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25年目の「BABY BLUE」〜フィッシュマンズが聞こえる

僕が彼女と出会ったのは印刷組合が主催したデザイン・ワークショップだった。デザイン関連の会社から10人ほどの受講者が方南町にあった組合のビルに集まり、1日3時限3日連続の講義を受けたのだ。初日の1限目に「色の配色」という講義が行われ(「色」の「配色」って?)、RGBやCMYKなど基本的な事柄から講義が始まった。昼休みは、昼ごはんを食べに出かける人や、教室で弁当を食べる人などそれぞれだ。僕は持参していた弁当を食べ、歯磨きをして、散歩に出かけた。11月下旬の秋日和で陽射しが気持ちよかったが、少し肌寒く、神田川からうっすらと冬の匂いがしていた。

散歩が終わり、教室に戻ってみると、隣の席の女の子がデスクにうつ伏せて昼寝をしていた。彼女の長い髪のすぐ横にカート・ヴォネガットの「モンキー・ハウスへようこそ」の文庫本が置いてあり、その表紙の和田誠が描いた猿の目と僕の目が合い、猿が「こんにちわ」と言った。ご丁寧にもその猿の耳には毛が5本生えていた。
講義が終わり、帰り支度をしている女の子に「ヴォネガット好きなんですか」と声をかけてみた。
「僕は『スラップスティック』が好きなんです」
「私は『猫のゆりかご』」

たまたま早稲田にある名画座でジョージ・ロイ・ヒルの「スローターハウス5」が上映されていたので、
全ての講義が終わった3日目の帰り際に「よかったら一緒に観に行きませんか」と声をかけた。

そこから彼女とのつきあいが始まった。

彼女は長身で足が長くモデルのようだった。実際によく「モデルになりませんか」と声をかけられるらしい。街中を一緒に歩くと、男性からも女性からも「こんなに人に見られるのか」と思うほど、じろじろと見られた。
「注目されて嫌じゃない?」と聞くと、
「自分は透明だと思うようにしてるの、誰かに観られても、透けた私のその先を見てるんだって」
そう言っている時の彼女の儚げな瞳はいつもより透明感が増していた。

日常の些細なことで性格が合わず、僕等はよくケンカをした。新宿駅の改札口で「チャーハン」の作り方で揉めたことがあり、卵は先に炒めておくのか、あとでご飯に絡めるのか、などなどくだらないことを興奮して言い合い、通行人に指をさされ笑われたこともあった。
僕も彼女も自ら引くことをせず、最初は軽い口喧嘩だったものがエスカレートしていき、互いの本質を傷付けあうようになったが、2人ともやめることが出来なかった。そうして僕たちの生活は消耗し続けた。

ただ音楽の好みは似ていた。

フィッシュマンズを最初にはっきりと認識したのは、NHKの音楽番組で「MAGIC LOVE」を演奏しているのをブラウン管越しに観た時だった。やたらポップなレゲエソングを演奏していたが、彼らは慣れない広いスタジオセットとテレビカメラを持て余しているように思えた。清志郎みたいな声のどこか頼りげのないヴォーカルと居心地の悪そうなはにかんだ笑顔は印象に残ったが、自分にとって大切なバンドになるとは思わなかった。

それから数日後、彼女と映画を見た帰りに寄った池袋のHMVの視聴盤コーナーにフィッシュマンズの発売されたばかりのアルバム「宇宙 日本 世田谷」が置いてあった。POPに「FRICTIONのレックがギターで参加している」と書いてあり興味を持ったことと、先日のテレビ放送での彼らが自分の中のどこかに引っかかっていたのだろう、ヘッドホンを装着し、再生ボタンを押してみた。1曲目の「POKKA POKKA」のイントロが流れてきた瞬間、彼女のことや自分のことや過去や現在の様々な感情が押し寄せてきて僕の周りの空間が歪んだような気がした。ヘッドホンをしたまま立ち尽くしているのを変に思ったのか、彼女がとんとんと肩を叩いて「どうしたの?」と聞いてきた。
なんとか言葉を絞り出して「これ、聴いてみて」とヘッドホンを渡した。
彼女はしばらく聴いたあとに真面目な顔で親指を立てた。

