上がって勢い付いて自分の方に迫ってきます。自分が今まで歩いてきた細くて白い桟橋は海に飲み込まれていって、その凶暴な海はすぐそこに迫っています。僕は驚いたのでしょうが、慌てはしませんでした。海水はどんどん迫ってきて、ついに僕の身体は海の中、というか海面に浮かび、流され始めたのでした。このまま静かに横になって、(僕の一生もこれで終わりかな……)とそう思ったところで目が覚めました。(怖い夢を見た)という記憶が残りました。

 こういう夢を見たのは、きっと母の他界のことが脳裏にあったからだろうと思います。

 母は今年1月半ばに 95歳で他界しました。折りしも日本はコロナに対する水際対策ということで、海外からの旅行者は大きく制限されており、カリフォルニアに住んでいる僕は帰国を考えることすらできません。もしまたたとえ成田に降り立ったとしても、そこからどうやって公共の交通手段を使うことなく故郷の長崎まで移動すればいいのか、それは考えるだけでも理不尽な、とても実現できそうにない夢でした。結局、日本というムラ社会から離脱した人間は、ことの深刻さはともかく、まず排除される。(この時期に母の命が尽きたら、最後に一目会いたいという希望も叶わないだろうな)と考えたりしましたが、そういうことは現実化するものです。

 それでも受け入れざるを得ない。僕は、母の葬儀に参列することも叶わず、四十九日の法要にも参加できず、この旅行に出ることにしました。その旅行を内心では母へ贈る鎮魂旅行だと考えたのです。

 この朝、長崎で法要に参加している弟にメッセージを書いて送ったのでしたが、書いている最中に、昭和の懐かしいメロディの一つが自然に流れてきて、どういうわけかどうしても僕の頭から離れない。

 ♪ すみれの花 咲く頃〜

 この曲が何度もなんども繰り返す。なぜこの曲だろう?とは思ったものの、どうしてもこの曲が自然に湧いてきて脳裏から離れないのです。後になって調べてみたら、『すみれの花咲く頃』がヒットしたのは昭和5年頃のことでした。この頃の歌謡曲は息が長かったのですね。母はまだ物心つかない少女でした。

 自分の母親が昭和の時代を生き抜いた姿は、この歌のメロディに沿っているのではないかと僕には思えます。心の底から明るさに満ちて、きっとこの先には幸せな世界が待っている、そんな夢に溢れたメロディが、この旅で訪れた白い世界を彷徨する自分の脳裏で繰り返し鳴っていました。

 しかし事実としては昭和の初めの日本は一気に戦争に向かう暗い時代を通過していたのです。僕の両親はまさしく青春の時代を戦争という悲惨な事変に向かっていた世代です、そんなに明るいはずがない、僕はそう思うものの、このメロディは全く違うことを語っていたのでした。(いや、時代は暗かったとしても、その時代を生きていた人々は案外に明るい気持ちをもって生きていたのかもしれない)そういう考えも浮かびました。それは母の若い時代の写真から受ける印象でした。

 後になって、この『すみれの花咲く頃』の曲について調べてみて詳しいことがわかりました。この曲が作曲されたのは 1928年のドイツでした。ベルリンで流行していたレビュー ショー『なんと驚いた 1000人の女性たち』のために作られた曲なのだそうです。それはフランスで演奏されてヒットしましたが、この時までの歌詞ではライラック(リラ)の花でした。それが 1930年に宝塚歌劇団の演出家によって日本に伝えられ、その愛唱歌として長く歌い継がれることになります。この時、ライラックは当時の日本ではほとんど知られていなかったために、日本人になじみの深いすみれの花に変えられました。

 母が生まれたのは昭和2年(1927年)ですから、この曲が宝塚で歌われ始めたのは母が3歳の時になります。以来ずっとこの曲は母の時代の曲として認識されている、昔の曲は息が長かったな、そう思います。

 母が生まれた当時の日本は国際社会に背を向けて、自己のイメージが肥大化し、アジアとりわけ中国大陸やアジア諸国に進出を謀り、日本を中心とした一大共栄圏を夢想するという無謀な国家でした。しかし、そういう時代の暗鬱な世情とは離れて、母は長崎の片田舎の港町で成長をしていったのです。

 

 さて過去の思い出から離れて、現在に戻りましょう。

 ここはニュー メキシコ州の White|ホワイト Sand|サンド国立公園という、まだ国立公園に指定されてから2年しか経っていないというところです。ホワイト サンド国立公園に行くには、朝ホテルを出て車で30分ほども走ります。すると管理事務所があり、中では土産物が売ってあったり、ビデオが流されていたり、そこで基礎的な知識を得た後に改めて車で先に進むと、驚くべき情景が広がっているのでした。

