「好きだった人」に対して思うこと

今日も天気が悪くて大好きな日光浴ができず若干不機嫌である。今日は好きだった人(あるいはものでもいい)に対して今思うことを書きたい

人間だれしも好きな人やものができる筈だ、恋人、先輩、友人、趣味…それぞれあると思う。ただ、その対象に熱が冷めた時あなたはどう彼ら彼女ら、そしてそれらをどう思うだろうか。

何も思わない、これも一つの正解だ。時々思い出して懐かしく思う、これも正解だ。私は「常に思うが心を乱されないように遠くからの目線で見る」ことに徹している。

例えば以前男女の関係にあった相手がいたとする。久々に相手から連絡がきた、大ヒットソングの「香水」のごとく何年かぶりの連絡だ。それに対してあなたはどう思うだろうか。

そっと連絡を消すだろうか、それとも連絡してきた理由を聞くだろうか。自分は後者であることが多い。身近に頼れる人がいなくて敢えて「頼るのも憚られる存在」である自分に連絡してきたということは取り合えず本人の中で解消し得ない何かがあったのだろうと思うからだ。

そんなことを考えていると大体他愛のない話だったり、ただ話し相手が欲しかっただけだったりという結末に陥る。そういうとき連絡を貰った相手はどう思うだろうか。私の場合は相手に何も期待しないことにしているのでそこでサッと要件を終わらせ自分の人生に戻ることにしている。

自分はある時期から、そばにいる人以外は「他人」であると認識することを大人になってから自分に課した。誰かにために行動を起こすこと自体は悪いことではないが、それを繰り返して自分を見失い摩耗することが増えたからだった。

人を助けることは悪いことではない。ただ、それは人を助けることにつながるのか?ただの暇つぶしではないのか?私である必要性は何なのか?考えたらきりがないので止めることにしたのだ。

声をかけられたら応答する、他愛のない話に終始する、踏み込んだことは聞かない、話したければ聞くがこちらからは聞かない。

ものに関してもそうだ。ただ、ものに関しては金で手に入ることが多いので今でも結構困っていたりする。部屋が片付かなくて。。。

25を過ぎて分かったことは「自分と、自分の少し回りを幸せにできればそれでいい」ということだった。それで十分生きている意味は説明できる筈だ。

そんなことを思いながら今日も抗不安薬を飲みつつ日々の生活に励んでいる。先日投薬量が増えたせいで少し頭がぼんやりするがこれくらいがニュートラルなのだろう。無事に水曜日の午前中も乗り切れそうだ

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