それからも彼女とはケンカをした。言葉は武器になるのだ。容赦ない言葉の応酬に一緒に生活するのは無理だと何度も思ったが、疲れて横になっている彼女の柔らかで無垢な寝顔を観ると、ケンカをしていたのが嘘のように思えた。寝顔を見ているとやっていけそうな気がした。

フィッシュマンズはまず音にやられたのだが、聴いているうちにボーカル佐藤伸治の書く言葉がじんわりと僕の体内に蓄積されていくのに気がついた。

当時、僕は誰からも頼まれていないのに、何かに駆られるように、次から次に絵を描きまくっていた。作業の合間にアクリル絵具のチューブを並べて見ていると気分が落ち着いた。一番好きな色は「Baby Blue」。空にも海にも溶け込んでいけるその色をたくさん使って絵を描いた。
そのうち作品がたまり、友人の勧めでギャラリーを借りて個展を開くことにした。
「作品にタイトルがないのはどうでしょう?」とギャラリーのオーナーに言われたので、フィッシュマンズの曲名や歌詞から拝借した。フィッシュマンズに「BABY BLUE」という曲があり、青空をモチーフにしたイラストにその名をつけた。個展名は「歩きめループ」とした。これは「WALKING IN THE RHYTHM」である。

個展用に彼女をモデルに絵を描こうとしたのだが、完成しなかった。
「Baby Blue」の空を背景に女の子を描こうとしたのだが、どうしても空に溶け込んで見えなくなってしまうのだった。

彼女とフィッシュマンズのライブに2度行った。1998年、夏の「8月の現状」ツアーの日比谷野音と、その年末の「男達の別れ」ツアーでは「LONG SEASON」という30分超の代表曲を演奏するというのでこれは観なければと最終日12月28日の赤坂BLITZに出かけた。
「男達の別れ」ツアーはベースの柏原譲が脱退を発表していてその日が最後のライブだった。そのせいなのか赤坂BLITZはどこか湿っぽかった。ツアー最終日の祝祭感や開放感はなかった。佐藤伸治はMCで「これからもバンドは続けていく」と言っていたのだが、彼の焦燥と孤独が逆に強調されたようだった。そんな何かの終焉さえも感じさせるメンバーの佇まいとは裏腹にフィッシュマンズでしかありえない唯一無二の、ライブで研ぎ澄まされた楽曲達が演奏されていった。

そして最終曲「LONG SEASON」。この曲の演奏が終わったあと沈黙ともいえる間があった。僕達はこの40分間に凝縮された凄まじい音の世界に圧倒され、茫然自失になり、どうしてよいのか分からなかったのだ。壮大な魂の鎮魂歌のようだった。そんなライブは初めてで、今にいたるまで最後である。僕と彼女は無言のまま赤坂BLITZを後にした。

それから年が明けて、佐藤伸治は逝ってしまった。

彼女とはそれからしばらくして、結局、悲しい別れをした。
「Baby Blue」の青空を仰ぎ見ると、時々、今でも、彼女の、透明な寝顔を思い出す。

フィッシュマンズの音楽はダブ処理をしてある。実体は何処かへ行ってしまって、白日夢のような、幻のような残響を四半世紀経った今でも僕らは追いかけているのだ。

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2022年。アメリカのフィラデルフィアのPine Baronsというバンドが全曲フィッシュマンズのカヴァー・アルバムを出した。歌詞は英訳である。ドリームポップの文脈にフィッシュマンズの曲を落とし込んだプロダクションで「自閉」が強調されているようであまり好きになれなかった。

2023年。オーストラリアのシンガー・ソング・ライターのAaron Joseph Russoが「Baby Blue」のカヴァーをシングルでリリースした。こちらは流暢な日本語でオリジナルに敬したアレンジである。
愛犬の吠え声をサンプリングのユーモアもありつつ、ナイトクルージングのイントロが聞こえてきたり、開かれた楽曲になっていて素晴らしいカバーだと思う。

フィッシュマンズの描く世界は一見、内省的だったがどこまでも外に向かって開かれていたと思う。
だから今でも(世界中の)多くの人に聞かれているのだ。

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