 こういう世界、経験ありますよね?そう、雪です。でも雪じゃない。それは不思議な世界です。経験から想像すると、雪でなければ塩。舐めてみれば塩っぽいだろうと考えながらも、それはしませんでした。とにかく何もかもが不思議な(倒錯した)世界です。僕たちはその不思議を愉しみながら、白い世界に浸り切ったのでした。

 この情景で、まずその地に立った僕は既知の世界の感覚を喪失しました。「え?これってどういう世界?」動きはすっかり雪山の凍える世界にいるようなぎこちなさです。でも気づいてみると寒いわけではない。ぎこちないのは倒錯した感覚によるものでした。それから白く限りなく続く世界の中で、とにかく歩き続けること、それが人類に与えられた試練ででもあるかのように、僕たちは歩き続けました。

 地質学的に(ということはこの国立公園のパンフレットで知りました)これは石膏です。説明では「太古の海からの石膏」とあります。

 ペルム紀にはこの地域は海でした。その海も数百万年前には次第に後退し、後に石膏の層が残されました。そして地殻変動が続き、その石膏石はあるいは隆起して山地に持ち上げられましたが、次には氷河が溶けた水に乗って、再び平地に戻ってくるのでした。平地部には浅い湖があって、そこに溶け込んでいた石膏の結晶は強風や強い陽光によって透明石膏となって乾燥した白い砂状のものになり、さらにそれは風に吹き飛ばされながら結晶が細かく砕かれ、さらさらの細かな白い砂になっていきます。こうして強い風が吹き付けているという環境の中で、石膏の砂はさらに細かく砕かれ飛ばされ、白い砂丘は常に形を変えています。

 しかしまたその白い砂の表面から 10センチも掘ると、下の方からの水分に触れた石膏は固まって、砂丘の底面を支えているのです。こうして白い砂丘は特定の地域に限定されて広がることはありません。また普通の砂丘に比べると、全体の形は比較的変化しないのです。



 ある夜、2時過ぎに目が覚めてそれから5時まで眠れずということがありました。その頃はすでに母は死の世界に向かって歩みを進めていました。その死の床に就いた母のことで思い出すことを少し書いておきたいのです。

 その頃のある日、近所をウォーキングで歩いていた時、ちょっと滑って左足の膝を道路端のブロックに打ち付けて、血が滲み、ちょっと足を引きずることになりました。

 それで思い出したことがあります。僕がまだ高校生だった頃、父は東京で勤務、姉は東京の短大に通っていた時のこと、長崎の実家で母と弟の3人で夜の食事も終わってテレビでも観ていたのか、居間にいたのでした。カーテンを閉め切った家の外では雨がしとしとと降り続いていました。その時、母が「あれ?」と聞き耳を立てたのでした。外から誰かが「ヨーコ、ヨーコ」と自分の名前を呼びながら家の回りを巡っているというのです。母は驚いて玄関に行って鍵を外し、ドアを開きました。そこには意外にも祖父がいたのでした。長崎に来たので、帰りにウチに泊まって行こうと考えたのだそうですが、事前にその連絡もしませんでした。当時はそういうことがよくあったのです。しかし玄関には鍵が掛かっていてドアが開かず、どうしようもなく「ヨーコ、ヨーコ」と雨の中で家の回りを巡っていたのだそうです。それで母がその弱々しい声に気がついて、無事に中に入ることができたことでした。そうして玄関を入った祖父は、そこで足を滑らせて膝を打ちつけました。「何でもないよ」と言いながら居間のソファに座って、ズボンを上げてみたら、打ち付けた膝には傷があって血が流れてました。

 (自分の膝の傷の痛みから)僕はそのことを思い出したのですが、死の床にある母のことを思っていたその時に、(もしかするとお爺ちゃんが「ヨーコ、ヨーコ」と今この時に呼んでいるんじゃないか)と考え始めました。僕たちの母は今、もう遠いところへ行こうとしている。その母は僕たちにとっては母親ではあるけれど、その遠い世界でお爺ちゃんは愛しい子を待っているのかもしれない、そういう気がしました。母は遠くからのその呼び声を聞いていたに違いありません。


 一面の白い世界、ここに生息する生き物は、まず樹木。それは砂丘の周辺部にのみ群生していますが、それから同様に散見される草と叢。砂丘は非常に早く形を変えるために草はそれに合わせて生育することになります。成長の速度が異様に速いのです。あるいは根が地上から数十センチほども高いところに位置している。そうしてでも生きていけるのでなければ、刻々と形を変える明日の砂丘で生き続けられるかどうか覚束ない。それくらいに砂丘は激しく変化を繰り返しているのです。

 また、そういうところに棲む動物たち。栗鼠や鼠の類ですが、これが一様に白いのです。太陽の強い光から身を守るために身を保護する知恵でしょう。それに、日中は動物たちは陰に隠れて動きはできるだけ少なくしており、餌を求めて動き回るのは夜に集中しています。

 そしてまた、ここニュー メキシコ州は僕たち日本人には忘れられない土地であるはずなのです。ここから少し北に行ったところにあるLos AlamosNational Laboratory|ロス アラモス国立研究所、ここでは軍事機密となる研究が密かに進められていました。それが 1940年代の世界を反映していたのでしょうか。原子爆弾。

 1945年8月9日、長崎の街に2個目の原子爆弾が落とされた時、18歳だった母は下関の木材業会社に勤めていたのですが、夏の休暇に入っていて、実家に帰っていました。長崎から 30 kmほど離れた海辺の町です。広島に継いで落とされた新型爆弾の恐怖に慄いていたことでしょう。母が運良く原爆の被害を逃れることができたのは、小さな運命によるものだったということができます。

 一方で、しかし、別の小さな運命によって(当時は知ることのなかった)僕の父の弟がその日、長崎の街に出掛けており、原爆の被害に遭ったのでした。僕にとっては(会い知ることのなかった)叔父にあたる人ですが、当時やはり18歳、医学を目指して長崎の医学専門学校に進み、その入学式が8月でした。その入学式に出席するために長崎の街を訪れて被曝したのです。爆風に飛ばされた叔父は脚を骨折し、原爆に冒された身体を引きずりながら北方の故郷に向かって歩き、30キロほど離れた知人宅まで来たところで保護されました。そこからさらに40キロほど先にあった実家の両親に、叔父が被爆してるという報が知らされ、両親はその場に急行したのだそうです。しかしそれから1週間後に叔父は亡くなりました。


 そして今、自分の前にあるこの広大な白い世界。ここで原子爆弾が研究開発されたという歴史的事実。ヒロシマに落とされた原子爆弾は戦争を終結させるためのものだったという理屈を言うことはできるかもしれない。百歩譲ってそれは主張されるかもしれない。しかし、その3日後に落とされた原子爆弾は冷酷な人体実験でした、それは不要な原爆投下でした。戦争は悲惨です。愚かな歴史を人類はこうして繰り返していくのでしょう。

 このホワイト サンド国立公園として認可されたばかりの白い砂の世界を彷徨いながら、人が道を過つことなく進んでいくことの難しさを思ったことでした。

 白い世界で母親に思いを込めた旅行の意味を見たように思い、そしてそれに続いて、7月になってからの一時帰国、これは母の初盆に合わせたものでした。7月24日、母が初盆で実家に帰ってくるのを迎えるために、サンフランシスコを発ちました。

 僕は自分史ということをこの歳になっていっそう考えるようになりました。もともと自分に対する思い入れが強かったのでしょう、若い頃から自分のことに思いを深くしてきたように思い、それが年齢を重ねるごとに強くなっていきました。その一方では、自分がいかに両親の生きた姿について無頓着であったか、今となっては深く悔やむばかりです。そういう僕は、この旅に向けてこれほど両親に思いを寄せたことはないと今になってつくづく思います。


 母が自分で編んだ写真アルバムのあったことを今回の帰省で初めて知りました。実家に並べられていた写真アルバム。几帳面に編まれた写真の中でも一段と古いアルバムには、母が結婚するまでの写真が(主に女学校時代のもの、日本舞踊を踊っているものですが)そこには暗く悲惨な時代に明るい気持ちで生きていこうとする姿の数々が活写されていました。

 そのアルバムにあった2枚の写真、これが若い母の生きた姿を捉えています。この記録を終えるにあたって、この2枚の写真をご覧いただきたいと思います。母は18歳、下関の会社に勤めて材木業に関わっていた、その女性たちに混じって小さな身体で材木を負う姿(後ろから二人目)、そしてしばしの休憩のひとときを捉えた写真(母は右端)です。

 この背景に流れているのは、辛い時代にあっても『すみれの花咲く頃』でしたでしょう。僕にはその歌声がはっきりと聞こえてくるのです。

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